見れない映画18:二(三)つの『四十日と四十夜のメルヘン


0.契機

前回読んでいた、町屋良平「私の小説」所収「私の大江」の続きで、青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(以下、『四十日…』)を読む。


『私の大江』で、「他者」としての社会性を持たず小説家としてデビューした町屋は社会の代わりに「数多のフィクション作品」から「私の言葉」を培ったと告白するのだが、その「数多のフィクション」の例として、未整理の「2000年代の日本文学の世界文学的業績」を自身を小説家たらしめた糧として挙げているのだが、更に私がこの小説を読み終えた3日後に書肆侃侃房のnoteで公開された『小説の死後(にも書かれる散文のためにーー』の序文には、どうやら小説というよりもむしろ批評の試みたる「私の大江」に綴られた展望のかなり具体的な続きが展開されたようなのだ。

このプロジェクトで青木の「四十日…」には特権的な地位を与えられている。即ち、町屋によれば今や再読も難しく当時の文脈も失われた「未整理の世界文学的業績」の中で、それは彼自身が最も執着した「傑作」らしく、「その一作をえんえんと再読しながら、いくつかの作品を読み直し、普遍的に「小説とはなに(どう)か」を考えること。それがこの「遅きに失した仕事」の目指すところである」と、その野望に相応しい作品のようだ。

町屋が作品批評をして、「作家自身」に必要な「自分が何を書いているのか」を知る手段と呼ぶその前提に私個人は郷愁に近い共感で強く惹きつけられ今これを書いている。彼によれば、その「何を書いているか」という意味付け(価値づけ)は、商品価値とは切り分けられた何からしいのだが、私は共鳴の中でその何かは商品価値というか、消費可能なものではなく、登場人物の共感可能性でも、作品自体の社会的価値でもなく、作家自身の知らないものとしての作家が「自分が何を書いているのか」という問題であると個人的な妄想を膨らませ、それ自体を探求するような読みの可能性と、それを探求する人たちの共同体というものがそれから目指されることも可能ではないかと勝手な夢を膨らます。

ところで前回の続きだが、私は町屋良平になにを期待しているのだろうか。

「だからこそ私のデビュー直後は男性性の内声に拘った。実り豊かな二〇〇〇年代小説がすでに書かれている日本語で、私が私としてできそうな新しい提出物は男性一人称しかないのではないか、とどこか達観していた」

町屋良平『私の大江』、『私の小説』河出書房新社

「私の大江」にはこのような一説があるのだが、これに限らず「私の小説」にはどの作品にも、現代日本の男性小説家として当事者性の呪いにがんじがらめにとらわれた「町屋良平」像が色濃く沁みている。それがどれだけペンネームだとしても、その(私)小説内の語り手としての「男性一人称」小説家像は、それが「町屋良平」であることをいちいち求められるあまり、ある意味で身元が割れ続け、どこにも逃げ場がないというのは町屋というより、当事者性の過剰な重視に呪われた時代を引き受けた一人の作家の運命かのように、彼がそれを不憫にも背負って立つように見える。しかし更にその運命の突き抜けた先として、批評をもした小説として他の人の小説を読む、まず一編読むと提案された作品が青木の「四十日…」なのだが、(曖昧なかたちでではあるものの)、これは男性作家が書いた女性の一人称小説なのだ。

ここまで、私は古谷利裕なり、坂口恭平なりを通じて読もうとしてきた何かが、即ち私小説として「私」が私を遊離して私から逃げ去る方法なのだと先日わかった。
一方、それを決してせずに「私」に向き合ってきたかに見える町屋がその先で批評に手をつけて、批評と名乗りつつ小説である中で試みることが、私の勝手な期待に沿うならばおそらくこういうことが起きる。女の話を書いた男の話を書く青木淳悟を読む町屋良平は最後、男性一人称を捨てるか、その手段を発見するのではないか。

