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『古河蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』 (2)

 ぬるくなったコーヒーを手に取って一口啜った賢人は、その女の子の気持ちはまあわかるな、と呟いた。咲は無言で頷いて応えると、続きを話し出した。

「男の子は幸せだったのよ。両親は毎日愛情たっぷりに接してくれたからうれしかったし、召使いたちだっていつもにこやか。学校ではずっとみんなと仲良く友好的に過ごせていた、なにも疑うことなんかなくね。それが、女の子を好きになったことでがらがらと音を立てて崩れてしまう。女の子を好きになるなんて、悪いことじゃなくてとても素敵なことなのに。男の子は自分が今浸っている幸せのほんとうの理由を知ってしまう。そして、ほんとうの、ほんとうの意味では自分が幸せじゃないことに気づいてしまう。幸せじゃないどころか、見渡せないほど広くて巨大でとてつもなく重い、悪、としっかり言えてしまうくらいのどす黒い宿命のもとに生まれてきたってことを。男の子は、女の子にほんとうのことを言われたときから、それまでの日々の意味合いがみるみる変わっていくのを感じるの。それまでの日々について男の子は、幸せな日々としてほんのわずかな疑いすら抱かなかった。でも、そうじゃなかった。女の子の一言で、これまで歩んできた日々の意味合いは、ほとんど正反対の重苦しいものへと変わってしまった。他人をすごく苦しめたもののおかげで、自分がどれだけ満ち足りた生活を送ってきたかを知ったから」

 賢人は、咲の言いたいことがよくわかった。でも、ただこの話と咲の心境とがシンクロしている部分をそのまま肯定してしまうのにためらいがあったし、それは実際、まずいことだろうとも思った。彼女の意識に鍋底の焦げのようにこびりついているものを引き剥がさないといけない。考えてというよりも、直感が鋭くそう叫んでいた。賢人はすばやく頭を回転させ、咲の話の感想を述べる。

「男の子も女の子もそれぞれに、なにも間違ってはいない。だからこれは悲劇ではあるな。それと、男の子が女の子に突き付けられて知ってしまった事実で苦しむようになる悪は、自分の意志でそうしたものじゃないのだから、男の子に罪があるとは決めつけられはしないんじゃない? 男の子に罪はないよ」

 賢人がそう言うのを聞きながら咲は眼の前まで垂れ下がってきた前髪を横にかきわけている。その眼差しが真剣であることを、賢人は認めた。

「生まれの幸せが、一気に不幸へと転じるところをよく考えてみて。この話で私が賢人にわかってもらいたいのは、そこなんだよね」

 賢人は論点をわずかにずらそうとして、男の子には罪はない、と言ったのだが、うまくいかなかった。咲は、自分の心境をわかって欲しい、と頑とした態度で強く願っている。賢人は、こうなったらはっきり言おうと決める。

「ねえ、咲。俺たち三人が過ごした日々は、君が話した男の子のようなそんなものじゃないよ。だって、俺たちの日々には、武器商人の家に生まれた男の子のように、武器の製造と販売っていう、男の子が気づくことができなかった事実みたいなものなんてまず存在していなかったんだからね。蒼太郎が三七歳で死んでしまう予兆が、あの日々の中に隠されてあったかい? あのまま蒼太郎が偏差値の高い大学に入って、公務員試験をパスして市役所に入って、同窓会の誘いをきっかけにずいぶん久しぶりにまた三人で会うようになって、そして蒼太郎だけが事故で死んでしまう、そんなふうに運命が決まっているっていう神様の細工が隠されてあったと思うかい?」

「隠された細工なんてないわ。でも、そうじゃないのよ。蒼太郎が死んでしまったことは、私にとって、過去が意味合いを暗く塗り変えられて、死という終点に向かうだけのものとして閉ざされてしまうことだったのよ」

 今の咲はこのような気分に過度なくらい支配されてしまっている。そうはいっても、しかたのないことなのかもしれない。今日のところはこれ以上、深く話し合うことを賢人は無理だと判断した。いや、判断したというよりも、悟ったといったほうが近かった。とても残念だというその思いの重量感に一瞬、息がつまる。この先、何度も機会を作って、時間をかけてゆっくり解きほぐしていかないといけないようなことなんだと考えてみよう、とひとまず自分をなだめてみた。

