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『古河蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』 (4・完結)

      * 

 浅い眠りの日々を賢人は過ごすようになった。どうしても眠りにつけない真夜中には、村上春樹の新作長編のページをゆっくりと繰りながら過ごした。この新作は新作ではあったが、読むたび賢人に懐かしさをもたらした。あの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の元になった作品を、新たな別の方法で仕上げたものだったからだ。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、賢人が大人へと成長していくその重要な起点となった。彼の感情面や世界観は、この作品を形づくるたくさんの言葉たちが内面に流入してくることによって劇的な反応をもたらし、読後には、視界の色彩ががらりと変化したのを彼はしっかり覚えている。初めて恋に落ちたときと同じ鮮烈さのようなものが訪れたのだ。

 賢人は自分自身を、死以上に空虚な存在だと感じるときがあった。だが、職場でスタッフに指示を出しているときでも、とくに考えることもない通勤途中にぼんやり舗道を歩いているときでも、チェーン店の蕎麦屋でカウンター席に着き食事をしているときでも、とにかく一日の終わりの頃にどうしようもなく考えが吸い寄せられてしまうときまで、意識しないように努めた。

 この空虚さを賢人の言葉で表現するならば「穴」である。賢人は、「穴」が自分を解体し始めている、と高台に建つ一軒家の小さな窓から遠い低地にある公園の様子を眺めるみたいに危ぶんだ。自分のことに他ならないのにまるっきり他人ごとのようであり、そしてなすすべがない感覚だった。

 浅い眠りは「穴」が招いた。「穴」が、賢人の涼しげで濃密な眠りを敷地外へと押しやり、火照ったような浅い眠りのほうを引き寄せてしまう。そうして、鈍重に、時間をかけて、賢人を責めた。ひどい責め苦のときには、そこから逃れるように本のページをめくる。

 休日は、咲に電話をかけたい衝動がときどき湧きおこることがあった。深くふかく地下へ走り闇に塗りこめられた亀裂を、あの日以来、二人は二人の間に抱えてしまったような気が賢人にはしていた。だが、スマホを手に取ると賢人の気持ちは意図しない強制的な力で急停止する。透明な壁で突如遮断されたみたいに。壁に頭をぶつけると、そこからは一歩も進めなくなる。この期に及んで、と自分でも情けない。極度の気後れは、仕方のないものなのだろうか。

 

 その夜もやはり、賢人は浅い眠りにしばしば眼が覚めた。暑い夜でもないのに、股の内側がじっとりと汗ばみ、掛け布団を剝ぐようにめくって身体を冷やしながら横になっていた。ナイトテーブル上のデジタル置時計を確認する。午前三時四六分。ここのところずっとこんな調子なのだ。起きているときは気をつよく引き締めているからまだ普段通りの生活をしていられるけれども、早晩限界は来る。そう遠くないうちに倒れてしまっておかしくないかもしれない。まいったな、と賢人は空気を詰め込まれでもしたかのように回らない頭であきらめを感じつつ苦く重いため息を吐く。

 わあっと大きくて短いあくびを吐き出すと賢人は身体を転がしてうつぶせになり、頭は左方を向いた。そして眼を閉じ、なんとなく蒼太郎のことを考えた。夢想の中に浮かんだのは、笑顔の蒼太郎が、「よう」と手を挙げた瞬間だった。白いVネックのカットソーの上にベージュのジャケットを羽織り、下はジーンズ姿で、暗い色味の木製ベンチに座っている。ベンチ周りの地面だけは裸の赤土で、周辺は短い草や野花が生い茂っていた。賢人はそこまでゆっくり歩いていった。蒼太郎がいることがうれしい。いつの間にか入り込んでいるこの世界は空気が澄んでいて、気持ちよく晴れた涼しい晩春の午前のようなところだった。そして賢人は、夢の中にいることを悟っていた。明晰夢だ、と頭の中でつぶやいた。