***

それでやっと、青木淳悟の小説を読み始める。ところで、「四十日…」には、新人賞受賞時、単行本、文庫本と三つのバージョンがある。
町屋の「序文」でも、青木のWikipediaでも紹介されている有名な事実だが、青木のデビュー作は2003年新潮新人賞でのデビュー当時、選考委員の保坂和志だけが「これはピンチョンなんだ。」と強く推薦して受賞に至っている。しかし、単行本化に際して大きく書き直された末、「ピンチョンみたいなところ」はなくなり、「青木淳悟になった」と保坂はその印象の変化を文庫本のあとがきに書き記している。

こういった動機を背後にして、青木の小説を読むこの遊びの目的は三つある。
ひとつは、『四十日と四十夜のメルヘン』の複数バージョン読み比べによって、そのどこかに行ってしまった「ピンチョン」を探すこと。しかし、それはアメリカのポストモダン作家トマス・ピンチョンその人、であってはならず、むしろ保坂によって曖昧に示唆される「ピンチョン」でなければならない。つまり、青木とピンチョンの類似性など恣意的に探しても仕方がないのだ。保坂が「ピンチョン」と呼ぶ小説の特性の中身は何かということはもう少し突き詰める。その突き詰めた先に二つ目の目的がある。
二つ目は、町屋の言葉を借りれば、本作の「傑作性」の探求である。町屋の「序文」には、傑作と名作を区別する興味深いパートが散見される。「十年、二十年、五十年、百年読み継がれる小説としての「可能性」」として定義される名作性には、その小説を通してみられるある種のヒューマニズムが賭けられている。といってそれは、小説の社会性というか、私としては今はざっくりと、悪き小林秀雄の紙背に潜む「内面」のようなものを想定するのだが、対して町屋は青木のデビュー作の技術的なチグハグさを根拠に本作を、「「文学」の基盤からとおく旅だちどこぞへと勝手に行ってしまったような未知」」と評する。
つまり、そのようにして狭義の小説の作法からはずれた本作は「こわれた小説」であるようなのだ。そしてその一様ではない崩壊加減がどうも本作を傑作たらしめているというのが私の期待である。つまり、この「傑作的崩壊」とも呼ぶべき特性を見定めることが二つ目の目論みにあたる。
というか、ここまでは、普通に青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」を読むだけのことである。三つ目の目論みは、彼がどのように書き直すかを読むことにある。ここに①と②のバージョンを比べる目的がある。というか、実際には一つ目と二つ目の目的を達する手段として三つ目の目的がある。本作には、小説を書きあぐねた者が何度も同じ日の日記を書き直すものとしての日記のモチーフがあり、保坂の批評には、そこに小説からはみ出す何かを祝福する節がある。それで、そのはみ出す何かは何なのか、というところに
三つの目標の答えが集結する。それがこれから読むものへのささやかな期待である。

1. 前提

『四十日と四十夜のメルヘン』のあらすじなるものをまとめるのは非常に困難で、この小説はまず読めない。ともあれどういう本か捉えるための試みとしてまとめようとはしてみる。
東京都杉並区下井草の都営住宅メイフラワー下井草に暮らす一人称主人公の自宅ポストには500枚近いチラシが詰め込まれている。この人は、チラシのポスティングのアルバイトをしており、かつては小説の創作講座に通っていた過去がある。
この一人称は、男と暮らしてること、隣人のカップルと、また作中作「チラシ」と相似をなすこと、短編集「匿名芸術家」に併録の表題作には、小説家志望で大学生くらいの若い女性が「四十日と四十夜のメルヘン」を新人賞公募に出すまでの日々が綴られており、こうした断片から、「四十日と四十夜のメルヘン」の視点人物がどうも20代前半の女性らしいことが示唆される。これは特定はできないのだが、一旦これを「彼女」としてみる。(古谷利裕の書評もこの根拠としている)

