クラウドフレア物語① ~インターネットのボディガードだ! 《前編:創業者たち》
カフェでの紙ナプキンへの一枚の走り書き。そのメモが革命的なビジネスを生み出した。クラウドフレア(Cloudflare)の始まりだ。ハーバード大学のビジネスコンテストで生まれ、高速なセキュリティサービスを生み出し、ユニコーンへ。その中心となったのがマシュープリンス、ミシェル・ザトリン、リー・ホロウェイの3人だ。“ビジョン × 実行 × 技術”の完璧なトライアングル!日本初のCloudflareの歴史を追うヒューマンストーリー 全2編。
プロローグ──紙ナプキンに描かれた未来
2009年、ラスベガス。
猛暑の8月、セキュリティの祭典「Black Hat」の会場近く、ひっそりとした一軒のカフェ。
そこに、世界を変える計画が生まれようとしていた。
人影もまばらな午後のカフェで、3人の若者が向かい合っていた。
マシュー・プリンス、ミシェル・ザトリン、そしてリー・ホロウェイ。
彼らはまだ、誰からも知られていない。だがこのとき、“未来”は、テーブルの上の「一枚の紙ナプキン」に描かれ始めていた。
マシューは「Project Honey Pot」(ハニーポット計画)というスパム追跡プロジェクトの経験から、インターネットの安全性と速度の向上に強い関心を持っていた。
ミシェルは、その議論を聴きながら、新しい戦略と実行可能性なプランを思い描いていた。
寡黙なエンジニア、リー・ホロウェイは、会話には加わらず、ゆっくりと紙ナプキンを手に取り、そこに線を引き始めた。円を描き、線を伸ばし、いくつかの点を結ぶ。説明も言葉もない。ただ、静かな手つきで、何かを“構築”しはじめた。
やがて、リーはその手書きのスケッチをマシューに向けた。
「Anycast──どの拠点も、同じIPで応答する。そして最短経路が自動で選ばれる。そこに、DNS、WAF、キャッシュ……全部を一体にするんだ」
そこには、誰も見たことのない「ネットワークのバックボーン」が描かれていた。
それは、予言に近かった。
従来のインターネットインフラは、いくつものバラバラの機能の組み合わせで成り立っていた時代に、それらを統合し、しかも“防御と高速化”を同時に叶える──そんなものは、まだ世界のどこにも存在しなかった。
けれど、そのとき3人の目には、「できるかどうか」ではなく、「やるべきかどうか」だけが問題だった。
その日、ラスベガスのカフェの片隅で交わされた会話と、紙ナプキンに残されたスケッチが、のちに世界中の莫大なパケットの“通り道”を決めることになる。
まだ名前さえないプロジェクトが、密やかに、その鼓動を打ち始めた瞬間だった。
第1章:理屈と魔法──マシュー・プリンスとリー・ホロウェイの出会い
少しさかのぼって、2004年、シカゴ。
まだスマートフォンも普及していなかった時代。
30歳手前のマシュー・プリンスは、シカゴ大学のロースクールに通いながら、ふとした疑問に取り憑かれていた。
「スパムメールって、いったいどこから来るんだ?」
マシューの思考はしばしばサイバー空間に飛んだ。
幼い頃からパソコンに親しみ、ネットの裏側を覗くのが楽しくて仕方なかった。
司法試験に受かっても、判例よりHTMLが気になってしまう“ハッカー気質の弁護士”──それが彼だった。
マシューが立ち上げたのが「Project Honey Pot」(ハニーポット計画)だった。それは、迷惑メール業者の活動を炙り出すオープンソースの仕掛け。
“罠”となるダミーのアドレスを世界中のウェブにばらまき、スパムの発信元を逆探知する。正義感というより、知的好奇心。
「どうなってるのか知りたい」――その思いだけが彼を突き動かしていた。
そして、運命の出会いが訪れる。
リー・ホロウェイ。
カリフォルニア大学サンタクルーズ校に通う、無口な若者。
スリムな体躯に、どこか抜けたような表情。でも、一度キーボードを叩き始めると、誰もがそのタイピングに言葉を失う。
コードで会話するような男だった。