 いったん現状を飲み込もうと試みたのだが、でも待てよ、とひっかかってくるものがある。いや、ひっかかってくるというよりも、それが強く主張し始めようとしてくるような感覚だ。

 賢人は今日、咲の悲しみをすこしでも和らげてあげたくて南北線に乗りアパートまでやってきた。何度かの電話の様子から、咲のメンタル面に危うさを感じ取っており、とても心配していたからだ。実際に顔を合わせて話すことで、いつも屈託なく付き合える仲間内だからこそのくだけた雰囲気が二人の間に再び漂いだすのでは。そうなったときにタイミングよく賢人がちょっとおどけて見せたりすれば、咲にいつもの笑顔が戻るのではないか。頭の隅に描いていた前向きなイメージ。咲の悲しみによる痛みを緩和させられるかもしれない、という心積もり。笑えるだなんて思ってもみなかった、久しぶりに気分がよくなったわ、なんて喜ばれることを、期待をもって夢想すらしていた。アパートを訪れた目的は真っ先にそういうものだった、ときっぱり言い切れる。だが現状は、シリアス過ぎた。

 なにも、簡単に考えてきたわけではない。結果的に、どうやら考えが浅かった、と降参せざるをえなくなってしまったほど、彼女の悲しみの根は異常なくらい深かったうえに、予想がつかないほど頑強に張りめぐらされていたのだ。

 賢人は、咲との間に流れた沈黙のうちに、不意に、今を逃しては決定的にそれは終わってしまうのではないか、とあるひとつの考えに胸をざわつかせ始めていて、自分でも驚きつつあった。それが、主張し始めようとしてきたものの、第一声としてのアクションだった。そして第一声を受けたために、さらに頭の回転がめまぐるしく変わる。この状況下の今こそ仕掛けていくべきだ、という選択肢が浮上してくる、いや、甦ってくるのだった。その選択肢とは、蒼太郎が死んでしまったあとほどなくして賢人が深く考え込んでいたときに、自分の中でまだまだ寝かせつけておくべきだ、ととりあえず抑えつけてあった考えだった。それなのに、やるのだ、と正反対に行為を迫られる心持ちがしてくる。そればかりか、やるのだ、やるのだ、やるのだ、と強さが激しく増していく。

 あっけなく賢人は押し切られた。今の段階ではまだやるべきことではない、と決めて寝かせつけていたことが、急遽、今日やるべきことへと変貌をはじめ、眼を覚ましたのだ。

「咲は、これまでの三人の想い出の意味がぐるっと一変してしまうくらいに、蒼太郎が死んでしまったことから衝撃を受けているようだけど、俺にしたって蒼太郎の死はこのうえないくらい残念だし、それに悔しいと思ってるんだよ。俺だってさ、そうなんだ」

 湯気の上がらないコーヒーカップを見つめていた咲が賢人へと顔を向けた。それから二人は少しの間、またなにもしゃべることなく、自然に見つめ合う。賢人は思う。自分が咲のことを深く心配していることは、十分に伝わってはきたのだろう、と。心配は事実だ。偽りなどではない。しかし、もはや咲への心配は、背後に目的を隠したものとして賢人の中で捉え直されていた。やるべきことのため、そうなったのだ。来た道を振り向いてみた賢人自身の視界に、やるべきことがはっきり形となって存在している。

 つまり、賢人はこの静かで短い時間を使って内省めいたことをしていたのだった。賢人はそのわずかな時間に自分の姿を自分で正しく眺めることができ、それゆえに、自身の正直さに伴う自らのこれからの目的をはっきりと自覚したのだ。

 咲を見つめていた視線の焦点がいつのまにかぼやけていた。それに気づいた時に視線が揺れてしまったのだが、それが意味する内面でのたくらみが見透かされないように、賢人は自分を見つめ続ける咲の注意の追跡をかわすため、大げさに居住まいを正す動作をしてみせた。

「俺が来たのは、咲のことをほんとうに大切だと思っているからだよ。悲しんで、元気を失くして、落ち込んでしまうのはとてもよくわかる。だって、蒼太郎なんだから。だから俺だってつらい。それは咲もわかるよね?」

「わかってる。感謝してる」

 賢人はテーブルへにじり寄るようにして咲の方へとすこし近づいた。

「いや、感謝なんてものはいいんだ。俺は、蒼太郎を失った悲しみを、咲にひとりきりで抱え込んで欲しくない。だから、これまで俺たち三人がいっしょに過ごした頃のことなんかをさ、二人でたくさん話そうよ。そうやって、想い出を辿って、味わい直して、蒼太郎のやったことや言ったこと、姿や表情を懐かしんでさ、少しずつ蒼太郎の死を受け入れていこう。蒼太郎がいなくなった世界に慣れていく努力をしよう」

