あの戦争は何だったのか─「あの戦場体験を語り継ぐ集い」
9月27日に行われた「あの戦場体験を語り継ぐ集い」に参加した。開催は10年ぶり6回目。証言者が高齢になり、大規模な集いは今回が最終回になるという。
当日入場150名を残して事前予約を締め切った800名の座席は、満席となった。平均年齢95歳の戦場体験者の方々を迎える拍手は大きく力強かった。
YouTube中継のアーカイブが残っている。再生数は当日の参加数を超え、まもなく千人を超えようとしている。
戦場体験放映保存の会
「あの戦場体験を語り継ぐ集い」を主催した「戦場体験放映保存の会」を知ったのは、今年7月。同会が主催し、日比谷図書文化館で行われた「戦後80年目の戦場体験上映会」に2日続けて参加した。
1日目はドキュメンタリー映画「大日向村(おおひなたむら)の46年」(1986年制作)を上映。
昭和13(1938)年、満州開拓団を送り出した大日向村(現・南佐久郡佐久穂町)の住民たちの戦中戦後を追った記録。国策映画「大日向村」(1940)の映像と村民へのインタビューで構成された第一部「分村移民の軌跡」と、満州での体験を語る人々へのインタビューで構成された第二部「語る-過去と現在をつなぐもの」をあわせて155分。
髪にカーラーを巻いたままインタビューに応じたり、インタビューの間に炊飯器からご飯をよそったり、ゲートボールの打順が回ってきたり。日常を過ごすなかで当時を回想する言葉に飾りのないリアリティを感じた。インタビューを終えた後の姿を遠景でとらえた場面もあり、観客が想いを馳せる余白が豊かだった。1986年度キネマ旬報文化映画ベスト・テン第2位を受賞というのもうなずける。
上映後、山本常夫監督を迎えてのトークがあり、「カメラを回したのは、基本お一人一回」と話されていたのが印象に残った。何度か会って互いの人となりがわかってからカメラを向けたということらしい。

2日目はドキュメンタリー映画「語らずに死ねるか~無名の元兵士たちの声~」(2009年制作/45分)の上映の後、戦場体験放映保存の会が記録した「特攻」についてのインタビュー映像が毎日新聞記者の栗原俊雄氏の解説つきで紹介された。
「特攻」と聞くと片道だけの燃料を積んだ飛行機を思い浮かべてしまうが、人間魚雷など様々な形がある。潜水服を着て海底で敵の舟艇を待ち構え、近づいたら竹ざおで船底を爆破するというものもあった。
命と引き換えの体当たり作戦。証言者は、決行が取りやめになったり悪天候で引き返したりして命を落とすことを免れた方々だ。
「戦場体験放映保存の会」は、そのような戦場体験者の一人一人にインタビューして体験を記録し、編集し、文字を起こし、字幕をつけた証言動画を放映し、保存する。保存の会のおかげで、知らなかった歴史に触れることができた。
「無色」とは
「戦後80年目の戦場体験上映会」で司会をされていたのは、事務局長の中田順子さん。よく通る声と力の抜けたやわらかな語り口に好感を持った。
上映会の冒頭で、戦場体験放映保存の会は発足当初(2004年12月)から「無色・無償・無名」を信念としていると中田さんが話された。
「むしょく」と耳で聞いたときに「無職」の字をあてて、「仕事をしながらではなく専従で」という意味かと早とちりしてしまったが、「無色」だった。
無色とは、色を持たないということ。それは、政治的、思想的な発言を受けつけないということではなく、むしろ色々な立場、考え方を分け隔てなく受け入れ、それらが混ざり合うことで特定の色に偏らない、染まらないということ……と理解した。
会のサイトを確認すると、もっとシンプルだった。
「無色」とは、この運動にいかなる他の目的も持ち込まないという意味です。戦場体験保存運動は戦争のない平和な社会を望むものであることは言うまでもありませんが、私たちはただ戦場体験を掘り起こすこと自体を目的にして運動します。どんな心情を持つ人でも戦場体験を語り集める人ならば共に手を携えて運動の発展に協力します。団体も歓迎です。
「無色」とは、この運動にいかなる他の目的も持ち込まないという意味。
実にすっきりとして潔い。
8月ジャーナリズムで終わらせない
「8月ジャーナリズム」という言葉を知ったのも、「戦後80年目の戦場体験上映会」だった。
上映会2日目、特攻についてのインタビュー映像を解説された毎日新聞記者の栗原俊雄さんが紹介し、自身は「常夏」でありたいと話された。
8月が終わっても戦争と平和に思いを馳せ続けたいと思い、戦場体験放映保存の会が主催する「あの戦場体験を語る集い」に申し込んだ。
こんなnoteも書いた。