数行のスクリプトで、仕組みの本質を掴む。理屈を話すより、自分で“動かして”みるタイプ。マシューは、初めて彼のコードを見たとき、背筋がゾクッとした。
「これは……魔法だ」
それがふたりの始まりだった。
マシューが理論を語ると、リーはそれを聞き取りコードにして返す。
しかも、想定の“3歩先”まで組み込んである。
マシューは笑って言う。
「僕が論理で迷路を作っている間に、彼はもう出口から戻ってきてるんだよ」
この「Project Honey Pot」は、爆発的に成長したわけではない。
だが、ふたりの間に生まれたもの──それは“インターネットの裏側にある敵”を可視化するというミッションだった。
リーは、決して熱くは語らない。
ただ静かに、目の前のコードに向き合っていた。
だが彼の手元には、マシューの信じる“理想のかけら”が、ひとつずつ形を持ちはじめていた。
こうして、理屈と魔法の組み合わせができあがった。
この2人がタッグを組んだからこそ、後に“紙ナプキン”に描かれる構想が、現実に動く技術へと変わっていくことになる。
Cloudflareの未来の礎は、ここから動き出していた。
第2章:ミシェル・ザトリン──オペレーションの女王
2009年、ハーバード・ビジネス・スクール。
教室の空気は熱かった。
アイデアが飛び交い、MBA学生たちが未来のユニコーンを目指して火花を散らす。
そのなかで、マシュー・プリンスは少し浮いていた。
法律家でもあり、エンジニアでもあり──スーツ姿なのに、話す内容はDNSやスパムフィルターばかり。
だが、その話に耳を傾けたひとりの女性がいた。
ミシェル・ザトリン。カナダ中央部・サスカチュワン州の小さな町の出身。
マギル大学で化学を学び、Googleとマッキンゼーで実務を積んだあと、さらなる成長を求めてハーバードへ来た。
彼女が最初にマシューに感じた印象はこうだった。
「ちょっと危なっかしい。でも…彼の目が、本気だったのよ」
アイデアはまだまだ未完成だが、その“芯”には、誰もが見逃してしまいそうな本質が潜んでいた。
マシューが語ったのは、「Project Honey Pot」の話だった。
スパムメールの発信元を追跡し、ネットの“裏側”を可視化する実験だった。
ミシェルはそれを聞いて、ピンときた。
「あなたが言ってること、それって── 社会インフラの再構築じゃない?」
ここに、3人目のピースが加わった。
リーがコードを描き、マシューが理想を語る。
その間を埋め、実行可能な構造に落とし込む人物が必要だった。
それが、ミシェルだった。
彼女は“オペレーションの女王”と呼ばれる。
どんなカオスも、冷静に分解し、整理し、実行計画へと変えてしまう。
完璧主義だが、現実主義でもある。誰よりも現場の温度を把握していた。
マシューとミシェルは、ハーバードがバーデン・オードトリアムで主催する「i-Labビジネスプランコンペ」に出場する。
そこで提出したプランが、のちのCloudflareとなる原型だった。
世界中からのサイバー脅威を一括管理
DNS、WAF、キャッシュ、SSLを統合化したネットワーク基盤
セキュリティを“コスト”ではなく“価値”に転換する構想
結果は ── 優勝。
Burden Auditorium の審査員が、
「このチームは学生ではなく、すでに企業そのものだ」と評した。
─あれはまさに学生ではない存在として認知された瞬間だった。
コンペの終了後、マシューとミシェル、そしてリーの3人は西海岸へ向かい、途中のモーテルでサービス名、UX、価格体系、組織設計まで話し合い続けたという。
ミシェルは笑って言う。
「もし私がいなければ、あのアイデアは永遠にマシューのノートの中だったと思うわ」

Cloudflareは、この3人だからこそ、動き出せた。
ビジョンを語る者(マシュー)
技術を実装する者(リー)
現実に着地させる者(ミシェル)
それはまさに──ビジョン × 技術 × 実行の“完璧な三角形”だった。
