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マリーシアという、染みついた本能について——2026年W杯決勝の朝に

マリーシアという、染みついた本能について
——2026年W杯決勝の朝に


ITALIAN LINGERIST JUN


今朝、ワールドカップの決勝でスペインが優勝しました。

アルゼンチンは延長の末に敗れ、2位。けれど話題になったのは試合内容以上に、その後のアルゼンチンの振る舞いでした。


表彰式で優勝国に背を向け、取材を拒否し、ピッチ上では小競り合いまで起きた。


SNSでは「品格がない」「見苦しい」という声が、称賛の声より目立つほどでした。

僕はこの一連の光景を見ていて、「マリーシア」という言葉を思い出しました。とっさに出てしまう、というより、もう身体に染みついてしまっている概念のように感じたのです。


今日はこのマリーシアについて、少し掘り下げて書いてみたいと思います。


第一章 マリーシアとは何か



マリーシアは、ポルトガル語の「malícia」に由来する言葉で、ブラジル発祥のサッカー用語です。直訳すれば「ずる賢さ」「狡猾さ」ですが、興味深いのは、この言葉が国や文化によってまったく違う顔を見せることです。

ブラジル、特にその一部地域では、マリーシアは決して悪い意味では使われません。

むしろ「機転が利く」「知性がある」という称賛の言葉です。


相手の心理を読み、隙をつき、意外性のあるプレーで局面を切り開く。

日本語にするなら「したたかさ」がいちばん近いニュアンスで、「あの選手はマリーシアが足りない」と言えば、それは経験不足や未熟さを指す言葉になります。

一方でヨーロッパや日本では、同じ言葉がもっと否定的に受け取られがちです。


審判に見つからなければ何をしてもいい、演技をしてでも試合を有利に進める、時間を稼ぐ——そうした「ずるさ」の意味合いが強くなる。


同じ言葉なのに、生まれた土地を離れると、輝きが濁って見えてしまうのです。


第二章 染みついた本能としてのマリーシア


面白いのは、マリーシアが「技術」というより「本能」として語られる点です。

ストリートサッカーやフットサルの文化の中で育まれてきたこの感覚は、狭いスペースでどう相手を欺くか、という生存戦略に近いものだったと言われています。

ブラジルには「ジェイチーニョ」という言葉もあります。

「ブラジル式のやり方」という意味で、制度やルールの隙間を、機転と愛嬌でするりと通り抜けてしまう処世術のことです。


マリーシアも、その延長線上にある知恵の一形態なのだと思います。

今朝のアルゼンチンの選手たちの振る舞いを見て、僕が「とっさというより、染みついた概念」だと感じたのは、まさにここです。


彼らは冷静に計算して無礼を働いたわけではなく、追い詰められた瞬間に、身体が覚えている流儀がそのまま出てしまったように見えました。

1986年、ディエゴ・マラドーナが手でボールをゴールに叩き込み、それを「神の手」と嘯いた瞬間も、同じ本能の発露だったのではないかと思います。


あの反則すれすれの機転を、多くのアルゼンチン国民は今も誇らしげに語り継いでいます。


第三章 ふたつのマリーシア



ここで僕が興味深いと思うのは、マリーシアには実は二つの顔があるということです。

ひとつは、相手の心理を読み、劣勢の中でも希望を手放さず、機転で局面を切り開く「知性としてのマリーシア」。


もうひとつは、ルールの外側で相手を貶め、負けを認められずに礼儀すら投げ捨ててしまう「醜さとしてのマリーシア」。

今朝のアルゼンチンの姿は、残念ながら後者に近かったと思います。

パレデス選手の乱闘、表彰式での明確な拒絶——これは駆け引きの知性ではなく、ただの負け方の下手さです。


同じ「ずる賢さ」でも、優雅に機能する狡猾さと、醜く漏れ出てしまう狡猾さとの間には、決定的な違いがあるのだと思います。


第四章 イタリア語の「マリッツィア」が教えてくれること


僕の専門であるイタリアの世界にも、実はこの言葉のいとこにあたるものが存在します。

イタリア語で「malizia(マリッツィア)」と発音されるこの単語は、サッカー用語としても使われますが、もっと広い文脈では「小悪魔的な色気」「あざとさ」「意味深な視線」といった、色恋にまつわるニュアンスでも使われます。

イタリアのファッションやランジェリーの世界における「マリッツィア」は、決して下品な誘惑を意味しません。


むしろ、言葉にしないことで相手の想像力をくすぐる、洗練された駆け引きのことです。見せすぎない。


言い過ぎない。


ほんの少しの間や、視線の外し方に、狡猾なまでの計算を忍ばせる。


これは今朝のピッチで起きた「醜いマリーシア」とは、正反対の場所にある概念です。

同じ「したたかさ」という核を持ちながら、一方は品格を上げ、もう一方は品格を下げてしまう。

この違いを生んでいるのは、才能でも国籍でもなく、
「負けを引き受ける強さ」なのだと僕は思います。


終章 したたかさは、誰のために使うものか



マリーシアそのものは、悪いものではありません。

むしろ、劣勢の中でも諦めずに局面を作り出そうとする知性は、スポーツに限らずどんな仕事にも必要な資質だと思います。

けれど、そのしたたかさを、相手への敬意を捨てるための言い訳にしてしまった瞬間、それはただの醜さに変わります。

今朝のアルゼンチンの姿を見て、僕はあらためて、マリーシアという言葉の奥深さと危うさの両方を感じました。

したたかであることと、品格を失うことは、紙一重です。


その境界線をどちらに引くかは、追い詰められた瞬間にこそ、その人や、その国の「染みついたもの」が表に出てしまうのだと思います。


JUN

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