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ふたつの苦難を生き抜いた─国立ハンセン病資料館「戦後80年 戦争とハンセン病」

8月10日、国立ハンセン病資料館を訪ねた。

ギャラリー展「戦後80年 戦争とハンセン病」(8月31日まで)にあわせて開かれるトークを聴き行きませんかと友人に誘われ、行くと即答したのは、余語先生のことを思い出したからだった。

ギャラリー展「戦後80年 戦争とハンセン病」チラシ表。赤い背景に義足という強いビジュアルに「戦争と隔離、ふたつの苦難を生き抜いた」とコピーが入っている。
ギャラリー展「戦後80年 戦争とハンセン病」チラシ裏

紙袋いっぱいの資料と怒り

余語先生と出会ったのは、放送文化基金賞主催のアットホームなパーティーだった。小児精神科医であり、テレビドラマにアドバイスをされることもあると紹介された。駆け出し脚本家だった20代のわたしは、40歳あまり年上の初対面の先生に「わたしを刺激してください!」と口走ったらしい。

ウェルニッケ脳症という記憶障害を扱ったラジオドラマで放送文化基金賞を取ったばかりで、「医学のことをもっと知りたい!」という好奇心と「まだまだ書くぞ!」という意気込みで鼻息が荒くなっていたのだろう。

数日後、先生は両手に紙袋を提げて、わたしの勤め先のある青山一丁目までやって来た。

紙袋の中身は、手に取ったことのない本ばかりで、ハンセン病について書かれたものが多くを占めていた。当時、先生は多磨全生園というところで時々宿直をしていて、そこにハンセン病の方が暮らしているということだった。

「私は怒っているんです」

にこやかな顔と穏やかな声が、厳しくなった。余語先生は怒っていた。ハンセン病への誤った認識のせいで差別され隔離されてきた人々の、しなくても良かった苦労を嘆いた。隔離を正当化し、悲劇を美談にした作品を非難した。

余語先生の想いと紙袋を持ち帰り、勉強した。次に会ったときに感想を伝えた。先生はそこからわたしが世に問うものを書くことを期待されていたと思うが、わたしが受け止めたところで止まってしまった。

もっと知りたいと思えば、ハンセン病資料館に行き着いていただろうが、その存在すら知らなかった。調べようとしなかった。もしかしたら、見聞きしたのに受け流してしまっていたかもしれない。

時は流れ、ハンセン病資料館を訪ねる機会を得た。ここに行きますと伝えるべき人は、すでにこの世を去ってしまっている。

西武池袋線の清瀬駅からバスに揺られ、向かう。地図を見て驚いた。ハンセン病資料館のすぐ隣に国立療養所 多磨全生園があった(地図)。いや、多磨全生園の隣にハンセン病資料館があったというべきか。

明るく開かれた資料館

資料館は思いのほか、明るかった。一階のギャラリーには光があふれていた。「思いのほか」と思ったのは、重苦しさを膨らませてしまっていたからだろう。

トークの定員は20名で事前予約は必要なし。それほど人が集まることはないという予想なのだろうかと思っていたが、開始10分前に到着すると、60名を超える人たちがすでに着席していた。

九段下にある「しょうけい館」の語り部の方が、「捕虜と隔離が打ち砕いた人生」と題し、「戦地で捕虜となり、オーストラリアの収容所でハンセン病が発覚。戦後はハンセン病療養所への入所を余儀なくされながらも、懸命に生きた立花誠一郎さん」のインタビュー映像を元に書き起こした生涯を語ってくださる。

戦地で捕虜となり、ハンセン病が判明すると隔離され、日本に帰国する船でも隔離された。居住空間を分けられただけでなく、風呂に入れないなど、待遇も分け隔てられた。故郷の家族に迷惑をかけないようにと名前も変えた。「立花誠一郎」という名前すら本人のものではなく、何もかも奪われ続けた人生だった。

手先が器用な人で、トランクを手作りしていた。そのトランクも展示されていたが、多くは人にプレゼントし、手元に残っていなかったそうだ。

自動車の運転をし、他のハンセン病患者の送迎をしていた。

奪われることばかりだったが、人には与えることが多かったのではないだろうか。

質疑応答では次々と手が挙がった。学芸員の男性が質問者に対して「ありがとうございます」とまずお礼を伝えてから回答を始めるのも、ひらかれた資料館だと感じた。疑問を持つということは関心を寄せること。参加者が抱いた疑問を丁寧に拾い上げ、理解を深める糸口にする。「つなげる」ことに長けている。