戦後80年の7月、8月が終わり、9月も終わろうとする27日、「あの戦場体験を語り継ぐ集い」当日。
会場の一ツ橋ホールに着くと、当日入場の長い列がのびていた。開始1時間前の12時30分開場で、わたしが到着したのは13時10分頃。前方の席を探したが、真ん中より前の座席はすでに埋まっていた。出足の早さが来場者の熱意を物語る。
かなり高齢だと見受けられる人が多い一方、学生のように見える若い人たちも目立つ。他のイベントの客席ではなかなか見られない構成だ。寄席の客層を上下に押し広げた感じと言おうか。

今は聞くことのできない証言
第1部は証言集会。まず、日中戦争初期から太平洋戦争中期までの戦場体験を語った6名の証言動画が上映された。
どれも今はもう本人から聞くことの出来ない証言。各体験者の証言の冒頭に、その人が赴いた戦地の地図がスクリーンに映し出された。
山崎良雄さん
第9師団歩兵第35連隊 1937(昭和12)年8月召集 徐州作戦など
城武夫さん
「飛龍」・艦上攻撃機 真珠湾攻撃に参加
赤池光夫さん
近衛歩兵第4連隊 マレー・シンガポール侵攻
須藤文彦さん
空母「赤城」・整備兵 ミッドウェイ海戦に参加
大国孟彦さん
第7師団歩兵第28連隊 ガダルカナルに従軍
増茂武三郎さん
第33師団山砲兵第33連隊 インパール作戦に参加
生の声と熱で語られる体験
証言動画に続いて、体験者の肉声による証言リレー。
証言される体験者の方々が舞台下手の階段を上がり、横一列に着席する。足元に気をつけながらゆっくりと進む姿を客席が見守る。
証言者が一人ずつ登壇するのではなく、全員が舞台に揃った上で一人ずつ前に出て証言する形。証言者は舞台の上から客席を見つめ続け、客席は証言者を見つめ続ける。
平均年齢95歳という証言者が居並ぶさまには静かな迫力があった。そのうち3名は100歳。戦争を生き抜き、戦後80年まで生きてきて、これから証言をしようという人たち。遠距離を移動されてきた人もいる。身体への負担や周囲の心配もあったかもしれない。それでも、証言を届けに来てくださった。しっかり受け止めなくては。舞台と客席の間に、決意のやりとりのようなものを感じる。
張り詰めた空気を大きな拍手が破り、一人目から順に証言がリレーされていった。
今日まで生きてこられたから生の声で届けられる言葉とその熱を受け取る。受け止める。
証言とあわせてスクリーンに字幕が表示された。原稿集も会場で販売され、話す内容は事前に用意されていたが、ところどころ言い回しが違ったり、つけ足されていたり。ぎりぎりまで推敲を重ねられたのだろうなと想像した。
同じ「体験」はない
今年の春から夏にかけて「あの日の食堂〜戦後80年の学徒たち」というNHK名古屋発の番組に脚本として関わり、学徒動員により愛知県半田市の飛行機工場で働いていた方々が当時を振り返る手記を読んだ。
同じ学校、同じ学年から同じ工場、同じ寮に動員された人であっても、心を動かされた出来事はまちまちだった。同じ作業を辛いと感じた人もいれば、そこにやり甲斐を見出した人もいた。
学校の所在地や生徒の年齢が性別、動員された先の環境が違えば、さらに受け止め方は多様になる。
様々な学校のいくつもの文集に目を通して感じたことは、「ひとくくりにできない」ということだった。後の時代の人間が、訳知り顔で簡単にくくってはならないと思った。ひとくくりにされてたまるかという気骨を手記から感じた。
ましてや「あの戦場体験を語り継ぐ集い」で証言されるのは、86歳から100歳まで。軍人だった人もいれば、民間人だった人もいる。
15名の体験者(欠席された眞野和雄さんを含む)の証言タイトルと紹介を見ると、出身地も様々で、台湾出身の人もいる。戦時中を過ごした場所、終戦を迎えた場所、家族構成も一人一人違う。
声の調子、話しぶりも一人一人違う。熱っぽく語る人。静かに語る人。色にたとえると、明るさも濃さもまるで違う。全員の証言を聞き終えると、「ひとくくりにできない」がより強くはっきりと残った。
同じ時代、同じ戦争を生き抜いても、同じ「体験」はない。
ぜひ登壇された全員の証言を聴いていただきたいと思う。
「私の家族は自決を中止した」
佐藤孝則(さとう・たかのり)さん 94歳
福島県出身 民間人
3歳の時家族でテニアンに移住、昭和19年米軍のテニアン島上陸を体験、砲弾銃弾で負傷。
「バシー海峡の悲劇」
瀬戸山定(せとやま・さだむ)さん 99歳
1926(大正15)年生 陸軍
1942(昭和17)年、陸軍少年飛行兵に志願(14期生)。航空総軍司令部通信班所属。
「東京大空襲、私は被害者であり加害者だった」
