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分人主義と分身主義(6)

この記事は、分人主義と分身主義の違い、そして仏教の「自我の滅却」との関連について考察します。
(およそ13分です)


約2500年前に、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)分身様が仏教を説いた根本的な目的は、人が苦しみから解放される道を示すことでした。

仏教では、この苦しみの根本原因は煩悩ぼんのうであると考えます。煩悩とは、貪欲・瞋恚しんい(怒り、恨み、憎悪)・愚痴などの妄念や欲求、妄執などを指します
そのため、仏教の教えや実践は、煩悩を理解し、それらに囚われない心を養い、最終的には煩悩を滅して苦しみから解放されることを目指すものです。

ということは、最終的に目指したものは「自我(=自己中心性)」の滅却と言ってもいいと思うのです。何故なら、煩悩の起こる根源は、自我意識(自己中心性)にあるからです。

  • 苦しみをなくす道:煩悩に囚われない心を養うこと。

  • そのための手段:自己中心性を滅却すること。

このように理解することができます。ですから、仏教が最終的に目指したものは「自我(=自己中心性)の滅却」と言ってもいいのではないでしょうか?

しかし、『自我(=自己中心性)』を薄くすることはできますが、あるいは念仏を唱えている時や、我を忘れて何かに没頭している時などに一瞬だけ消すことはできますが、生きている限り自分の中から『自我(=自己中心性)』を完全に滅却することなど、絶対にできません!

それをするにはもはや死ぬ以外にないのです。逆に言えば、人間から欲望などを完全に取り去ったら、食べることも動くこともしなくなるでしょう。

しかし、科学がこの21世紀の人類に届けてくれた分身主義なら、僧侶が長い年月、苦しい修行をしても決して完全には滅却することができなかったこの「自我(=自己中心性)」を一瞬で消してみせることができます。

それは宇宙である自分を知った時です。


人間は一度作ってしまった「自我」を決して滅却することはできません。それはたくさんの僧侶が実証済です。
たとえ「幻想」であっても、一旦、脳内回路に刻印してしまったからには、神経細胞という「実体」的に存在しています。「有」るものを「無」にすることは無理です。

だけど、「有」をそのまま宇宙にまで拡大することなら簡単です。ましてそれこそが科学的真実だと知ったのです。
その瞬間、今までの****自我**」がすっかり消えていることに我々は気づきます。


その時は、我々に苦しみを与えた全ての煩悩からも解放されます。

約2500年前にゴータマ・シッダールタ分身様が、どんなに願っても叶えられなかった夢を、今、科学が叶えてくれているのです。


それを享受できるこの21世紀に生きる我々は、何と幸運なことでしょう。
そのことに気づかずに 自滅するなんて、なんてもったいないことなんでしょうか。一体何のために科学は、たくさんの人たちがバトンを受け渡しながら今日までやってきたのでしょうか?
並大抵の努力ではなかったはずです。

でも同時に科学は、人類を 自滅させる恐ろしい兵器も作りました。
それを作ったのは、「人間の声(欲望や、恐怖や憎しみなどの感情)」を聞く科学です。

真の科学は「自然界様の声」を聴く科学です。

この、謙虚な「真の科学」だけが、はぐれてしまった人類の本来の居場所を教えてくれて、自然界様と手を繋ぐことができる科学です。


分人主義は、人間関係に悩む人たちに救いをもたらしてくれる、今までにない新しい人生観です。
カッチリとした「個人」などどこにもいなくて、環境や対人関係の中で形成されるたくさんの「分人」がいると教えてくれています。

だけどまだそこには、仏教の苦しい修行でも無くせなかった「自分」は存在します(* これは、言葉を持ったことで脳内に作られた「錯覚の自我」でしたね)。そして他者が存在します。

他者が存在する限り、その他者は自分にとって、味方か敵かという区別化をするのはやむを得ません。そして敵なら避ける(分人の構成比率を調整する)か、戦うしかありません。

だけどこの21世紀の科学は、我々には敵などどこにもいなかったと教えてくれています。我々が抱いている敵という観念は、人類が言葉を持ったことで、この身体が自分だという錯覚をしてしまった時に生まれた幻想です。

(* 自然界と地続きの動物たちが、捕食するために追いかけたり、そこから逃げたりしているのは自然界に作られた反応ですよ)

