「差別された」という記憶を、疑ってみる
生きていて、空き巣の犯人だと疑われた経験はありますか?うちの家族は、ある──そう思って生きてきた。
日本で暮らしていたある日、お隣の家に空き巣が入った。外から帰宅したお隣さんは取り乱していた。家の中は荒らされ、貴重品もごっそりと消えていたらしい。事件直後の混乱の中で彼らが我が家に向けた眼差し。私はそれをずっと「差別の証拠」として記憶に刻んできた。
当時子供だった私は、少し離れたところからそっとその様子を見ていた。 我が家に話を聞きに来たお隣さんと対峙したのは母だった。話し終えて戻ってきた母が、悔しさと悲しさの入り混じった表情で言った。 「私がタイ人だから、疑われた、差別だ」と。
その言葉を、私は疑いもしなかった。うちの家族が差別されたのだと、幼心にそのまま受け取った。「タイ人だから」と口に出して言われたわけではないという。でも母はそう受け取った。私もそう信じた。私は長いこと、この出来事をそうやって片づけることで、自分の気持ちに整理をつけていた。
去年、タイ人による集団強盗事件が東京で起きたというニュースが目に入ってきた。善良な在日タイ人が風評被害にあったら嫌だなと思いながら、あの日のことを思い出していた。
なぜあの日、あんな目を向けられたのか。
そう考えているうちに、これまで一度も浮かばなかった疑問が出てきた。──あれは、本当に差別だったのだろうか。
あの日、お隣さんはひどく動転していたはずだ。家を荒らされ、貴重品を盗まれ、誰を信じていいか分からない状態だったのかもしれない。もしかしたら、近隣の誰に対しても同じような目を向けていた可能性もある。
「タイ人だから」ではなく、ただ目の前にいる相手を疑わずにはいられなかっただけだったのかもしれない。
私の中で絶対的な事実だった「差別された」という記憶が歪んでくる。そもそも私は、その場にいたとはいえ、直接言葉を交わしたわけではない。少し離れたところから見ていただけだ。私が知っている出来事の多くは、母の言葉を通して受け取ったものだった。
さらにもう一つ、気になり始めたことがある。当時の母のことだ。
母は当時、在日タイ人との関わりをほとんど断っていた。 家に遊びに来たタイ人に貴重品の棚を漁られるなど、良い印象を持てない経験が立て続けに重なったせいだった。母は、同胞を自ら避けていたのだ。
その状態で、あの日の出来事を受け取っていた。
自分のルーツに劣等感を抱えていた当時の私にとって、「タイ人だから疑われた」という言葉をそのまま受け取るのは自然なことだった。
差別されたという出来事を経験したのではなく、差別だったという解釈を受け取っていただけなのかもしれないと疑う日が来るなんて、自分でも予想外ではある。
あの瞬間に母が感じた痛みや怒りは、間違いなく本物だった。
でも今はあの日の出来事が何だったのか、よく分からなくなってしまった。私が見たものは、何だったのだろう。
mari.
