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「幽囚の心得」第19章                              死生観(7)                            「死という無常を直視する」

 「生死を離るべき事、武士たるものは、生死を離れねば何事も役に立たず、万能一心と云ふも、有心のやうに聞ゆれども、実は生死を離れたることなり。」(『葉隠』)

 沢庵宗彭禅師は「無心」を説く。
この心の境地に達することで、事が成就する。
 「剣禅一如」
剣と禅は悟入すれば一つである(『不動智神妙録』)。
 禅とは精神を統一し真理を徹見することであり、その心地は生死の問題に煩わされぬものに達すべきものである。必ずしも信仰を求めずとも、人生というものはある意味では悟ることを目指し命を繋ぐことを言うのだと思う。そして、悟るということは凡庸で怠惰なままでは成し得ない。悟りというのは「狂人」たる者の思念のことを言うのだ。平均人の認める常識的な意識レベルでは悟りなど到底達し得るものではない。

 「死」は現実だ。この避けることの出来ぬ「死」というものに目を向け意識することなくして、どうして自らの人生の全的な価値を創出し得よう。         

 人々は「死」によって齎される無の状態への転落を恐れ、現世の所業の無に帰することに虚しさと儚さに苛まれ、永遠の別れに悲嘆して来た。

 しかし、敢えて言おう。人はまずもって「死する」ことを受け入れることだ。「死」という「無常」を受け止めることが全ての出発点である。
 ところが、現代の日本人はこの「無常」を直視しようとしない傾向が顕著であり、「無常」から逃れ、これを隔てようとしている。多くの世人は日々の生活の糧を得る為に眼前の仕事にのみ没入することで、あるいは気散じの為の刹那的な享楽に身を供することで「無常」から逃避するのに躍起だ。
 そうではなくて、「死」という「無常」から目を背けず、それを直視するならば、一体、認め得るべき価値なるものはどこに如何にして存するものかを探求する意識が生じて来るはずなのである。

 宗教学者の島薗進氏は、「そこからこの世の儚いものを超えた無限のものに向かうという生き方を選ぶことになる。この世の生死の彼方の次元を信じ、それを軸とした生へと転換する。『永遠なるもの』『いのちを超えた絶対的なもの』へと至る道を信じて新たな生き方へと転ずる。これが伝統的救済宗教の道である。」とする。「死」を意識することで三次元的世界を超えたものへの信仰が生まれる。
 「無常の彼方に次元の異なる領域があり、そこでこそ、この世の有限性を超えた永遠のいのち、あるいは永遠の安らぎに至るという信仰こそ、伝統的な宗教の教えである。」

 文芸評論家で哲学者である唐木順三氏は、「日本人は、無常を情緒的に雄弁に、また美文調で表現しすぎる傾向がある。」その為、「無常の本来的な哲学的意義を捉え損ねがちで、『無常観』を見失い、『無常感』に流れがちである。」と指摘する。これは、「頽落した無常観ではないか」と言う(『無常』)。

 「無常」を受け止めるということは、単に「無常感」を表出することではない。情緒的に詠嘆することではない。その人生における意味合いを見出すことをも含意しているのである。
 現代にあっては、伝統的救済宗教の存在は、人々の間で薄まり軽視され、それが為に、人々は心のよすがを失っている状態に陥っている。縦軸の価値を放逐してから、日本人は本来持ち合わせていた美徳を失い心を空虚にしてしまった。野放図な欲望の塊となった。しかし、欲望の発出によっても心は満たされはしない。

 島薗氏は、「死と宗教が共にこの世を超えた次元に関わるものであり、そのような次元が賢固にあってこそ、安定した自己意識が成立する。それが欠けていること、つまり超越性が欠落していることが、自己の存在基盤を揺るがし、人を根拠の欠如に由来する深い不安に陥れる。」「賢固なものは形而上の領域にあるのであって、形而下の現実世界を超えた形而上の次元に目を向けることこそ、人間本来の在り方であり、社会を成り立たせる根幹でもある。」と述べるがこれは全く至当である。

 「無常」を受け止め、「無常」を人生に融解し、そして、その上で「無常」を超越したところに、人間は自らの存在を下支えする基盤を有する必要があるのである。
 三次元的な現実世界を超えた精神世界において、「死生観」という思想を築くこと、それは「生」の充実に欠くべからざるものである。そして、その達するべきところは、「死生一如」の境地なのである。

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