人間は、危険情報を受け取ると、扁桃体が反応し、一瞬にして、心拍数の上昇、呼吸の促進、筋肉への血流増加といった自律神経系の変化など、逃げたり攻撃したりするための生理的反応と行動が引き起こされます。(* しかし、言葉がなければそこで終わりです。恐怖や不安といった感情は言葉が増幅するのです)

動物たちにも扁桃体を中心としたそのような反応は起こるのでしょうが、彼らは言葉を持ってしまった人類のように、敵という概念も味方という概念も、恐怖や不安という概念もありません。言葉を持たない彼らにとっては、生存に有利に反応してきた結果の生体的リアクションなのです。

まして人間にもない「意思(あるいは意志)」など、あるはずもありません。そのような反応をする遺伝子が生存にポジティブに適して、引き継がれているだけです。

同じ自然物であるはずの人類だけが、言葉を持ってしまったことで自然界とはぐれてしまったのです。そしてあるはずもない敵を作ってしまったのです。
もう一度、自然界とちゃんと手を繋ぐためには、科学が教えてくれているその事実を理解することです。それができなければ、遅かれ早かれ、人類は自然界様から見限られる(=自滅させられる)ことでしょう。

たった一つの受精卵が、たまたまその環境で、それぞれの器官や臓器が作られるように、たまたまライオンやシマウマやあなたや私や彼や彼女になっていただけだったのです。

ということは、今までスポーツ競技や学力で競っていたのは、右利きの自分の右手と左手が競争して、右手が勝ったと喜んでいただけだったのです。(* 分身主義は世界から競争をなくしたいと考えています。1人の勝利者は99人の敗者に作られていただけだったと知ったからです)
敵地にミサイルを落として被害を与えていたのは、自分の心臓が肺を攻撃して「ざまあみろ」と言っていたようなものだったのです。

もしこれを荒唐無稽なでたらめな理屈だと一笑に付すなら、それは、言葉を持ったことで作ってしまった「自分」という観念に、ガチガチに縛られてしまっているからです。
それは自由な状態とは真逆で、自ら鳥かごに入ってしまった鳥のような状態なのです。現在のその鳥かごを、個人主義的環境といいます。

例えば、現在の世界中の核兵器を使えば、直接的な爆発による破壊や熱線、放射能汚染だけでなく、「核の冬」と呼ばれる地球規模の気候変動が深刻な影響を及ぼし、生物は全滅するでしょう。もちろん「あなた」も間違いなく。

どうして、こんな、全体を巻き込んだ危機が引き起こされるのでしょうか!?

全部つながって、それが「真実ほんとうの自分」だったからではないですか!?
自分の本当の身体を、知らず知らずのうちに、自分で痛めつけていただけだったからです。分身主義はこれを “自傷行為” と呼んでいます。


この21世紀、科学は世界を一つにしてくれています。
あらゆる交通機関を使えば、世界中どこでも行きたいところに行けます。遠く離れた世界中の友達と携帯電話で会話することもできます。
それどころか、科学は、約140億年前のビッグバンの名残(=我々の産声)すらも微弱なマイクロ波として検知できるところにまで到達しているのです。

研究者はこちらに背中を向けて、暗く深いトンネルを掘り進んでばかりいますが、一旦とどまって、今までの科学の成果をそれぞれの分野の壁を取り払って、振り返ってみるべきです。
その時、この私が感じたように、この21世紀、人類が自然界と手を繋ぐために必要なものは、ほとんど解明していたと気づくでしょう。

もう志望した大学に受かっているというのに、受験の時解けなかった問題に、いつまでもこだわっているようなものなのです。

そして大学を卒業して社会人になったら「大人の大人」の広い視野を持って、世界を平和にする(=自分の本体を健康にする)ことに貢献するべきです。

それなのに、未だに、受験の時解けなかった問題にこだわっているのですよ。


どんな宗教の人もどんな主義の人もどんな理想や偏見に凝り固まった人でも、電気が供給されているところでは、人差し指でポンとスイッチを入れさえすれば、電気炊飯器で必ずおいしいご飯が炊ける時代です。
ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ません。