 だが、いつも見るような夢でのありふれた偽物っぽさとは違う。賢人の首元を擦るシャツの襟の堅い感じだとか、ベルトが腰をしっかり締め付ける感覚だとか、鼻の脇にわずかに生じるかゆみだとか。現実生活で現実感を支えているような些細な触覚的な刺激がこの夢の中では感じられ、どうやらこれは、単なる夢ではないのだからな、と告げているらしいのを賢人はそのままの意味で慎重に受け取った。

「久しぶりだな。なんだ、顔色がよくないぞ。賢人はいつもにこにこ、だろ? なんだか死にそうじゃないか。死にぞこないめ」

 そう言う蒼太郎の眼元は柔らかかったが、顔色は青白かった。

「人のこと言えないって。お前こそ死人のように顔色が悪い」

「言ったな」

「というかお前、ほんとうは死んでるんだよな、葬儀も済んだぞ」

 蒼太郎は視線を一段落とし、小さく微笑む。

「今日のところはまあ、それは言いっこなしだよ。禁止項目にしよう。胸が痛むわ」

「ごめん」

「あのとき、もしかしたら死んでしまうんじゃないかって不安になるほど痛かったんだぜ」

 おなじみの蒼太郎だった。ブラック・ジョークを放つときは、右の口角をぐうっと持ち上げる。その眼は明るい。

「だろうな。実際、死んでしまったわけだし」

 言いにくいことではあったが、賢人は蒼太郎のおどけた調子につられてはっきりそう返した。

「あまりの痛さだったし、すぐに意識が飛んだものだから、現世になにも思い残せなかったよ。もうちょっと死に損なってからのろのろと死んでいたらなあ。その時間を使って俺は自分の死と引き換えにお前を呪っていたところだよ」

「笑えないよ。なんで俺がお前に呪われるんだよ」

「気さくな道連れが欲しいじゃないか」

 そんなことを本気で言う性格じゃないのだから、これも蒼太郎流の冗談だった。蒼太郎は上機嫌らしい。うらめしや、と言いながら両手を胸の前でだらりと垂れ下げた。賢人は大きな声を出して笑った。

「やめろ、笑い死ぬって」

「それが目的」

「このやろう。おまえも爆笑させてやりたいわ」

「やめろよ、笑い死にで『二度死に』になるから」

「こいつ」

「そういや、禁止項目だったか。胸が痛むな。それより賢人、まあ座れよ」

 こんなに愉快な気分になるのは、賢人にとっては久しぶりだった。目の前の蒼太郎が、生きていた頃以上に楽しくふざけている。こんな調子の蒼太郎と、彼が逝ってしまう前に、夜遅くまでくだらない話をしあっておきたかった。

 蒼太郎の左横に座り、賢人はあきれたように言った。

「余裕があるな」

「まあな。失ってしまったからだろうな、すべてを」

 蒼太郎の眼尻に深かった笑い皺がぼんやりと薄くなる。はっとした賢人の胸の奥の温度が下がっていく。二人の間に凪みたいな時間が流れた後、それで、と蒼太郎は言葉を継ぎ、重苦しい気配を帯びたこの気まずい時間からの拘束を自然に打ち破ってみせた。

「俺になにか話があるんだろう? そうじゃないと、俺がここにいる理由がないからな。というかさ、なんの話かほとんどわかってはいるんだけどな」

 蒼太郎の眼尻の皺が復活している。賢人は驚いたが、どこか納得した気持ちもあった。そのため、実はそうなんだ、と表情を変えずに答えた。わざわざ驚いて見せるのは仰々しい。驚いて見せたなら、蒼太郎は、わざとらしいぞ、と瞬時にこの会話への熱量を失うだろう。そんな場面が容易に想像できた。