彼女は「チラシ」のポスティングの仕事をしていると同時に、自宅に大量のチラシを溜め込んでいる。かつて通っていた小説の創作講座で、はいじま みのる(拝島実)という講師と個人的に自宅を訪ねるほど親しい仲になっており、彼の「裸足の僧侶たち」というデビュー小説についてのことが説明される。それは「ユルバン記」という中世フランスの修道院を舞台にした修道士の日記をもとに、七年間の記録を七日間に無理やり縮めて「超訳」した幻想小説であるようなのだ。(そしてその元の日記はどうも、仮に作中で「護符」と呼ばれる布教のためのチラシの裏に書かれていたらしい)
これに触発される形で「彼女」も、はいじまにうながされて「新しい小説」なるものを書き始めるがなかなか進まない。進まない代わりに、書きあぐねられた小説の断片と混じり合う形で、7月4日(金)〜7月7日(日)の日記を何度も(断片的だがおおむね五回)書き進めている。

一読してわかる、というか文庫版の保坂の解説でも触れられていることだが、本作はある種の循環構造を呈している。というのは、この話はループものである、と最後まで読むとわかるという謎解きの仕掛けのようなものではない。
つまらない一面的な解釈をすれば、本作におけるループ構造とは、一つの世紀末的な気分を反映しており、作中にもノストラダムスの大予言が登場するのだが、七月四日〜七月七日の四日間の曜日の組み合わせに該当する1999年に世界が終わり、1999年の七月にできた時空の迷路に閉じ込められるという話に読めなくもないが、一旦はその解釈を避ける。

小説をいくつかの筋に切り分けると、

1:語り手一人称の生活(後から男と同棲していることがわかる)
2:はいじま みのるの小説「裸足の僧侶たち」
3:「裸足の…」のネタ元「ユルバン記」
4:語り手の書いている小説「チラシ」
5:語り手の隣人カップル

という分け方が一つには可能だと思うが、それぞれポストに詰め込まれたチラシによって1と5が、チラシの裏に書かれた物語めいた記録によって1、3、4が、住人の家族構成によって1、3、4とが互いに掃除の構図を持っていることで連絡し合っておりこれらが循環構造めいた仕掛けのような何か、つまり一見直線的に見える散文を書かれた順に読み辿っていくとまた同じ場所に戻ってきたように錯覚し、迷路を歩かされたようなめまいを味合わされる、そのような形でこの循環構造めいた仕掛けは経験される。
だからそれは最後まで読むと、「実は循環している!」というほどすっきりしたものでなく、経時的に展開されるかに見える小説メディアが、配置の相似によってふいに表現の中に作り出す空間的なパターン、のようなものが私にはひとまずそう読める。

ここまでの要素は、『四十日と四十夜のメルヘン』の三つのバージョンにいずれも共通する。それでやっと書き直しの話にはいるが、「書き直し」というモチーフ自体が本作の作劇に直接関わる。先に触れたように、作中の「彼女」は五回、同じ4日間の日記を書いているのだが、書き直すということ自体がどういう意味をなすのかという話まで含めてもう少し考える。

2.書き直し

『匿名芸術家』所収の新人賞受賞バージョンと、単行本バージョンを比べてみると、書き直しの意図にいくつかのパターンがあることが見てとれる。ともあれ、具体例を見てみる。

「四階建ての公団住宅メイフラワー下井草にエレベーターはない。わたしはポストを手荒く閉めて階段を使った。まとめて入れられたチラシにはいまいちピンとこないことばかり書かれていた。「プライベート」「日本人専門」「交通費込み」ーそしてこれが一番わからないのだがー「メルヘンチックな一夜を貴方の部屋で……妖精たちは貴方からの電話をお待ちしております。
階段を上がる。二〇二号のドアにはNHKと国勢調査と赤十字社員のシールが貼られている。三階の二部屋には誰も住まない。踊り場を折れるとわたしの住む四階だ。階段から部屋までは短いコンクリートの外廊下が続く。と、隣室のアルミ格子に挟み込まれた新聞が肩に触れて床に落ちる。ああ、スーパーの袋を抱えているのでため息が出る。拾い上げてみると日曜版がやけに分厚い。ー自宅のドアを閉めてから、それが生まれてはじめての盗みだと気づいて、わたしはひとり驚いていた。」

