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メタファー(比喩)としての悪代官に戦後民主主義を見る

前回、「悪代官」の話について触れました。

私は今回、「メタファー(比喩)としての悪代官」について、思うところを述べたいと思います。

時代劇における「善」と「悪」

「悪代官」について述べる前に、時代劇における「善」と「悪」について述べていきます。

「水戸黄門」と「暴れん坊将軍」が典型ですね。
善は「水戸光圀」または「徳川吉宗」。
悪は「悪代官」及び「何々屋(越後屋など)」。

善の代官が悪の幕府に勝つ展開はないのです。
そんな展開にしてしまったら江戸時代にならないからです。(室町後期になってしまいます。)

そんな前提を踏まえた上で、私見を述べていこうというのが、今回の試みです。

メタファー(比喩)としての「悪代官」

メタファー(比喩)としての「悪代官」とは、どんな存在でしょうか。

庶民を苦しめる存在。
収賄で私服を肥やす悪党。

これだけなら裏金議員のメタファーです。
ただ、それなら「悪藩主」(悪い殿様)でも構わない(架空の藩で良い)話になってきます。

何故、「代官」なのか。
何故、「悪藩主」ではないのか。

私は前回拙稿を書いてから考えていました。
子孫が有名だからだけではないなと。

メタファーとしての「悪代官」には何か隠された意味があるのだろうと。

そして行き着いたのです。
メタファーとしての「水戸光圀」や「徳川吉宗」こそが重要なのだろうと。

「水戸光圀」や「徳川吉宗」の意味

「水戸光圀」とはどんな存在でしょうか。
史実でなく時代劇における存在として。

「徳川吉宗」とはどんな存在でしょうか。
史実でなく時代劇における存在として。

そう考えると読み解いていけます。

水戸光圀は印籠を見せることで。
徳川吉宗は「余の顔を忘れたか」と言うことで。
徳川家であることを示しているんですね。

悪代官からすれば偉いさんです。
控えおろう、となる存在です。
「ははー!」となるか、「偽者だ!」となるか。
そういう存在です。

メタファー(比喩)としての意味

水戸光圀や徳川吉宗は、メタファー(比喩)として、何を表現しているのか。

偉いさんが成敗しに来てくれる。
悪代官なんかよりもっと偉い人が。
そういう比喩表現です。

現実はそうなっていません。
けれども日本人はそういう願望を好むのです。

君主は悪くない。
君側の奸(くんそくのかん)が悪いのだ。
奸臣が悪いんで、君主は悪くない。
そういう願望を好むのです。

現代人が投影しているものとは何か

では、現代人がメタファーとして「水戸光圀」や「徳川吉宗」に投影しているものとは何か。

「民意」だと私は思っています。

時代劇は戦後につくられていますからね。

戦前であれば、「天皇」だったでしょう。
実際に、君側の奸を討伐するという名目により、軍人が蹶起しています。

けれども、時代劇がつくられているのは戦後。
そう考えると「民意」です。

悪代官、君側の奸、裏金議員。
そういったものを上位者が討伐する。
メタファーとしてそうなっているのです。

裏金議員の上位者とは誰ですか。
有権者なんです。

ゆえに私は「メタファー(比喩)としての悪代官」に対して、そして、水戸光圀や徳川吉宗に対して、戦後民主主義を見るのです。

そう考えると、徳川家なのに庶民派な描写があることにも、メタ的な意味があるように思います。

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