「俺は咲を丸めこもうとしたんだよ。おまえが亡くなったことをチャンスとして使った。後悔してるし、反省もしてる」

「つまりは、ゴルギアス」

 いったい、なんのことを言っているのかまったくわからなかったが、片眉を上げた蒼太郎がまっすぐ投げかけてくる意味ありげな視線の圧を、賢人はひしと受け止めた。

「ごめん、もう一度言ってもらえるか」

「ゴルギアスだ。古代ギリシアに生きた人物。弁論術の大家だよ。ほかの技術などなにも学ばずとも、ただこの技術だけを学んでおけば、専門家にまったくひけをとらない、なんて言いのける。プラトンの本に出てきてな、その本の中でソクラテスが彼を糾弾するんだ。あなたの術は弁論というよりも詭弁だ、というようにね」

「相変わらずおまえは哲学が好きだよな。哲学者くずれって呼んでいいか」

「おいおい、まぜっかえすなよ」

「悪い」

「要するに、おまえはゴルギアスの弁論術みたいなものを用いたんだな。咲に。ただその場で、俺に勝ちたい、咲をコントロールしたい、そういった気持ちにお前自身が支配されていたんだろう?」

「その通りなんだ。さっきも言ったけど、後悔してるし、反省だってしてる。咲に悪いことをしてしまった」

「まあな。いや、でもこちらが思っているよりも咲は強い女だからなあ。知らなかっただろ? おそらく大丈夫だろうな。心配はいらない」

「心配はいらないだって? それに咲は強いっていったって、ずいぶんまいってたんだぞ」

「わかってる。だからお前がはじめ懸命になぐさめていたんだし。でもな、仮にお前が咲を心配することなく世話を焼かなかったとしても、そのうち彼女は元通りに戻ってただろうさ」

「ほんとかよ? それがほんとうだとしたら、俺はひとりで空回りしていたってことじゃないか」

「うん。空回りついでに状況を混沌とさせたよな」

「まいったな。もともとはそんなつもりじゃなかった」

「それもわかってる。あんまり気にするな。ゴルギアス的行為の結果も含めておそらく大丈夫だから。問題ない。それにしょうがないといえばしょうがないんだから。俺が死んで招いた事態だ。こうなればああなるってやつだよ」

「いまごろそう言われたってなあ。それとな、俺はお前には合わせる顔がないような気がしてきているんだよ、急激に」

 賢人は居心地の悪い気分が滲み出てきたのを断ち切りたくて眼を逸らし、そう言った。空を流れる小さな雲の群れが速いスピードで太陽を遮りながら通過したために、その場がふっと暗くなったりぱっと明るくなったりを繰り返す。そして勢いのある風がひとつ、二人の間吹き抜けていった。草花が震えるように揺れている。

 蒼太郎は、大きな声で笑いだした。

「俺のことはいいんだって。死んだ身になってまでおまえと張り合おうとは思わないよ。咲のことはほんとうに愛していたけど、咲を手離したくないなんていう執着は無いしさ。そればかりか、俺はおまえが咲を想っていることを知って、すごくうれしかったんだよ。実にいいじゃないか、咲と賢人がお互いを支え合って生きていってくれるなら。最高だって」

「蒼太郎。それはほんとうにそう思うのか」

 賢人には信じ難い言葉だった。でも、信じたい言葉でもあったため、すがるような思いが眼を潤ませた。

「気休めで言ってるんじゃないんだよ。別に俺はさ、現世といったらいいのか、まあ、あの世かこの世かの分類でいえばこの世なんだけど、この世に未練や後悔を持ったまま去っていくような性格じゃないんだよ、自分で言うのもなんだけど。それはおまえもわかってるじゃないか。それにだいたい、未練や後悔や恨みつらみなんかを念じながら死んでいく暇もなかっただろ。すぐに意識を失くしたわけだし。そんなふうに人生が宙ぶらりんなまま断ち切られてしまった俺がだ、死んだ後も咲の気持ちをずっと自分に繋ぎとめておきたいなんて思わないって。おまえがちょっとな、姑息な手段をな、使ってさ、咲の気持ちを自分になびかせようとしたのだって、手段についちゃ笑っちゃうけどさ、ははははは、怒るか喜ぶかで言ったら俺は喜ぶわけだよ。そういうのを知ると、ああ、おまえたちちゃんと生きてるんだな! 人生を謳歌してるんだな! ってな、うれしくなるもんだぜ」