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』、『匿名芸術家』

「地上四階建ての都営住宅メイフラワー下井草にエレベーターはない。わたしは一応チラシに目を通してポストを閉め、階段を使った。
最近知ったのだが、二〇一号室にはカトウという、たぶん男性が住んでいる。二〇一号にはサイトウ・ヨシシゲとかいう人。三階の二部屋には誰も住まない。粉の吹いた踊り場を折れるとわたしの住む四階だ。
ここの床にもうっすらと粉が吹いていて、ごく短い廊下にグリーンの鉄ドアがふたつ並んでいる。四〇二号に住人はいるが表札はない。と、その隣室のアルミ格子に挟んであった新聞が肩に触れ、ぽとりと床に落ちてしまう。スーパーの袋を抱えているのでため息が出る。しゃがんで拾い上げてみると新聞がやけに分厚い。日曜版の新聞だった。
自宅のドアを閉めてから、それが生まれてはじめての盗みだと気づいて、チラシでふくれ上がった新聞を胸に押しつけながら、わたしはひとり驚いていた。」

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(単行本)

チラシの詳細についての描写がなくなり、建物の部屋ごとの特徴が住人の名前に起き変わる形で説明が簡略化されている。情報がすっきりすると、文章の意図が明瞭になった気がして味気ない。ここまで、かなり普通に文章の書き直しである。
一方、建物の古さを示す「粉が吹く」描写が執拗に繰り返され、ここの意図は不明瞭だ。
それから、新聞を盗むところでは「ぽとりと」「しゃがんで」といった細かい描写が加わってむしろ冗長になっているが、これは前半のすっきりした表現の後に、新聞を手に取るところで時間が間伸びして読めるようにされて、視点人物の「うまれてはじめての盗み」に緊張して間伸びした時間の緩急を作り出す演出効果を発揮している。小説としての読みの時間に演出をつける意図の明瞭な引き伸ばしがある。
こうした例を基に、

「意図の明瞭な簡潔さ」
「意図の明瞭な冗長さ」
「意図の不明瞭な冗長さ」

という視点で、書き直しの意図をできるところまで分類してみよう。
まずは「意図の明瞭な簡潔さ」について「整理」、「削除」、「再構成」という操作が考えられる。上記の部分前半の描写の交通整理は「整理」の一例に数えたい。また、元のバージョンにあった記述がごっそり「削除」されたところもある。
例えば、メーキューという高級スーパーの説明をする件で、経営者の背景を説明するくだりには本筋の仕掛けには関わらない以下の描写が抜けている。

「彼は「商売人」の枠に収まろうとしていない。「社長」などという役名もそぐわないが、単に「事業家」と呼んでしまうのも躊躇われる。「高級スーパーの仕掛け人」とすると雑誌の特集記事めいてくる、とにかく「フランス人経営者」には得体の知れない響きがある。そこには「フランス」と「フランス人」に対する微妙な評価のズレも一役買っていそうだ。そもそもの元凶は数多あるフランス小話などに帰せられるかもしれない。ー五歳の娘が家に可愛らしい男の子を連れてきた。と、母親が娘に耳打ちする。あの子フランス人だって? 絶対に足を見せるんじゃありませんよ」ーフランスという国の栄光とはうらはらに、その国民が好意的な見方をされることは少ないようなのである。」

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』、『匿名芸術家』

冗長だ。「フランス」とか「フランス人」についてのほとんど個人的な偏見にも満たないイメージが語られていてなくても困らない話だが、なくなってみると寂しい。こういうものが消されてすっきりとして読みやすくなるとき、読みやすくなること自体が、小説にどんな価値をもたらすのか疑問に思う。