この21世紀、科学は世界を一つにしてくれています。

それなのに、人間の心がまったく追いついていなくて、まだ古代ギリシャの人たちとほとんど変わっていないのです。

みなさん、錯覚から目を覚ましましょうよ!
もう「錯覚の自分」が作ってしまった「個人主義」は、終わりに来ています。自己中のピークに到達してしまっています。今の世界情勢を見ていれば、どんなに鈍感でもそれはわかります。我々はお金をコントロールしていると勘違いしているけど、欲と結びついたお金に、世界中の人が思考も行動もコントロールされています。もはや世界経済は誰も修復できません。

E=mc² が地球を全壊しなくても、もう我々の心は壊れかかっています。SNSなどの娯楽に操られる心理の裏に、個人主義の押し寄せている危険性が潜んでいることを、薄っすらと気づいている人も多いはずです。
(* SNSなどの発達により、誰もが好き勝手に無責任な発言ができるようになり、また自己アピールや自己顕示欲が刺激されることで、個人主義の特徴である「自己中心性」を勢いづかせる環境が作られています)

そこから抜け出してみんなが幸福に生きるためには、今までの「錯覚の自分」を、科学的根拠を持った「真実ほんとうの自分」に置き換えるしかありません。


ところで、話は変わりますが、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』には次のような興味深い記述がありました。

個人は、人間を個々に分断する単位であり、個人主義はその思想である分人は、人間を個々に分断させない単位であり、分人主義はその思想である。それは個人を人種や国籍といった、より大きな単位によって粗雑に統合するのとは逆に、単位を小さくすることによって、きめ細やかなつながりを発見させる思想である
(『私とは何か』p.164  より)

この引用の太字部分は本のままですが、太字になっていない部分も重要だと感じます。「個人を人種や国籍といった、より大きな単位によって粗雑に統合する」と書かれていますが、例えば分身主義は、「人種、国籍」どころか、「地球、宇宙」と拡張してしまっているので、粗雑に統合してしまっているように受け取られかねません。

だけど分人主義と同じように、分身主義も「きめ細やかなつながり」を見落としてはいません。小さい単位と大きい単位を常に行き来できる目が大切だと考えています。(* 同時に約140億年前と現在とを常に行き来できる視点も大切です。これらの視点は、一旦作られれば次回からは容易に可能になります)

例えば自分がその《環境》に置かれたら、どうなるか想像を働かせてみます。

暑い国で汗を流して奴隷のように肉体労働をさせられている分身、涼しい部屋で音楽でも聞きながらスマホゲームをさせられている分身、黒い肌に生まれさせられた分身、白い肌に生まれさせられた分身、黄色い肌に生まれさせられた分身、大金持ちにさせられてしまった分身、貧しい家庭に生まれさせられてしまった分身、権力を持たされてしまった分身、この社会では生きづらい障害を持たされてしまった分身‥‥。

(*「この社会では生きづらい障害を持たされてしまった分身」と言いましたが、本当の障害者は、理性を持ってしまったことで生きづらさを抱えてしまった全ての人類だったのですよね(『分身を知った科学 遺言書⑦ 本能を知性で強めてしまった動物』


もしその分身さんたちの《環境》に私(徳永分身)が置かれたら、そのままその人たちの人生を生きさせられて*******いたことでしょう。つまり、たくさんの自分の分身が、それぞれの《環境》に分岐しているという考え方も可能です。
ただ、自分の右手、左手、心臓、肺‥‥それぞれが脳を持ってしまったのでバラバラに自意識を持ってしまっているのです。

だから、誰かと誰かが喧嘩をしたら、それは自分の右手と左手が喧嘩しているだけで、本当の自分を傷つけているという意味です。(* 分身主義はこれを自傷行為と言います。戦争もどちらが勝った負けたと言っていますが、自分で自分の本当の身体を傷つけ合っているだけだったのです。だからその影響は、戦争をしていない人たちにも及んでいますよね。まさに自分の本体を傷つけ合っていたからです)

この、現在の「大人」たちの愚かさ***は、同じ「大人」の視点からはわかりません。「大人の大人」の視点を持たないと、なかなか気づけないものなのです。


分身主義の単位を一言で言えば、「部分と全体が同価」ということです。下図左のように 10m ×10m ×10m の粘土があるとします。それがこの宇宙です。そこからグイッとくり抜いたのが、あなただとします(下右図)。

