「事実を基にしたフィクション」が「事実そのまま」にはしていない理由
お題企画に「#読書の秋2025」がありますね。
私は今回、「読書について」述べようとも思ったのですが、その前に「フィクションについて」を述べていきたいと思います。
「事実は小説より奇なり」だが
まず予め述べておきたいことがあります。
「事実は小説より奇なり」と言います。
私はそんなもんは知った上で述べています。
さて、その上で。
上質なフィクションは「フィクションを少しだけしか混ぜない」そうなんです。
(どこで読んだか忘れてしまいました。)
これは芸人や漫画でもそうで、普通の人間が少し変にしているから面白いのです。
片っ端から変では笑いが生まれません。
普通の感覚は持ち合わせていないといけません。
普通の人間から変な言葉が出るから面白い。
そこをまず押さえておく必要があります。
そんな前提の上で、何故上質なフィクションは、「フィクションを少しだけしか混ぜない」のか。
答えは簡単で、他を普通にしておくほうがフィクションが際立つからです。
芸人や漫画と構造が一緒なんですね。
テーマのために時代をずらす
フィクションにはテーマのために時代をずらす、という手法があります。
上記拙稿で取り上げたギレアデ共和国は、戦前のドイツとソ連を参考にした架空の国家です。
これはテーマを書ききるためです。
もし架空の国家でなく、現実の国家にしてしまうと、近現代史に基づかなければいけません。
そうすると時代考証に追われてしまい、テーマを書き切ることが出来なくなってしまいます。
ゆえに、舞台を近未来の架空の国家(ギレアデ共和国)にしておき、極論が現実となった状態を述べ、テーマを書ききることにしてあるのです。
近未来に限らない
これは近未来に限らない話です。
時代劇でもそうなっていますね。
現代にある裏金問題をそのまま書くと、当事者に影響があります。
訟務が絡んできてしまうかもしれません。
ゆえに舞台を近現代でなく江戸時代にする。
悪人を悪代官と越後屋にしておく。
舞台設定をそうすることで、勧善懲悪を書き切ることが出来るのです。
何故、時代劇の悪人は「悪代官」なのか。
「悪藩主」(悪い殿様)を書きにくいからです。
藩主の子孫には有名人がいますからね。
(細川護煕さんや亀井亜紀子さんなど。)
「事実そのまま」であるとメインに据えたかったテーマから横道にそれることがあるのです。
「事実を基にしたフィクション」が、「事実そのまま」にしていない理由とは、テーマを書き切るのに不便だから、という要素があるんです。
