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白鯨物語 Completely Change Ver.【5】

         ☆

 成り金どもの街ニューベッドフォードには捕鯨者教会なるものがあり
 出航の日が間近に迫ると
 神に励まされずにはいられなくなった鯨獲りたちが日曜の礼拝に訪れるのだという。

 もちろん
 とりわけかれらだけが信心深いというわけではなく
 どちらかというと
 天の神よりもずっと身近なところにいてくれそうな海の神を信奉したがる連中なのだが
 いくら慣れた世界であってもいざ大海原へ乗り出して行くとなると
 経験の助けを借りてもなお残る不安を綺麗さっぱり払い除けたくなるのだろう。

 まして初めて捕鯨船に乗りこむ俺の心境ときたら
 それはもう鉛のように重く
 どんなに虚勢を張ってみたところで恐怖という感情からは逃れられそうになかった。

 一旦は散歩から戻って暖かい宿でくつろぎの時間を過ごしたものの
 なんだか気持ちが定まらず
 胸のもやもやが一向に鎮まってくれなかった。

 ほどなくしてきょうが日曜日であることを思い出し
 すると例の教会がぽっと頭に浮かび
 我に返った際にはもうそっちへ向かって広い通りをとぼとぼ歩いていた。

 ついさっきまで素晴らしく晴れ渡っていた空が急に怪しくなり
 霧が発生したかと思うと
 突如として霙が降りだし
 変幻自在の風が吹き募った。

 俺は外套の襟を立ててどこまでも不愛想な疾風に逆らい
 教会をめざして歩を運び
 世の栄枯盛衰を如実に物語る街をまっしぐらに突っ切り
 目当ての場に辿り着いてみると
 存外集まりは少なくてがらんとしていた。

 鯨獲りとその女房
 あるいはその寡婦とおぼしき者たちが
 ぽつんぽつんと座っているばかりで
 皆黙りこくっているために辺りはしんと静まり返り
 ときおり通りを吹き抜けてゆく風の音が殊更に強調されるのだった。

 説教壇はまだ空っぽで
 その両隣の壁には碑銘の彫りこまれた大理石の板が嵌めこまれ
 それには海で命を落とした者たちの氏名が
 格式張った分だけどこか物悲しい書体でずらりと刻まれていた。

 なかには鯨と共に海中へ引きずりこまれたという壮絶な最期が記されている一文もあり
 萎みかけた勇気のかけらをさらに萎ませ
 結局全部を読み切ることができなかった。

 居住まいを正して席に着き
 そして横へ視線を走らせた途端
 俺はどきりとした。

 なんとクイークェグの奴がいて
 それほど目立つ相手に今の今までどうして気づかなかったのか不思議でならず
 おそらくは教会の佇まいに見事に溶けこんでいたからであろうが
 ともあれ俺としてはちょっとした驚きだった。

 遥か遼遠の昔から独自の原始宗教に凝り固まっている者が
 よもやキリストの支配下に進んで納まろうとは
 はてさていったいどんな風の吹き回しであることやら……。

 奴は俺のことをちらりと見たが
 その表情にこれといった変化は認められず
 視線を元に戻した後は根っからの信者のごとく神妙に畏まっているばかりだった。

 果たしてキリストの教えをどこまで理解しているかは定かでなく
 少なくとも石板の文字を読み取ることさえできないはずで
 さりとてただの興味本位で訪れたとも思えず
 また
 どこからどう見ても冷やかし気分には程遠かった。

 ひょっとすると
 荘厳さに敏感に反応する野蛮人特有の動物的直感による訪問かもしれず
 そんなクイークェグを倣って
 俺のほうも真面目くさった態度を崩さないように努めていた。

 やがて目が知らず知らずのうちにふたたび墓碑へと注がれ
 すでにこの世にはいない見ず知らずの鯨獲りたちへの漠然たる想いを募らせ
 すると当然ながら
 自分もかれらとそっくりな運命を辿る可能性が否応なしに読み取れ
 ひっきょう
 明日は我が身であるという答えが脳天に叩きつけられたのだ。

 ところがだ
 なぜかは知らぬが
 明日にはナンタケットに渡ろうとしているおのれの気持ちがぐっと引き締まり
 さっきまであれほど濃厚だった翳りがみるみる薄れてゆき
 のみならず
 異常とも思える熱き高揚感がもたらされ
 死への怖れがまったく認められないどころか
 死を甘んじて受け容れかねない佳境がすぐそこまで迫っていた。

 思えば俺のこれまでの人生は
 生に拘ることではなく
 いかにして生から逃れられるかという
 ただその一点にあったのではないだろうか。

 つまるところ
 命在る者の務めを果たすことなんぞにはそもそも興味がなく
 一見無欲に見える暮らしにおいて
 心を高く持つことなど考えもせず
 ひたすら精神の放蕩に耽ってきたのだろう。

 ああでもないこうでもないと四苦八苦しながら寄る年波の皺が刻まれ
 ろくに階段も登れないような足腰になり
 孫に生きる意味を問われてへどもどし
 のべつたわけた独言を呟くようになり
 金詰まりで青息吐息の暮らしを余儀なくされ
 黴だらけのパンを前にしてべそをかくようになり
 そうまでして生き長らえることにどれほどの価値があろう。

 生の感動が生自体に在るのでなく
 それは死に瀕した最中に火花のごとく飛び散り
 火傷しそうな火花を魂に浴びるや
 永遠の重荷から解き放たれ
 一介の点にすぎぬ憐れなる存在を脱して
 空に群がる星の一個として燦然たる光輝に包まれるのだ。

 たった今俺はそのことに気づき
 長い放浪生活の果てに得た答えがまさにそれだった。

 そのためとあれば
 よしんば救いがたい狂気に憑りつかれても構わず
 俺の体が欲しければ
 相手が鯨であっても鮫であっても
 はたまた海そのものであっても
 喜んでくれてやるつもりだ。

 その代わりこっちがもらうのは
 正視を超越して時宜を得た光彩陸離たる感動で
 安穏な営みに拘って享楽のあれこれに女々しくしがみつくだけでは
 けっしてこの世を生きたことにはならないであろう。

 おのれ自身の声を聴け!
 破滅的な結末?
 望むところだ!

 よしんば百の齢を迎えるまで
 温厚な善意の人として生きられたとしても
 息を引き取る間際に得られる観想はというと
 「自分は本当に生きたのだろうか?」
 そのひと言に相違なかった。

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