 機嫌よく蒼太郎は賢人の肩を軽く二度叩いた。賢人は少しの間、嘘だろ冗談だろ、とあっけにとられていたが、蒼太郎の屈託のない様子からそれが本心だとすぐに気付くことができた。

 賢人の胸は感激に詰まってしまう。

「ありがとう」

 このシンプルな一言を絞り出すだけで精一杯だった。

 これが蒼太郎なんだ。比べて俺ときたら。賢人は恥ずかしくなった。

 辺りには陽光がきらびやかに降り注いでいる。風はほとんど落ち着いているし、空にはもう太陽を隠す雲も流れていない。ただただ、光に満ちた世界としてこの場所は在り、賢人が蒼太郎を見つめていたのはその中心でだった。

 蒼太郎が賢人のほうから正面のほうへと体の向きを変え、前方の空中に視線を投げたままぽつりと言った。

「人間は自分の誤りを自分で改めることができる。とはいえ、残念ながらそうできない者は大勢いる。だとしても、賢人はできる人間だよ。自分の誤りを自分で改めることこそが人間のあらゆる美点の源だ。だからこそ人類は滅びないでここまで来れたんだ」

 たしかにそうかもしれないな、と賢人は頷いたものの、慰めや励ましや買い被りにすぎない言葉なのでは、と真に受けるのを少しばかりためらうのだった。それでも何秒かやり過ごしてみると、そんなふうに自分を認めてくれる蒼太郎の偽りのない気持ちと言葉のありがたみがわかってきたので、感謝しながら噛みしめるのだった。蒼太郎は信じてくれているのだ。

 賢人はおもむろにこう告げる。

「実はいまって、夢だと気づいてる。明晰夢っていうんだっけ。なのにどこか夢じゃないような、奇妙なリアルさも感じてる。とくに蒼太郎、おまえにリアルさを感じてる」

「おまえの感覚は正しいよ」

「おかしなことを言うようだけど、というか、今の状況がおかしいんだからどうせおかしなことを言ったってどうってことなさそうではあるんだけど、ここは俺の頭のなかにある夢の世界ではないよな。どこか現世と近接した、夢とは違う場所がここなんじゃないのかとさっきからちょっと考えていた。おまえは、俺の想像の産物の蒼太郎ではないだろ?」

「俺がそうだと肯定したっておまえの夢だとしたら信憑性は生まれないし、夢じゃないとしてもその証明はできないんだけどな。まあ心あたりがあるんだろう?」

「ある。俺はゴルギアスを知らない。つまり、知らない固有名詞や知識がすらすら夢の中に出てくるなんておかしいよな。俺の記憶にないものが、夢という状況に限って現出してくるなんてありえないだろう? おまえがもたらしたから、ゴルギアスなんて言葉とその意味を俺は知った」

「あるいは、何者かがもたらしたのかもしれない。おまえの横にいるこの蒼太郎すら、何者かにもたらされた幻影かもしれないぞ」

 蒼太郎はまだ目の前の空中に視線を固定している。

「そうなのか」

「違うと言いたいが、正直わからない」

「どうしてこんなに不思議な夢を見ているんだろう? いや、夢と断言するのはおそらく間違っているのだけれども」

「俺にもよくわからない」

「まるで夢読みの世界みたいだ」

「夢読み? おまえが好きだった『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のか?」

「『街とその不確かな壁』のでもある」

「それも村上春樹なのか?」

「そうだ。今読んでる。ルーツが一緒の小説なんだ。というか、もしかしておまえ、村上春樹を読んでたの?」

 蒼太郎は賢人のほうへと視線を戻した。初夏の湖面のような穏やかで奥深い眼をしていた。

「『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は読んだよ。一昨年に。やっとのことで」

「どうだった?」

「高校の頃、おまえがすごく興奮してしまって、俺や咲に本のことを話したいのにまったく言葉が見つからなくて困っていたのがまあわかったかな。『世界の終わり』のパートは、なんだかひんやりしているのに温かみもあって、独特なのになんていうか自分の心との距離が近しい世界のように感じた」