運転免許取得についての質問があり、療養所内で自動車教習を行う例を知った。教習所でハンセン病患者の受け入れを断られ、必要に迫られてのことだという。

立花さんが生活されていた療養所で職員として勤務されていた方が参加者の中にいらして、その方のお話をうかがうこともできた。療養所内で結婚され、夫婦で自立して生活されていた立花さん。元職員の方と直接関わることはなかったようだが、穏やかに暮らされていたようだ。

進行役の学芸員さんは、吉國元さん。8月4日(月)放送のNHKラジオ「Nらじ」にも出演され、「戦後80年 戦争とハンセン病の訴えとは」と題してお話しされていた。

戦争と差別

講和を聞いた後でギャラリー展「戦後80年 戦争とハンセン病」を見た。スペース的には小さいが、重みのある展示だった。

企画に込めた想いの一節を書き留めた。

戦争とは、戦力として有用な身体と、そうでない身体が選別される事態であったとも言えるでしょう。

選別の結果、「そうでない身体」は分け隔てられる。差別される。平時よりも一層容赦なく。

「戦力にならない」とは、「必要とされない」ということ。それどころか、足手まとい、邪魔者として疎まれ、排除されてしまう。戦力になれなくても何か力になりたいというハンセン病患者の想いにつけ込むように、重労働を担わせた例もあった。力の入らない手足を懸命に動かし、これで少しは自分もお役に立てたと安堵する顔を想像し、せつなくなる。

手作りのトランクの他に、立花誠一郎さんが詠まれた短歌(『楓』第516号、 2007年7・8月号に掲載)が展示されていた。

読むくるる児の少なきも八月の書架に原爆図書を並べぬ

わざわざ手に取って読もうとする子供は少ないだろうけれど、8月なので原爆図書を並べるという情景を詠んだものだと最初は思ったのだが、立花さんが生活されていた療養所には子どもの存在そのものが少なかったのではと気づいた。せっかく原爆図書を並べても、それを読むべき子どもが少ない。そんな淋しさを詠んだものだろうか。

図書室の言葉を書き留める

2階の図書室に移動した。多磨全生園についての資料や文集のどこかに余語先生のことが書かれていたりするだろうかと何冊かめくってみたが、見つけられなかった。

ハンセン病や差別に関する書籍が並べられていた。背表紙のタイトルを見て行き、気になった言葉を書き留めた。

鈴木敏子
書かれなくとも良かった記録

歌集 盲杖 坂田泡光

続・差別用語

歌集 異形 朝滋夫

立石富生 小説 島比呂志

いのちの初夜 北條民雄
「存続する肉体が保証されない」という極限状況

盲人たちの自叙伝29 点字と共に 金春日 キムハイル

昭和18年 アメリカ プロミン

ジャックロンドン
多人種もの傑作短篇選

『書かれなくとも良かった記録』は、ハンセン病の子どもたちが通う学校で書かれた言葉を集めたもの。

『盲人たちの自叙伝29 点字と共に 金春日キムハイル』は、題名に何重もの苦労が込められている。ハンセン病の症状で失明に至り、国籍の違いも背負った人生。

『異形』については、作者の友人にあたる方が寄せた言葉の中で、『異刑』というタイトルのほうが良いのではと提案したが、『異形』が良いのだと言われたということが書かれていた。そのくだりを書き留め損ねてしまったのだが、何日も経って、引っかかっている。友人は、まるで刑罰を受けているような仕打ちだと言いたかったのだが、作者は、自分は悪いことなどしていないのだから形ではないと突っぱねたのだったか。

正しく知らせたいという想い

図書室を出て、展示を見た。

展示室1 「歴史展示」日本の政策を中心としたハンセン病をめぐる歴史
展示室2 「癩療養所」治療薬ができる前の療養所での過酷なくらし
展示室3 「生き抜いた証」

見やすく、わかりやすく、順序立てて、ハンセン病について知れる流れになっている。説明の文字は大きく、正しく知らせたいという想いが伝わる。

国立ハンセン病資料館は、ハンセン病問題に対する正しい知識の普及
啓発による偏見・差別の解消及び患者・元患者とその家族の名誉回復を図ることを目的としています。

と国立ハンセン病資料館のサイトのトップページにうたわれていることが形になっている。

「展示見学」のページでも詳しく網羅されており、解説シートも充実している。ここまでの熱量で発信されているものを今まで知らずにいたことを反省した。

『舌読』というタイトルの大きな写真には「SNS OK」の印がついていた。

目で文字を読めなくなり、点字を読む指も使えなくなり、舌で読む。

そこに至るまでの時間を思った。特効薬が行き渡るまでは、進行を止められなかった。体の一部が蝕まれ、損なわれていく不自由と不安と恐怖。それでも読むことを諦めず、文字を追いかけ続けた人がいた。