第3章:世界へ名乗りを──TechCrunch Disruptへ登壇
2010年9月、サンフランシスコのDesign Center Concourse。
Cloudflareの3人は、スタートアップの聖地に立っていた。
それは世界中の技術者と投資家が集う、TechCrunch Disrupt。
未来のGoogleやFacebookがこの場から生まれるといわれる、いわば“公開オーディション”の舞台だった。
自分たちの技術と夢をプレゼンテーションするこの場で、3人はただ静かに、だが確信に満ちた準備を進めていた。
壇上に立ったのは、マシュー・プリンス。
プレゼンの冒頭、彼はこう切り出した。
「Cloudflareは、ウェブの“防弾チョッキ”です。しかも、それを着ると、速くなるんです」
一瞬、会場に沈黙が落ちた。
セキュリティを入れると遅くなる──それが常識だった時代。
けれど彼は、逆のことを言い切ったのだ。
その瞬間、空気が変わった。
Cloudflareが紹介したのは、CDN、DNS、SSL、WAFなど、ネットの“裏方”機能をワンパッケージに統合したクラウドサービス。
しかも導入は、わずかワンクリック。
インフラの複雑さをすべて取り除いた、“ネットの守護神”だった。
だが、最大のインパクトは「セキュリティを入れることで、むしろ速くなる」という点にあった。
守るだけじゃない、加速するよ。
それは、誰もが思いつきながら、誰もやり切れなかったこと。
観客たちはざわめいた。
「そんなこと、本当に可能なのか?」
「それを全部、たった3人で?」
答えはYesだった。
裏では、リー・ホロウェイが書き続けたコードが静かに走っていた。
Anycastネットワークをベースに、世界中のそれぞれのデータセンターで同じ機能を稼働させる。
しかも障害が起きれば、自動で切り替える構造。
拡張性が高く、どんな機能も積み重ねられるアーキテクチャだった。
「TechCrunch Disrupt の会場では、"まるですでに企業のようだ"といった期待感が漂っていた」
プレゼンのあと、デベロッパーやスタートアップが殺到した。
「自分のサービスにも使いたい」「どうすれば参加できる?」
そしてその数は、数千から数万へ、さらに数百万へと伸びていった。
彼らの描いた“インターネットの未来像”に世界が共鳴したのだ。
ステージの裏で、ミシェルはふとつぶやいた。
「信じられないけど、これが現実になったのね」
マシューは笑って答えた。
「でも、始まったばかりだよ」
そう、Cloudflareの旅は、まだ第一歩を踏み出したばかりだった。
第4章:CTOの離脱──リー・ホロウェイとの別れ
このCloudflareの公開デビューからわずか数年。
その成長は、予想を超えていた。
「登録が1万件を超えた」
「DDoS攻撃を防ぎきった」
「サーバレスでAIを回した」
──ニュースは次々と届き、Cloudflareという名前は、世界中のエンジニアたちの間で知られるようになった。
それはまさに“シリコンバレー・ドリーム”の体現だった。
だが、その裏で、誰にも知られず、静かに“異変”が始まっていた。
リー・ホロウェイ。Cloudflareのコードの心臓部を設計し、誰よりも早く、誰よりも正確にネットワークの“未来”をコードに落とし込んだ男。
彼に変化が現れ始めたのは、2013年頃だった。
会議中に言葉が出てこない。
短期の記憶が抜け落ちる。
「さっき話したことが伝わっていない?」と、チームメンバーが首をかしげる。
最初は疲労かと思われた。
だが、症状は少しずつ、確実に進行していった。
2016年。リーは、Cloudflareを離れる決断をする。
診断の結果は、前頭側頭型認知症(FTD)。
記憶だけでなく、感情や判断力にも影響を及ぼす、極めて稀な脳疾患だった。
しかも進行は早く、治療法も確立されていない。
「彼がいなければ、Cloudflareは立ち上がらなかった」
──マシューは、記者の前でそう言った。