「あの世界に、俺はそうとう深く浸れるんだ。もう戻れないんじゃないかってくらいに」

「さっき話したけど、この場をもたらした何者かの存在な。それってもしかすると『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』とか『街とその不確かな壁』だったりしてな。あの世界が何者かなのかもしれないぞ。というか、何者かのような鍵的な存在だったりするのかも」

「咲への想いや、蒼太郎への想いだとか思い出もさ、その鍵的なものと混じり合ったとか?」

「反応したわけか。おもしろいな。単なる物語なのに、なにかの偶然といったらいいのか、とんでもなく低い確率でたまたま起こってしまったことなのかもな」

 蒼太郎は笑いかけたが、大切なことに気付いたようにすぐに平常の顔つきに戻った。

「もっと話をしておきたかったがそうもいかないようだ。あとは賢人、おまえ次第だからな。幸せを祈ってる。きっとうまくいく」

 その時が来たことを、賢人は察した。とても寂しく鳴く鳥の姿を見たような気持ちになる。

「蒼太郎、おまえにはなんといったらいいか。これまで、ほんとうにありがとう。おまえと友達で幸せだったよ」

 言葉が上滑りしている気がする。大事な場面になるといつもこうだ、と賢人は痛感する。

「俺もだよ。賢人、ありがとう」蒼太郎の声が低く響き、「俺の幸せも祈ってみてくれ。冥福を祈るっていうくらいだから」と少し笑った。

「わかった。蒼太郎。おまえのことは忘れないから」

 こういった場面では、賢人はどうしても真面目に過ぎてしまう。自分でもそんなところが惨めなくらい馬鹿なのだと嫌悪した。

「ああ。俺の存在感がお前たちの障害にならない程度にはな、忘れないでいてくれ。それじゃあな」

 蒼太郎がベンチから立ちあがる。賢人も連れて遅れずに立ち上がり、蒼太郎と向き合うと背中に両手を回した。蒼太郎も同じように賢人の背中に両手を回し、抱き合うかたちになる。蒼太郎は死者だったが、賢人と変わらないあたたかな体温を持っていた。そして、ある意味では賢人よりもずっと正気だと言えた。

 お互いが惜しみあうようにしばらく抱きあってから、蒼太郎は賢人と体を離した。蒼太郎は先ほど空中を見据えていた方向へとゆっくり歩いていく。ちらりと賢人を振り返ったその笑顔の頬には涙の跡が光っていた。

 燦々と光が降り注ぐなか、賢人は蒼太郎の後姿を名残惜しく見送った。最後の姿を記憶に焼き付けておきたいと念じながら。

 賢人は思う。蒼太郎は、あんな間違いをしでかした俺を、嫌悪しなかったし見下さなかったし、そして俺を気遣って、以前のように、いや以前以上に親密な感じでコミュニケーションができるよう、できる限りの気やすい態度でいてくれた。それだけではなく、「人生を謳歌してるんだな!」なんて言い方でこんな俺を肯定してくれたのだ。蒼太郎はその言葉の裏にうらやましい気持ちを少し隠していたような気がするけれども、でも全体的にずっと楽しげだったんだ。きっとそれは本心からだ。

 さよならの瞬間に賢人へと押し寄せる感慨深さが、彼の心を洗っていく。こうしてお前に会えたことがどんなに尊く感じられているか。ついにこらえきれず賢人が涙を溢れさせると、蒼太郎の姿が見えなくなった。

「蒼太郎!」

 顔をぐしゃぐしゃにして、賢人は蒼太郎の名を叫んだ。彼に伝えた「ありがとう」はまだまだ足りなかったのではないか。

 あの穴が縮まっていく。賢人は肺の底のほうなのか背中の内側あたりなのか、しくしくと寂しく鼻を鳴らす音を聴いたときのような気持ちをとめどなく生み出すその穴がゆっくりと縮小していくのを、涙を流しながらはっきりと感じるのだった。