メモに言葉を書き留めながら展示を見て行った。

外に出た友 北條民雄
水面に落ちた油のように、癩を有った彼は人間社会から隔離させられるであろう。

「北條民雄 外に出た友」で検索すると、青空文庫で読めることがわかった。

癩者 ライ者

ハンセン病患者は「癩者」「ライ者」と呼ばれていたらしい。新聞記事にも「癩者」の見出しが使われていた。

ぼくらの風
近藤宏一

みんないま邪魔ものを
払いのけるようにして
自分の楽譜を脳裏に刻みつけている
それは ぼくらの心の中を吹く風だ

長い詩の一部を書き留めた。縦書きで高い位置に檄文のように掲げられていた。見上げて読んだ。

明石海人 白猫
深海に生きる魚族のように、自ら燃えなければどこにも光はない

ネットミュージアム兵庫文学館によると、明石海人あかしかいじんさんは小学校教諭として働きながら作歌を始めるが、ハンセン病と診断され、教諭を退職させられた。失明の後、「新万葉集」巻一に11首掲載され、歌集「白描」がベストセラーになった1939年、37歳で亡くなったとある。

壮絶な年表を見た上で書き留めた短歌を再読すると、悲鳴のような切実さを覚える。

陶芸作品も展示されていた。作家ものの器をちょこちょこ集めるのが好きなわたしが心惹かれる色や形の器が並んでいた。その手前に、失敗作の破片が展示されていた。添えられていた言葉の一部を書き留めた。

作品はこのようにして費やした時間の結晶として生まれる。作品の前にある、価値ある時間にも目を向けていただきたい

『舌読』の写真を前にしたときも感じたことだが、展示から想いを馳せる、行間を読むような時間を持つことが、ハンセン病資料館では特に意味がある。

取り戻せていないもの

「取り戻せていないもの」という展示も「SNS OK」となっていた。

ガラスケースに5つのプレートが納められている。

取り戻せていないもの
家族との絆
社会との共生
入所前の生活
人生の選択肢

病に加えて、偏見と差別によって奪われたものがあるということ。
それがまだ取り戻せていないということ。

余語先生は、その事実を目の当たりにして、怒っていたのだろう。

ゆっくり見て回っていたら、閉館の時間になった。数十年遅れての初訪問。数時間では回りきれない。

取り戻せないものがあることを知らしめ、取り戻そうとしている場所があり、人がいる。知れて良かった。行けて良かった。

〒189-0002 東京都東村山市青葉町4-1-13
開館時間 9時30分 から 16時30分
入館料 無料
休館日 月曜および「国民の祝日」の翌日。ただし、月曜が祝日の場合は開館。年末年始。館内整理日。
開館カレンダーはこちら
音声でのご案内
各種資料館情報は音声でのアナウンスでもご視聴できます。
音声アナウンスはこちら

国立ハンセン病資料館 アクセス

一緒に行った友人たちとはそれぞれのペースで見て回っていたので、帰り道に感想を共有した。

「2階からの階段の前に桜の見える窓があって、そこの説明が良かった」らしい。同じものなのかわからないが、今年春のギャラリー展「桜を植えた人びと─多磨全生園70年の桜並木─」のページに、桜並木と桜の見える窓についての説明があった。

ハンセン病療養所多磨全生園の桜をとりあげた初のギャラリー展です
70年の桜並木に込められた想いを伝える写真と作品が一堂に
桜の名所として知られる多磨全生園の桜並木は、70年前に入所者がその手で植え、今日まで大切に守り育ててきたものです。この桜並木には、かつて柊の垣根で閉ざされていたこの地に多くの人が訪れ、桜とともに自分たちの歴史を受け継いでほしいという入所者の想いが込められています。
本展では70年目の春に合わせ、桜並木の歴史を伝える写真や、入所者の桜への想いが込められた絵画・陶芸・詩歌など約25点をご紹介します。
また当館2階には、隣接する多磨全生園の桜並木を一望できる展望窓があります。花を愛でながら、その桜を植えた人びとに想いをめぐらせていただければ幸いです。

ハンセン病資料館 ギャラリー展「桜を植えた人びと─多磨全生園70年の桜並木─」

追記 池袋駅で再会

2021.11.16追記。池袋駅構内を歩いていたら、「ハンセン病資料館」の文字が目に留まり、立ち止まって写真を撮った。

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脚本家・今井雅子📚言葉遊びが好きな物書き 目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。