「あの頃の話をするのは賛成だけど、蒼太郎のいない世界に慣れるのは正直、自信がないな」

 賢人は、テーブルの上に置かれた咲の左手に自分の右手を重ねる。

「咲は一人じゃないから。俺がいるんだから。俺は咲にずっと寄り添っていける。そういう気持ちでいるよ。咲がつらいときには、俺にもたれかかってくれてまったく構わない」

 咲は眉を下げ、困ったように俯く。

「でも」

「俺たちは仲間なんだし。あの頃からずっと、気兼ねの要らない関係だったよ」

 アパートの横の道を小学生くらいの女の子たち数人が甲高い話し声や大きな笑い声を立てて通り過ぎていったのが聴こえて、賢人はちょうど今までの一連の自分のふるまいに、両耳がぽうっとわずかに膨らむみたいな感じで発熱するのがわかる。白々しかった。心配しているのは事実だ、嘘なんかじゃない、と心の中で大声を発し、吹っ切ろうとする。だが、背中の体温までがかあっと上昇していく。俺はなにをしているんだ、と遠くからもう一人の自分に叱責される声を聴いたような気がした。

 俺は、悪いことをしはじめているのだろうか。蒼太郎の死に乗じた、悪いことを。咲の不安定さに付け込んだ、狡猾な悪い行為を。

 いや、待て、馬鹿らしい。悪いなんてことはないんだ。ここで躊躇する方が、自分の気持ちを尊重しないという意味で、偽善なんじゃないのか。自分の気持ちの向くほうに従ってやるべきことだと決めたことなんだから、この際、気にするべきじゃない。それに俺が咲に、これまで以上に近づくことで、咲は救われるに違いないのだし。咲の悲しみ、そして苦しみは、俺という存在が彼女の中で大きくなることによって癒され、忘れ去られるのだから。ということは、お互いに前向きになれる利益があるのだから。

 確信があるからやっているとは言えない。ただ、今やるべきこと、という言葉を思い浮かべると、走り出さずにはいられなかった。だって、そういうものだろう、自分に振り向かせたい異性への、そのチャンスに巡り合ったときの気持ちなんて。たとえそれが死に乗じたものだとしても、この観点からすればそれは間違いなくチャンスでしかないのだから。

 賢人はさらにもう一度考えてみる。この状況で咲にアプローチして、うまくいっしょになって、幸せになることがおかしなことなのだろうか。アプローチをするきっかけについては、厳しく選ばなければいけないものなのだろうか。露骨に事を運ばなければ、そして咲の気分を害しさえしなければ、今のような機会であっても、いや今のような機会だからこそ、仕掛けてしかるべきなんじゃないのだろうか。

 死に乗じているからといって、蒼太郎が死んだことをそっちのけにしているわけではない。誓っても、彼の死自体は丁重に扱っているし、気持ちの面でも死の痛みとちゃんと向き合っている。でも、蒼太郎の死を深く悲しむよりも、咲といっしょになりたい気持ちのほうが勝った。それが、率直な賢人の心情。賢人の背後に、賢人自身に気付かれないまま隠れ続けた、やるべきこと、という心情。つい先ほど秘かに名付けられたばかりの心情だった。背徳、とは賢人は名付けなかった。優先されるべき情熱、と彼は名付けていた。

 咲にそのままのことを伝えては、拒絶されるに決まっている。太陽が昇る方向がずっと変わらないことと同じくらい明確なことだ。軽蔑される場面だってたやすく想像できる。だから、上手に偽らなければいけない。このまま滑らかに事が運んだとしても、次の段階へ移るのが早すぎる、とたぶん咲はとらえるだろうから、そうならないように細心の注意で、ほころびの無いように偽らなければいけない。それでも遅いくらいだ、と感じるのが賢人だったが。

 賢人は、口の中がひどく乾いているのを感じ、真夏の炎天下で喜ばれるに違いないくらいに冷えたカップの中身を一口啜る。咲が、淹れ直すね、と賢人の手からカップをもぎ取り、自分のものと二人分を持ってキッチンへと立っていった。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門


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