硝子の共感覚 #48 (ガラスのシナスタジア) 九条と荒木、事件の旋律
前回
終章:紺青と真紅の軌跡(前編)
数週間後。
横浜の街は、何事もなかったかのように日常を取り戻していた。
都市を飲み込もうとしたあの忌まわしい真紅の悪夢は、分厚い雨雲と共に去り、抜けるような青空が広がっている。
通信塔の一件は、表向きは「大規模なシステム障害」および「一部テロリストによる占拠事件」として処理された。
その裏にあった組織の巨大な陰謀、「ジェミニ計画」の全容が世に出ることはなかった。
警察上層部や政財界にまで根を張っていた組織の全貌を暴くことは、国家の根幹を揺るがすという判断が下されたのだ。
結局、明るみに出たのは「組織による新型麻薬開発と密売ルートの摘発」というトカゲの尻尾切りに過ぎず、すべてを狂わせ、そしてすべてを終わらせた「慧」という青年の存在は、深い闇の底へと完全に葬り去られることになった。
九条蓮は、警察での長い取り調べと事情聴取を終え、ようやく自由の身となって街を歩いていた。
その耳には、もうあの頭蓋骨を削るようなノイズは聞こえない。
行き交う人々の他愛のない話し声、アスファルトを擦る車の走行音、海風に揺れる街路樹の葉音。
それらすべてが、等しく、穏やかな色彩を持って彼の世界を彩っている。
共感覚が捉える世界は、もはや彼を脅かす刃ではなく、世界との優しい繋がりを取り戻していた。
彼は立ち止まり、コートのポケットから、少し傷のついた音叉を取り出した。
あの日、最上階の床に叩きつけたことで、表面には微かな欠けができている。
九条はそれを軽く指先で弾いた。
チィィィン……。
透き通った音が、青空へと吸い込まれるように響く。
蓮(紺青でも、真紅でもない……)
それは、誰もが持っている、ありふれた、しかし唯一無二の「命の音」だった。
九条は空を見上げた。
雲の隙間から、眩しい光が差し込んでいる。
蓮「……行こうか」
彼は、新しい「自分自身の足音」を刻みながら、光差す方へと歩き出した。
向かった先は、横浜の裏路地にひっそりと佇む、佐久間の隠れ家だった。
重い鉄扉を開けると、そこには包帯姿も痛々しい荒木と、片腕を三角巾で吊った佐久間が、苦いコーヒーをすすっていた。
荒木「よぉ、お勤めご苦労だったな。シャバの空気はどうだ?」
荒木がニヤリと笑いながら、マグカップを片手で持ち上げてみせる。
蓮「ええ、悪くないですよ。ただ、取り調べ室のパイプ椅子より、ここのボロボロのソファの方が落ち着く体になってしまったみたいです」
九条が苦笑しながら腰を下ろすと、佐久間が机の上に分厚い茶封筒を放り投げた。
佐久間「お前が警察の厄介になっている間、俺の方で裏のルートを使って『組織』のその後を洗ってみた」
佐久間は煙草に火をつけ、紫煙を細く吐き出した。
佐久間「結論から言うと、奴らは完全に終わった。瓦解したよ」
蓮「瓦解? 警察の摘発は麻薬部門の一部だけだったはずじゃ……」
九条が眉をひそめる。組織の力は強大だった。通信塔の計画が失敗したとは
いえ、そう簡単に崩れるような基盤ではないはずだ。
佐久間「ああ、警察のガサ入れなんて、あいつらにとっては痛くも痒くもない。だがな……」
佐久間は机の上のパソコンのモニターを九条に向けた。そこには、複雑な資金ルートの解析図や、裏社会の掲示板のログが羅列されている。
佐久間「通信塔でのあの一件の直後から、組織の中枢サーバーが何者かに徹底的にハッキングされたんだ。隠し口座の資金はすべて電子の海に消え、幹部たちの致命的な汚職データや弱みが、対立する他の組織やマスコミの裏ルートにバラ撒かれた」
荒木が身を乗り出して口を挟む。
荒木「結果として、資金源を絶たれた組織の内部で血みどろの覇権争いが起きた。幹部連中は互いを疑って殺し合い、下っ端は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。今じゃ、かつて日本を裏から牛耳ろうとした巨大シンジケートも、いくつもの小さなチンピラ集団に分裂して、場末の路地裏で細々とクスリの密売に手を染める程度に落ちぶれちまったよ」
蓮「内部からの、徹底した破壊工作……」
九条はモニターの光を見つめながら、息を呑んだ。
そんな真似ができる人間、いや、そんな真似ができるほどの異常な情報処理能力と、組織のシステムへの深いアクセス権を持っていた存在は、一人しかいない。
蓮「……佐久間さん。それは……」
佐久間「ああ」
佐久間は静かに頷き、モニターの電源を落とした。
佐久間「あの満身創痍の体で、一体どうやってセキュリティを突破したのかは分からん。だが、奴に違いない。お前の弟……慧が、自身の命を燃やし尽くして、自分を生み出した『根源』を内側から食い破ったんだ」
部屋に、重い沈黙が降りた。
慧は最後に言っていた。「僕を作ったあの場所の、根源を消しに行く」と。
彼はその言葉通り、たった一人で巨大な組織に引導を渡し、真の意味での復讐を成し遂げたのだ。
荒木「……バカな野郎だぜ、まったく」
荒木がぽつりと呟き、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
九条は胸の奥が締め付けられるのを感じた。慧は、自分たちに何も告げず、すべての罪と業を一人で背負って闇へと消えた。
その不器用な優しさと底知れない孤独を想うと、もう二度と会えない弟への哀惜が、静かな波となって九条の心を打ち据えるのだった。
次回
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