そうすると、10m ×10m ×10m の粘土はもう違う宇宙です。だから、今の宇宙は、あなたがいて初めて今の宇宙と言えるのです。
実際この宇宙の原子の総数は減りもしないし増えもしません。それを質量保存の法則(=物質不滅の法則)、エネルギー保存の法則と言います。(* 質量とエネルギーは等価です)(* もちろんあなたが死んでも宇宙を構成している原子数は同じです)

現在の宇宙が現在の宇宙であり続けるためには、あなたが生きても死んでも、あなたを構成していた物質の存在が不可欠です。それを「部分と全体が同価」と言います。部分が今のあなたや私や彼や彼女という一人一人‥‥で、全体は宇宙です。哲学的に聞こえてしまうかもしれませんが、これが科学的視点です。


(自殺について)

空白を満たしなさい』(平野啓一郎著)では、死から生還する復生者たちの姿が描かれています。自殺してしまった主人公も生き返ったその一人でした。
その主人公は愛する妻も子もいて幸福の最中に、仕事で溜まっていく疲労によって思考停止に陥り、たった一つの嫌いな自分の中の分人を消し去りたくて自殺をしてしまったのです。死から生還してきた彼は言います。

「‥‥僕は、個人は分けられない一人の人間だなんて、理不尽な考えを信じさせられていました。(中略)僕はただ、いくつもある自己のイメージのたった一つを消すことさえ出来れば良かっただけなのに、自己を肉体ごと消滅させようとしてました。でもそんなこと、みんな知らずに生きてるじゃないですか! 自分は自分だ。本当の自分は一人しかいない。自分の中に複数の自分がいるなんて気持ち悪い。間違ってる。 
── だからみんな、こんなに苦しんでる! ただほんの一部の自分を否定すれば良いだけなのに、自分の全部を傷つけようとして、腕を切ったり、首を吊ったり、ビルから飛び降りたり!」(p.304)

彼はその時、分人主義を知っていれば、たった一人の嫌いな分人の構成比率を少なくすればいいだけだったのに、全部を否定してしまったのです。本当の気持ちはもっと平穏に、むしろもっと生きたかった******からこそ、そうしてしまったのです。

分人主義は、今回の仏教の話で言えば、煩悩をコントロールすることに当たるのではないでしょうか?
自分の中の分人をコントロールすることで、苦しみを和らげることに通ずるからです。

しかし分人主義は、まだそこには、「自分」は存在します。これは仏教の苦しい修行でも無くせなかったものです。だから分人主義は、仏教と同じで、この個人主義的環境の中で、少しでもより良く生きるための知恵と言えるのかもしれません。

では、この自殺について、分身主義ではどのように考えているのでしょうか!?

この21世紀の科学は、人間はみんな《環境》に思考させられ行動させられていると教えてくれています。それを知った分身主義は、自分で自分をあやめることは決してできないと考えます。
たとえ自分で自分を殺めたとしても、それは環境に殺めさせられた*****のです。
だからどんな死も「他殺」でしかあり得ません。元々、自分の意志など持たない我々人間は、どんなことをしても自分の意志で死を選ぶことは不可能なのです

それを知れば、自ずと解決策は見えてきます。

(遠い昔に言葉を持ってしまったことで)「錯覚の自我」にガチガチに縛られている今の人類が作り上げている、この個人主義的環境を、科学が解明してくれた「真実ほんとうの自我」が作る分身主義的環境に変えればいいだけです。

そうすれば、自分の右手と左が競い合ったり、自分の心臓が肺を攻撃したりすることはなくなります。そんな世界の辞書には、鬱病などの精神的な病を表す言葉や、自殺などという言葉はなくなっています。

みんなが自分の全身の健康に気を配り、助け合い笑顔で生きる人たちにとっての死は、我々が知っている今までの死とは違って、それも科学的に見れば全身の健康の一つの過程です。

今までの我々が知っている死が、個人主義的環境が作る死、つまり、戦争の「死」や、殺人での「死」や、人生に絶望した「死」や、人間の声を聞く感情的な「死」だったので、我々は死を毛嫌いするようになってしまっていただけだったのです。それらの死が良いものであるはずはありませんからね。



分人主義と分身主義(7) 
(人類は、理性で本能を抑制しているのではなく、知性で本能的な欲求を欲望にまで高めてしまった動物でした)



★★★ 関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義からの脱却、そして分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)







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Markey Toku 徳永真亜基 長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。