そうして、咲を想った。

 

 眼のふちが濡れている。カーテンを濾した朝の光はわずかな量だけが部屋のなかに届いていて仄明るい。眼覚ましの電子アラームが鳴る前に、賢人は眼を覚ましたらしい。ということは、午前六時一五分よりも前の時間帯だ。今まで感じたことの無い不思議な感覚の夢だった、と薄れていくその余韻を身体全体で感じながら、反対に頭の中には、次第に濃くなってくっきりとしだした咲の寂しそうな笑顔のイメージが映っている。

 早朝過ぎるゆえの迷惑になることへの懸念があったが、それを凌駕した熱い衝動が、咲へ電話をかけさせた。電話は5、6秒の呼び出し音の後、思いのほか早くつながった。

「ごめん、こんな時間に」

「ううん。実は、わたしも近いうちに電話しようと思っていたのよ。それに昨日、寝る前にね、朝、部屋を出るまでの間に賢人から電話がかかってくるような気がなぜかしてた。こんなに早いのは意外だったけれど」

 咲の口調は起きたばかりだとするととてもはっきりとしたものだった。賢人は、夢で蒼太郎と話したことを伝えようとした。だが、会話の内容はほとんど記憶から失われているようだった。夢の場所の情景にいたっては、まるで思いだせなかったし、二人でベンチに座っていたような気がしてくるのだが、それも確実ではなかった。

「夢で蒼太郎に会って、いろいろ話したんだけど」

「どんな話をしたの?」

「それがさ、あっという間にわからなくなってる。ついほんの数分前まで見ていた夢なのに」

「悪い夢だったの? 良い印象が残ってる? それとも悪い印象?」

「それもよくわからないんだよ。そうだな、胸が細かく振動するみたいな切なさと人肌のぬくもりのような温かさはまだ感じてる。たぶん、悪い夢ではなかったんだと思う。でもなんというか、夜露のように清潔な悲しみめいたものを感じるんだよ」

 賢人の胸には、夢の薄い輪郭からのおぼろげな影響がまだ少し、燃え尽きかけた線香の細い煙のように漂っていた。

「そうなのね。どんなふうに会っていたのか、知りたかったな」

「ただ、咲、君には電話をかけないといけない、と思うような夢だったのは確かだと思う。どうしてなのかはわからなくても、いてもたってもいられなくなったから」

「このあいだは、ちょっと酷い別れ方をしたわね。わたしはとても傷ついたのだけど、きっとあなたもよね」

 賢人はごくりと唾を飲みこむ。握った携帯電話の手のなかの位置をわずかに持ち直した。

「ごめん。俺はあのとき、とても悪いことをしたね。心から謝るよ、ほんとうにごめん」

「じゃ、また会って話してみる?」

「ありがとう。ぜひ、そうしたいよ」

 電話を終えると、賢人は蒼太郎との夢のことをほぼ完全に忘れ去っていた。なんだかとても大事な夢を見たような気がするのだが、もっとあの夢の印象に集中してみればなんとか思いだせるのではないかという気がうっすらとしていたディテールのひとつふたつすら、磨りガラス越しのようにまるで判然としなくなっている。

 咲と会ってなにを話すのか、真っ白といっていいほど、話したいと思うようなことが具体的には浮かんでこなかった。ひとつだけ決まっていたのは、素直に謝り、誠実に応答したいということ。そこから始めるしかないからだ。

 賢人は出勤の準備をする。

 シャツのボタンを丁寧に留めながら再び思いを巡らしてみようと試みる。たぶん今朝早く見ていた、大切だったような気がする夢のことを。やり損ねた小さなことが残っているような後悔に似た気持ちが細い糸となってこころを引く。だが、頑張って努めてみても、やっぱりあの夢はもうなにも思いだせない。手の届かないどこか他の次元、あるいは生者にも死者にも知られるべきではないどこか別の世界へと、夢は残滓もすべて零れ落ちきっていたのだから。 

<了>

#創作大賞2024 #恋愛小説部門


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