けれど本音を言えば、そんな言葉では到底足りなかった。
リーの手によって生まれたアーキテクチャは、今もCloudflareの中枢で動き続けている。
彼が設計したモジュール構造は、のちに加わるCloudflareのすべての機能の“受け皿”として機能し続けた。
それは、彼がもうこの場にいなくても、Cloudflareのなかで彼が“生き続けている”という証だった。
2019年9月13日。
ニューヨーク証券取引所。
Cloudflareが上場の鐘を鳴らした日。
会場の壇上に立ったのは、マシューとミシェル。
写真撮影のフラッシュが、祝福と興奮を映し出していた。
だが、そこにリーの姿はなかった。
マシューは小さくつぶやいた。
「本当は、彼と一緒に鐘を鳴らすつもりだった」
「でも、彼の“手”が書いたコードは、今も、僕らのすべてを支えている」
人が創るものには、必ず“人の温度”がある。
Cloudflareが“速くて、安全で、シンプル”であり続けるのは、最初にそれを夢見たひとりの男の、“静かなる情熱”がそこに存在しているからだ。
技術には、顔がある。
そして、その顔には、時に涙がにじむこともある。
>>第5章:信頼を築く──Shopifyとの提携。米大統領選での協力 へと続く
登場人物
マシュー・プリンス(Matthew Prince)
生年・出身:1974年11月13日、ユタ州ソルトレークシティ生まれ、パークシティ育ち
学歴:Trinity College(学士:英文学+コンピュータサイエンス)、シカゴ大学法科大学院(JD)、ハーバードMBA(2009年、George F. Baker Scholar)
初期キャリア:弁護士、カンパーニーGroupWorksに勤務。2004年にはCAN-SPAM法をきっかけに、アンチスパムソフトウェア「Unspam」、そしてProject Honey PotをLee Hollowayと立ち上げる。
クラウドフレア創業:2009年、MBA在学中に同級生ミシェル・ザトリン、リー・ホロウェイとともにCloudflareを設立。CEO兼会長。
パーソナリティ:技術的好奇心と自由主義者の精神を持ち合わせた「使命を重視するリーガル・テック系ビジョナリー」。元スキーインストラクター、論理的な思考を強みに信念で物事を貫く。近年はAIの波で「創作者保護」の必要性についても発信しており、AI時代の倫理にも関心。

ミシェル・ザトリン(Michelle Zatlyn)
生年・出身:1979年7月24日、カナダ・サスカチュワン州プリンスアルバート生まれ
学歴:カナダ・マギル大学(化学学士、優秀賞)、ハーバードMBA(2009年卒、Dubliner Prize受賞)
創業前キャリア:Google、東芝でプロダクトマネージャーとして勤務。その後I Love Rewards(後のAchievers)などのスタートアップを経験。
クラウドフレアでの役割:共同創業者 兼 COO(2019年より社長兼務)。戦略実行・オペレーション・組織構築を率いる存在 。
パーソナリティ:論理的で戦略的、交渉力と社交力も高く、「エンジニアと投資家の架け橋役」。Fortune「40 Under 40」、Forbes「50 Self‑Made Women」に選出されるなど女性起業家としても注目 。

リー・ホロウェイ(Lee Holloway)
出身地:カリフォルニア州出身、アリゾナ州立大学のエンジニア。
初期キャリア:Unspam Technologiesのソフトウェアアーキテクトを務め、Project Honey Potの技術設計に深く関与 。
クラウドフレアでの役割:共同創業者 兼 リードエンジニア。「サーバーレス以前の最初のAnycast構想」を実現した天才プログラマ。
人物像と変化:かつては数時間コーディングに没頭する熱意溢れる人物。2016年頃から前頭側頭型認知症(FTD)を発症。2016年退任、2019年IPO時の撮影にも不参加となり、いまも自身の健康と戦っている。

