白鯨物語 Completely Change Ver.【3】
俺は宿の亭主をつかまえてひと部屋どうにかしてほしいと頼み
ところが空き室はないというにべもない答えが即座に返され
そこをどうにかできないかと食い下がると
商売人の顔にそろばん高い表情が素早く過ったかと思うと
おのが額を掌でぽんと打ってからこんなことを言ってのけたのだ。
相部屋でよければどうにかなるかもしれない
相方が銛打ちなら同じベッドで眠るのもそう不快ではあるまい
捕鯨船に乗りこむつもりなら今夜からでも同臭に馴染んでおくべきでは。
そこで俺はこう言ってやった
望むところではないが
これ以上宿を探してくそ寒い街中をうろつく元気はないから我慢しよう
だが気掛かりなのは
その銛打ちとやらがまともな奴であるかどうかだ。
すると亭主はこっちの心配を頭から無視してかかり
晩飯の用意をしなければならないと言って厨房へ逃げこみ
一杯食わされた気分の俺はなんでもござれとばかりに居直り
公園からかっぱらってきたようなベンチ型の長椅子にどっかりと腰を下ろした。
まずはこれでひと安心といったところで
凍死とはいっさい無縁な一夜をベッドで過ごせるとあれば
どんな妥協だってしなければならないとそう自分に言い聞かせた。
ほどなくしてあることに気づき
真正面に座っている水夫が商売道具のジャックナイフを手にして
俺の股ぐらを覗きこむような格好で
尻に敷いている長椅子の表面に何やら刻みつけていたのだ
文字ではなく絵で
それもあまりに稚拙なものだから帆船なのか小島なのかさっぱりわからず
他人事ながらも眺めているうちに苛立ってきた俺は
ずばり画題について尋ねると
そいつは顔を上げもせずにこう言った。
「おいおい、あんたの目は節穴か。これが船でなくて何に見えるのかね。だけど、そんじょそこらの船だと思ってくれるなよ。これこそがだなあ、人が一生を終えてあの世とやらへ渡って行くときに乗る船なのさ。その濁った眼でしっかりと見て、腐りかけているその脳みそに焼き付けておくことだ、いいな、そこの若いの」
言いたいことだけ言ったそいつはまたせっせとナイフを動かし
俺は俺でこの野郎は死神の手先かもしれないと本気で疑って席を替え
そのとき隣の部屋から晩飯ができたという声が掛かり
客は皆いっせいにそっちへ移動を始めた。
火の気がないことをなじられた亭主は文句を言うのならもっと上等な宿へ行けと言い
経営難を口実にしたが
それにしてもケチり方が極端で
蠟燭の数にしてもたったの二本だった。
しかも不気味なことに
蝋の垂れ方ときたら貧乏人の死に衣装を彷彿とさせる形に見え
なんとも不吉な気分に苛まれたものの
飲み食いすればいくらか体が温まるだろうと思い直し
その場の遣り切れなさを全部我慢することに決め
とりあえずは寒さで震える手で熱い紅茶のカップを持った。
ひと口すするといくらか気が休まり
肉とジャガイモと茹でた団子という
食べた後口がそう悪くはないまずまずの料理が出される頃には
宿のお粗末さと亭主のがさつさを許してやりたくなっていた。
一同は黙々と貪り食い
食器類がガチャガチャと音を立て
ペチャペチャという舌鼓がひとしきりつづき
人間も結局のところ馬や牛と大差ないことを痛感させられる
幸福にしてどこか物悲しいひと時が過ぎていった。
腹がひと通り満たされたところで俺は
相部屋となる銛打ちとやらはこの席にいるのかと
声を潜めて亭主に訊いてみた。
すると奴はにやりと笑い
「ああ、そのことかね。わしが知っているのは、あいつが茹でた団子にはけっして手を出さないということくらいだね。好んで食らうのは肉ばっかりさ。それもだよ、焼いた肉より本当は血の滴る生肉のほうが好きなんじゃないのかな」と言い
ついで
「とびきり色黒の相方はそのうち現れるだろうさ」とつづけた。
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