もうひとつ、整理の明瞭な例が「構成」をいじるところにある。
明確なところでは、はいじま みのるが『裸足の僧侶たち』を書くにあたって参考にした『ユルバン記』についての説明が単行本版では後ろにずれている。これは、先に「わたし」の日記を出してしまったほうが、これは小説を書く小説であり小説を書きあぐねた「わたし」が日記を仕方なく書いており、小説が書けなくて日記を参考にする動機としてはいじまの『裸足の僧侶たち』創作秘話が登場する、という流れのほうがが読みやすい体と推察する。それで『匿名芸術家』では逆であったのが、単行本版では、『ユルバン記』→日記の初登場の順番になっている。そのほうが「わたし」を中心にしたメインの語りにおいて、『ユルバン記』の果たす役割が明瞭である。
しかしどう考えても実際は逆なのだ。元のバージョンのほうが自然なのだ。「わたし」が小説を書き始めたのは、はいじまの作家としての経歴を知った後でないと、動機が動機として作用しない。それはつまり『四十日…』というのは、「わたし」がやがて小説を書き始めるという小説で、そうした結末ありきであれば、その結末に向けてすっきりした説明を可能にする語りとして、この改変はわかりやすい。だから、そのわかりやすさというのは、わかりやすいという実用である一方で小説にとってそれはなんなのだ。

「意図の不明瞭な冗長さ」の前に、ささやかな「意図の不明瞭な改変」がある。冒頭のアパートの住人に名前がつけられているのは、描写を省く意図の可能性があるのでまだいいとして、スーパーの売り物の値段がことごとく変えられていることも、まあ発表時点の物価の影響かもしれないと思えなくはない。
明らかに歪なのは、「わたし」の勤め先のグーテンベルクのスタッフ名が「村山」「小川」「豊島」から「山崎」「小山」「須永」にそう入れ替えされているところだ。それぞれの役割がほとんど変わらない所から見てもこれは意味がない。書き換えること自体を遊んでいる節がある。
また、明確な意図の不明瞭な冗長さとしてこういうものがある。

「そうこうするうちに「控除証明書」と書かれた一枚の短冊を、サルトル著『水いらず』の中に見つけた。ハガキの左半分が切れているため何を控除してくれるものかはわからない。その紙面には「海上火災」という文字が見える。チラシの海に火を落としたというところか。
わたしはポリプロピレンの箱を恨めしげに見つめた。ここに選挙入場券が紛れ込んでいることは絶対にない。この箱の中には「グーテンベルク」の自社チラシと自治会名簿、コードを引き抜いた電話機、フランス語会話のテキストが入っているのだ。四つに切ればわたしの体も入るだろう。夢の中の死体は時間警察だとか何とかと名乗る男たちによって裸にされる。奴らはふたつにしたものを揃え、もう一度刃を入れ、わたしの四つの死体を……。」

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』、『匿名芸術家』

ふと見ると、本のあいだに紙が挟んであって、選挙入場券かと思って引き抜いてみたら控除証明書だった。控除証明書という一枚の短冊を本のしおりにしていたのだ。ハガキの左半分が切れていて、「控除」の前に何か言葉がつくらしいのだが、これでは何を控除してくれるものなのかまったくわからない。その紙面には「海上火災」という文字が見える。チラシの海に火を落としたというところか。ーそれは冗談だとしても、会社名は三井海上だったか住友海上だったか東京海上だったか、日本海上火災保険なんていうのもありそうだし、単独で「海上火災」という言葉だけを出されると何となく不思議な感じがするな、そんなことを考えながらハガキを裏返してみれば「=世界人類は平和でありました=」とあって、それを書き、また二重線で消したときのことを思い出したりもしたが、とうとう選挙入場券の右半分は見つからなかった

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(単行本)

書き直した方が冗長になっている一例である。「選挙入場券が見つからなかった」というのが結論ならばまだしも、この後にもう一段落続く。ここに詳細が加わり、文章意図自体が不明瞭になっていくことの意図がいまいちわからない。青木の小説を読んでいるとこうした必要なのか必要でないのかわからない細部に迷い読み、筋を見失うことがままある。

