【Jazzの歴史#08】Jazzは禁酒法とマフィアが育てた
こんにちは。Masaです。
ではJazzの歴史のお話を再開しましょう。
前回までのルイ・アームストロングのお話から
時代を遡って大移動(Great Migration)のあった
1920年代から再開したいと思います。
この年代は、アメリカ史においても
「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」
と呼ばれる時期でした。
この時代のJazzを爆発的に発展させた
アメリカの時代背景について紐解いていきましょう。
禁酒法と「スピークイージー」
1920年、アメリカで「禁酒法」という
法案が制定されました。
読んで字のごとく、酒類の製造・販売・輸送を
一切禁止とする法律なわけですが、肝心の
「所持・飲酒」は禁止ではありませんでした。
まったく意味がわかりませんが、
まあ普通に考えて、
全米の家庭や飲食店まで警察が監視して
「今、お酒飲みましたね⁉禁酒法違反!逮捕!」
なんてやるのは、物理的にも人権的にも不可能です。
そのため酒類の所有・消費は禁止の対象とはせず、
製造・流通を塞ぐことで
「売る奴と作る奴を潰せば自然と酒は消えるだろう」
という甘い見立てで作られた
馬鹿みたいな法律だったわけです。
では当時、
何故お酒を禁止する必要があったのか?
ですが、
それは単に「お酒は体に悪いから」とかいうレベルではなく、
宗教、社会問題、政治、戦争といった
複数の要因が複雑に絡み合っていたからでした。
特に当時のアメリカのアルコールの消費量は
現在の数倍とも言われ、
飲酒による家庭内暴力、二日酔いなどによる労働生産性の低下、
酩酊による事故などが深刻な社会問題になっていたため
「禁酒法をやってみよう」
とする国民の声も少なからずあったという時代背景があります。
しかし人間、禁止されると余計に飲みたくなるのが世の常です。
ここで暗躍したのが、裏社会のマフィア(ギャング)たちでした。
彼らは密造酒や密輸酒で莫大な資金を得て、
街のあちこちに「スピークイージー」
と呼ばれる違法なバーを開店させるようになりました。
「Speak easy.(静かに話せ。)」
という名の通り、
警察の目を盗んでコソコソと入る秘密の酒場です。

当時アメリカのいくつかの大都市では、
マフィアの資金力、政治力が警察や行政を完全に圧倒しており、
まさに「警察も手がつけられない(あるいは警察ごと買収されていた)」状態でした。

例えばシカゴは、裏社会の帝王アル・カポネの天下でした。
カポネは密造酒で得た年間数億ドルとも言われる巨万の富を使い、
警察署長、検事、果てはシカゴ市長までで買収していました。
この辺りは名作映画「アンタッチャブル」で描かれています。
また、カンザスシティではマフィアではなく
トム・ペンダーガストという実業家が、
警察署長も市長も自分の部下に置き換え、
街の公共事業だろうと夜の闇ビジネスだろうと
市の実権を握る腐敗した政治ボス(フィクサー)として
街全体を支配していました。
ペンダーガストが「この街では禁酒法は適用しない」
と言えば本当にそうなっていました。
また一方で、ニューヨークはアル・カポネのような
一強支配ではなく、「五大ファミリー」と呼ばれる
イタリア系マフィアたちが
街を分割統治していました(ラッキー・ルチアーノなど)。
ニューヨークは特にスピークイージーの数が凄まじく、
街中に10万店以上存在していたと言われています。

いずれも一見すると裏社会が牛耳る恐怖の暗黒街ですが、
Jazzミュージシャンたちにとっては最高の仕事場でした。
マフィアたちは自分の経営するスピークイージーに
客を呼ぶためのエンタメとして、Jazzの生演奏を採用。
ミュージシャンたちを高額なギャラで雇っていました。
このように多くのJazzミュージシャンたちは、
マフィアに守られながらスターダムを上り詰めていきました。
それが特に顕著だったのがシカゴ、ニューヨーク、カンザスシティだったというわけです。
Jazzは禁酒法の下でマフィアに育てられた
と言っても過言ではないでしょう。
洗練と革新の街、ニューヨーク
イタリア系マフィアたちによって
裏社会を支配されていたニューヨークは、
表向きは全米のレコード会社やラジオ局が集まる
音楽ビジネスの中心地でした。
ルイ・アームストロングの記事でもお話ししましたが、
当時ニューヨークで大活躍していたのが、
フレッチャー・ヘンダーソン楽団でした。
彼らはコールマン・ホーキンス擁するサックス群と、
金管楽器群を掛け合わせる
画期的な編曲(アレンジ)を生み出し、
大人数で演奏する「ビッグバンド」の演奏スタイルを確立します。

それまでサックスという楽器は、
どこか地味な伴奏用の楽器扱いでした。
しかし、1924年にシカゴから来た
ルイ・アームストロングの演奏に
強烈な刺激を受けたホーキンスは、
ルイのトランペットのようなスウィング感と表現力を
テナーサックスで再現することに開眼。
圧倒的な音圧と力強いソロで、
テナーサックスをJazzの花形楽器(主役)へと
爆発的に進化させました。
こうして大人数で魅せる
ビッグバンドの骨格がここで完成しました。
この熱気と洗練されたサウンドに刺激を受けたのが、
後に「Jazz界の公爵」と呼ばれるデューク・エリントンでした。
彼はハーレムの高級クラブ「コットン・クラブ」を拠点に、
よりエレガントで複雑なオーケストラ・ジャズを
花開かせていくことになりますが、
それはまた次回の記事でお話しします。
カンザスシティの台頭とビッグバンドスウィング
Jazzにおいてシカゴやニューヨークが脚光を浴びる中、
カンザスシティでも独自のJazz文化が爆発していました。
24時間営業のクラブが立ち並ぶこの街には、
全米から腕利きのミュージシャンたちが集結。
夜な夜な過酷で熱いジャムセッションが繰り広げられていました。
このカンザスシティの熱狂から生まれたのが、
後にJazz界を揺るがすビッグバンドのリーダー、
カウント・ベイシーでした。
ピアノ奏者のカウント・ベイシーは、複雑な楽譜に頼らず、
その場のノリとアイディアで演奏を組み立てる
ヘッド・アレンジを得意とし、
圧倒的にノリが良く、ダンサブルなサウンドを作り上げました。
特に彼の楽団が奏でる重厚かつ軽快なリズムは、
ピアノ(彼自身)、ギター、ベース、ドラムからなる
「オール・アメリカン・リズム・セクション」
と呼ばれる4人によって生み出されていました。
これはフレッチャー・ヘンダーソン楽団の
ビッグバンドスタイルに、ルイ・アームストロングの
個人技的だったスウィング感を
リズムセクションから組み込むことで
バンド全体でルイのようなスウィングを作り出すという革新的なスタイルで、
これが「スウィング・ジャズ・ブーム」の始まりとなりました。
ここから
デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーといった、
ビッグバンドのスター楽団達が
アメリカのミュージックシーンを席巻していくことになります。