亀谷敏子(かめや・としこ)さん 93歳
1931(昭和6)年生 民間人
東京都深川区(現江東区)自河町で東京大空襲に被災、母と5人の姉弟妹を失う。予科練の兄も土浦の空襲で亡くなった。
「骨と皮だけの姿になった」
武田(たけだ・あきら)さん 91歳
1934(昭和9)年生 民間人
吾妻橋近くで東京大空襲に被災、小坊主をしていた原区(現品川区)の寺に一人置き去られる。その後城南空襲も経験。
「学徒動員で『桜花』を製作した」
川ロナオ(かわぐち・なお)さん 96歳
1929(昭和4)年生 民間人
茨城県土浦女学校3年生で海軍第1航空廠に学徒動員。特攻兵器「桜花」を製作した。
「ジャングルでの戦場体験」
坂上多計二(さかうえ・たけじ)さん 100歳
1925(大正14)年台湾生
1943(昭和18)年、海軍第103軍需部の軍属(農業指導員)としてフィリピン・ミンダナオ島に派遣。1944(昭和19)年、陸軍に現地入隊、第100師団独立歩兵第165大隊、直後に元の農場に配属。
「飛行機にかけた青春」
上野辰熊(うえの・たつくま)さん 97歳
1928(昭和3)年生 陸軍
1943(昭和18)年、陸軍少年飛行兵に志願(15期生)、飛行第66戦隊(鹿児島県万世飛行場)等。8月14日に出撃命令が出るが、待機のまま敗戦を迎える。
「学徒出陣の記」
内海琢己(うつみ・たくみ)さん 100歳
1925(大正14)年生 広島県出身 陸軍
1945(昭和20)年、師範学校在学中に学徒出陣熊本陸軍予備士官学校に入学。熊本城内で戦車への爆雷攻撃の訓練にあたる。
「『核』も『戦争』もない未来を願って」
小谷孝子(こたに・たかこ)さん 86歳
1939(昭和14)年生 広島県出身 民間人
広島市で被爆。建物の下敷きになるも助かるが、弟は全身火傷で死去、祖母と姉も全身火傷。母は原爆孤児の施設でボランティアをしていたが 6年後白血病で亡くなる。
「自決しなかった我が開拓団」
柴崎勝(しばさき・まさる)さん 86歳
1938(昭和13)年生 山形県在住 民間人
山形県第7次満州開拓団で満州国浜江省へ。引揚げ中にハルビンで、妹2名がジフテリアで死去。父はフィリピンで戦死。
「仲間も一緒に帰りたかった」
中島千代吉(なかじまちよきち)さん 96歳
1929(昭和4)年生 山形県出身
満開拓青少年義勇軍(第6次)1944(昭和19)年3月、勃利(ぼつり)訓練所に入所。敗戦後、病気の同期生の看護役として本から残される。中国人の手助けもあり1946年10月帰国。
「死んでたまるかと頑張った」
西倉勝(にしくら・まさる)さん 100歳
1925(大正14)年生 陸軍
昭和20年現役 歩兵第 290連隊。朝鮮北部のソ連国境付近に配属。コムソモリスクに抑留、1948年復員。
「ソ連抑留は幸運」
呉正男(ご・まさお)さん 98歳
1927(昭和2)年生 台湾出身 陸軍
1944(昭和19)年、陸軍特別幹部候補生に志願滑空飛行第1戦隊。朝鮮北部に従軍。中央アジアのカザフスタンに抑留され1947年復員。
「残留孤児だった私」
赤崎雅仁(あかさき・まさと)さん 88歳
1936(昭和11)年満州・琿春生まれ 民間人
満州で終戦、収容所で2人の妹が亡くなる。八路車の被服廠に母が留用され、帰国が認められなかった。1951 年母が死去、1953年、弟と2人で帰国。父は戦死していた。
「僕は音楽家になりたかった」
眞野和雄(まの・かずお)さん 94歳
1931(昭和6)年生 民間人
錦城中学(現・錦城学園高等学校)東京大空襲を墨田区横綱で経験。疎開先で仙台空襲を経験。
※年齢は9月27日時点
戦争をしてしまう人間にどう向き合うか
第1部の証言集会を受けての第2部のシンポジウムは、中田順子さんの司会で井上寿一さん(学習院大学法学部政治学科教授)と水島久光さん(東海大学文学部広報メディア学科教授)が「語り継ぐためにできること〜戦争をしてしまう人間にどう向き合うか〜」を語った。
これがとてもとても良かった。今聞いた証言を、どう次につなげるかということを考える時間になった。ぜひ、第1部と第2部をあわせて観ていただきたい。
感想を語りあえる人が広がることを願って、感想を語りすぎる前にこのnoteを公開する。
note公開翌日、そろそろ再生回数が1000回を超えたかなと開いたら、ちょうど1000回だった。

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目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。