また、あらためて、

「意図の明瞭な簡潔さ」
「意図の明瞭な冗長さ」
「意図の不明瞭な冗長さ」

という基準にさらに数ページに渡るような大きな改変に照らしたときに、大きな改変については以下のようなことが考えられる。
ほとんど冒頭部分で、物語の結末を示唆するような「エピローグ」に触れた記述が、単行本版ではごっそり消えているがこれについては後述する
後半の、作中作メルヘン『チラシ』パートでは、「グーテンベルクが芸術の本質は宣伝と曰うパート」、「四人の孤児がオペラ座を訪れるパート」、「絵の中の三人のニンフが戯れるパートの後半」がごそっと抜け落ちている後半の二つについては、冗長ゆえにカットされた、「芸術の本質」については作品テーマについて直接的に語りすぎて野暮なので意図の明確な冗長さ(迂遠さ)が加えられたと見なすこともできるだろう。
また、小説として具体的に書かれることがなかった『チラシ』の展開を箇条書きにしたパートも単行本ではなくなっている。これはむしろ、小説が書けないことについての小説であることを際立たせるためには残しておいた
そこでまた、最終盤にかかってニコライ先生の「レニングラード包囲戦で死を決意したバフチン先生への心的接近」を試みたが故のドストエフスキー『罪と罰』の誤読独白が語られる。

というふうに、いくつか具体的な改変を羅列してみて、結論というのには辿り着けない。

一つ言えることがあるならば、青木は恐らくある水準までは、文章の意図が明瞭になるように整理をしているが、そこからはまたある一定の不明瞭さへと小説全体を誘うように不明瞭さそのものが持つ質感を調整している。それで先に述べたように、ミステリのように明白な結末や論文のような結論があるわけではないから、意図を明瞭にして結末にたどりつことに意味がないというのが小説であるという気がしてくる(それを述べるために必要な分量であったと思いたい)。その線で、その先を思考したい。

3. ピンチョン

ピンチョンとは何か。保坂が文庫版の解説で説明しているが、議論が冗長になるので一旦迂回して、「小説に明瞭な意図は必要であるか」という先の思考を引き継ぐ形で、私なりのピンチョンを提案したい。

ピンチョンの「競売No.49の叫び」は改めて説明するまでもないかもしれないが、陰謀論についての小説である。元カレの遺産を相続することになった主婦エディパ・マーズは、彼の遺産に紛れた郵便切手に描かれた消音器付きラッパのイラストに導かれて、中世ヨーロッパから現代アメリカまで暗躍する秘密結社「トライステロ」の存在を幻視する。その目眩は、街路を歩く彼女の目に映るものすべてにトライステロが意味を与えているのではないかと疑うほどまで妄想の熱を極める。
ともあれ、エディパは自らが陥った状況に対して以下の四つの可能性を診断として下す。

・すべては偶然の一致である
・私の頭がおかしい
・すべては元彼が仕組んだ悪戯である
・陰謀が実在する

メタ的に読めば、これは世に言う私たち一般人が物語を必要とする理由みたいなやつではないかと思う。それが必要な理由として、私たちは自分たちの日常生活に無意味さを感じており、その生活に生活の外側から意味が与えられることを期待している、というような非常に俗っぽい話を一度してみることに価値があるかもしれない。外側から? 意味をいったい誰が? その疑問に基づいてこの四つをもう一度、読み直してみる。

・すべては偶然の一致である→あらゆるものに意味はない(語りなし、あるいは複数の語りの羅列)
・私の頭がおかしい→「私」が意味を与える(一人称)
・すべては元彼が仕組んだ悪戯である→「あなた」が意味を与える(二人称)
・陰謀が実在する→誰かが意味を与える(三人称の物語がある)

結果、小説はこれらどれもの可能性を残して、開かれたまま終わる。
つまり、ピンチョンの小説は一概に、雑に陰謀論の小説と言えるかもしれないが、もっと言えばいくつかの要素にその外部から意味を与えるということ自体がいつも陰謀めくことを免れない。最悪ここにはまったく意味のない可能性さえある小説のまま読むところに差し出されてしまうことにピンチョン小説の懐の深さがある、多分。
だからピンチョンには結末がなく、あるいは意味の決まった結末がなく、物語として閉じていないから小説になる。物語批判の小説として機能する。
つまり、保坂が青木に見ているピンチョンの資質とは物語批判のための冗長さであるようなのだ。

「人の感情や出来事の推移を不可避とする思考形式は、出来事が終わった事後になされるものでしかない。だいたいこの思考様式は硬直していておもしろくない。
では出来事の渦中にいる人間のとるべき思考法とはどういうものか? そんなこと知らない。ーここで「知らないかよ!」とあきれた人は、物事にはすべて正解があると思い込んでいる人だ。(…)正解がないということは、思考の道筋や形がいくつもあるということだ。結末を不可避なものとする思考様式から自由になって、そうでない思考様式やいままで考えたことのないイメージや世界像を生産すること、小説の本当の使命はそこにある」

保坂和志による解説、青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』、新潮文庫版

文庫の解説にある保坂からの引用だ。保坂は、ギリシャ悲劇の結末ありきの筋立てを例に出し、結末に向かって効率化された語りを求める物語を「結末を不可避なものにする思考様式」として批判する。
私は以前に、黒沢清の映画の「物語」らしさとそれを散漫にするためのものとしての映像演出のことを考えたが、青木についての思考はややここに合流する。

蓮實の「小説から遠く離れて」を読むと、小説は物語に対立し、物語としての効率的な語りを免れる方法を表現の中に見つけ出す、という話だった。冗長さ、散漫さというのは別の形で小説が物語を忌避する方法としてここにまた現れるのではないか。
物語批判という点についてまとめていくと、蓮實によれば小説は表現の中に物語からの逃げ道を見つけ出し、映画は脚本が物語であるところ、演出に物語からの逃げ道をまた見つけ出し、青木評の保坂は青木のどこかにそのどこまでもまとまらない散漫さを見出しているが、私はこれが日記だと思う。

もっと言えば、「四十日…」には循環構造めいた仕掛けはあるが、物語の筋自体がないのではないか。作中の「わたし」は、小説を書こうとして書けない、その書けない様がそのまま小説になっている。
言い換えると、彼女は小説の代わりに日記を書き始め、何度も書き直し、小説を書くためのメモ書きのようなものを散らかして、そういうのが一応構造としては先ほど述べた循環構造らしき「仕掛け」のような「かたち」を文章の中につくりだす。この「かたち」は、絶えず物語として収束することを日記によって免れながら、物語的な結末を予期しながら物語にならないに「仕掛け」としてだけ小説の可能性を予感し続け結局、物語ることを失敗したまま終わる。

ピンチョン、とは何かというのを私なりに紐解けば、それは生活と物語という対比でいくなら生活の側に属する何かである。私たちの無意味な日常にその外側から意味を与えてくれる架空の物語。そのありもしない物語を欲望しながら、挫折し、失敗していくことのなかに物語があるかもしれない可能性に揺れている生活のようなものだけがある。その実現しない結果へのプロセス自体が、決して物語ではない小説としてここにあるのではないか。

3.傑作

日記とは、きっと秩序なく並列された「私」の日々の記録なのだ。結末がないとは意味がないということだ。それは、物語のようにその外側から承認され、意味を与えられる契機を欠いている。取るに足らない記録なのだ。

変わったこと、面白いこと、があれば私たちは私たちの実体験を人に話すだろう。そこには、話す本人がその話を自分で面白いと思っているが故の語り生じるし、その語りにたぶんヤマやオチがある。そうして私たちは自分の実体験を日常的にフィクション化する、のだとしたら日記にはそういうヤマやオチがない。
ある意味では物語というのは、意味に飢えたまま意味のない人生を生きる私たちに提示された「正解」もどきである。保坂が提案しているのは、安易に物語になるのではなく、実態のない正解に近づくプロセスとして意味のない人生を生きる記録としての小説ではないか。それでそれは、ささやかなありふれた日常に見えるが、絶えず全てが無意味に帰る可能性を秘めた険しい道のりである。
青木の小説に「正解」はない。じゃあ、「正解」はどこにあるのか、と自問自答した保坂は「そんなことは知らない」と突き返す。
「そんなことは知らない」そうは言いながらも、保坂は十分「出来事の渦中にいる人間のとるべき思考法」を提示しているように思う。それは日記と物語の間を揺れ動くことであり、しかしそれは自分でやらなければならない。それをそれなりに引き受けてやってしまったか、やろうとして書き直し続ける青木の常人離れした徒労に小説の「傑作」が宿り、ヒューマニズムに意味を与える物語としての「名作」を免れる。
と説明するとそれっぽいかもしれないが、本当はよくわかっていない。

『匿名芸術家』版から、単行本版に移るにあたって失われたエピローグらしきに箇所がある。それは小説の最序盤で唐突に登場する。単行本版では、「わたし」が暮らした家から引っ越すことと、引っ越すために家財を一掃する件そのものが消えているのだが、元の版には残っているそのくだりの中で、引っ越しの準備をしていた「わたし」はポリプロピレンの箱の中にチラシの裏に書かれた小説めいた断片を発見し、そこに書かれた内容について、「最後はきっと『下井草 井荻」が部屋を去るという他愛もない結末を迎えるだろう。これは確実だ」という不可解な断言をくだす。

「事件の発端、プロローグに当たる部分は以下の通り。ひとりの幸運な「杉並区在住の女性(26)」が森の中から金銀財宝の詰まった「小さな葛籠」を持ち帰る。発見者はもちろんわたしで、落とし主も実はわたしだ。そして噂新聞の内容を真に受けてさっそく森へ出かけていった人物、哀れな「杉並 太郎」がそれらしい「大きな葛籠」を見つける。届け出る気のない彼は密かに箱を持ち帰り、「しめしめ、これでおいらも大金持ちだ」とつぶやいて蓋を開けてみるものの、中身はただのチラシの束、しかもその裏には何か日記めいたものが書き散らされているばかりなのだ。悔しがるやら憤るやら、思い直してこれを読んでみようにも、番号も振られていない紙片群を手当たりしだいに読んでいくしかない。
作中作の小説は完成するのか、「下井草」とか「上井草区」とは一体誰なのかーそうした事情がわかりかけた直後、エピローグは用意されていないことに気づく。引っ越し先を示すものは何ひとつ見つからないまま、最後の一枚を読んでしまった。」

青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』、『匿名芸術家』

私には、これが『四十日…』の結末、つまりこの小説の意味に思える。
「発見者はもちろんわたしで、落とし主も実はわたし」とある。やはり「わたし」は女性、「杉並区在住の女性(26)」であるようなのだ。この「わたし」が落としていった金銀財宝の詰まった葛籠が森の中にある。その噂に惹きつけられて葛籠を探しに出かけた「杉並 太郎」なる人物がチラシの束を発見し、彼の冒険は徒労に終わり、彼を冒険に誘った葛籠と、その中にあったチラシに書かれた小説(おそらく『四十日と四十夜のメルヘン』)も結末を持たない。物語を期待するような仕掛けとそれが導き出す読みの運動、そして「そこに結末(エピローグ)はない」という「エピローグ」自体が結末ではなく冒頭に明かされてしまう肩透かし。この肩透かしを期待して私たちは小説を「これから」読まされる。何か起きるかもしれない、何か、と思いながらこれを読まされる。
結論として、私は『四十日と四十夜のメルヘン』という小説はまだ一度も書ききられていないのではないかと思う。

(今更だが、ところで『四十日と四十夜のメルヘン』というタイトルはなんなのだ。作中で繰り返される四日間の日記はいずれの版も5周分。メルヘン『チラシ』と、はいじまの『裸足の僧侶たち』の四日間を足しても28日間と28夜でまだ足りない。これはいったいなんなのだ。)

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