見出し画像

ようこそ!フォーチュンカフェへ 2nd☕第8話 苦みのままに 〜マンデリン(イタリアンロースト)〜

母の最期に、間に合わなかった。
その夜、男はフォーチュンカフェ号と出会う。
そこには、マンデリン〈イタリアンロースト〉の苦みがあった。

十二月中旬の金曜日、午後三時半。
まほろば市民グランドには、もう、夕方の光が差し込み始めていた。

芝生の上には、赤や緑のテントが点々と並んでいる。
そして、イルミネーションが昼の空にもかかわらず瞬いていた。

クリスマスマーケットだ。

毎年、この時期になると開かれている。
仕事帰りを待ちきれない家族連れや、早めに時間を切り上げたらしいカップルが、様々な店が並んでいるグラウンド内をゆっくりと歩いている。

鈴の音。
焼き菓子の甘い匂い。
ホットワインのスパイス。
冬の空気に、いくつもの香りが重なっていた。

人気のゆるキャラ「にこにゃん」の周りには、すでに子どもたちの輪ができている。
白い着ぐるみが手を振るたび、鈴が鳴り、小さな歓声が上がった。

そんな賑わいからは少し離れたグランドの端。
香ばしい匂いが、漂う一角があった。
焼き菓子職人・立花 杏(たちばな あん)の〈An's Baking Caravan〉。
そして、その横に並ぶ、白く小さな〈Fortune Café〉号。

「寒くなってきたやん。やっぱり、こういう日は焼き菓子だけやとなかなか売れへんのよ。」

優しい関西弁のアクセントだ。
杏は、コートの袖を少しだけまくり、慣れた手つきで焼き上がりを確認しながら言葉を継いだ。

「そやから、ここでミゼちゃん見つけた時、『またコラボさせてもらお!』って、めっちゃうれしかってん。」

こと葉は、豆の入った容器を並べながら応えた。
ターコイズブルーの瞳が、優しく杏に応える。

「そや!うちがこの前渡した豆菓子。どうやった?」

「とっても、好評で。杏さんありがとうございます。」

こと葉が、嬉しそうに返す。

「そなんや。それはうれしいなあ。そや、補充する?」

「はい!実は人気があって、残りが心もとなかったので、私も、今日、杏さんと逢えてとっても嬉しかったです。」

「お!いいやん。お互いさまやね。」

杏が笑う。

豆菓子を補充すること葉の少し後ろで、修一が黙々と作業をしていた。
フォーチュンカフェ号の横に置かれた、小さな子ども用の椅子。
以前に子どもが座る場所がなかったので思いついたものだ。
脚の安定を確かめ、座面を軽く押す。
そして、車体の縁に取り付けたLEDテープのスイッチを入れた。
白い光が、控えめに灯る。

(……これなら、周りが暗くても「ことばみくじ」は読めるな。)

修一は、何も言わずそっと全体を見渡した。
にこにゃんの方向から、子どもたちの笑い声が聞こえる。

「それじゃ、始めましょうか。」

こと葉が、にこやかに告げる。
クリスマスマーケットのスタートだ。

冬の夕方は、あっという間に空の色が変わっていく。
午後四時、五時。
仕事帰りの人が増える。
イルミネーションの煌めきも増し、マーケットは賑わいのピークを迎えた。

そして——。
午後七時半。

「ああ、うち、もう売り切れぇ。」

杏が、こと葉の方に声を掛けた。

「わかりました。ウチもそろそろ店じまいしましょうか。」

杏はオーブンの火を落とし、残った焼き菓子の数を数えている。
こと葉は、ポットの中身を確かめていた。

そのときだった。
一人の男が、グランドの端に現れた。

四十代後半。
紺色のバーバリーのコート。
男は、クリスマスマーケットの喧騒に気圧されたかのように、しばらくその場を動かなかった。

(場違いなところに来てしまった。)

聡(さとし)は、無意識にスマホを確かめた。
姉からのメッセージは、もう何度も見返している。
見返したところで、何も変わらないのに。

——間に合わなかった。

どうして……。
あれだけ、毎週見舞ったのに。
最期の時だけ間に合わなかった。

その事実だけが、聡の心を苦みに沈めていた。

葬儀場に戻る前に、何か口に入れなければと思った。
いや、空腹というより、空気を変えたかった。
だからこそ、こんな場所に来てしまったのかもしれない。

そんなときだった。

香ばしい匂いが、風に乗って届いた。

(……珈琲?)

甘さはない。
焦げに近い、だが不快ではない苦み。
どこか、覚えのある匂いだった。

聡は、視線を上げた。

白い、小さな車。
ターコイズブルーの文字で〈Fortune Café〉と書かれている。

その横では、焼き菓子の販売車が、すでに片付けに入っているようだった。
女がひとり、こと葉と何か短く言葉を交わし、手を振って去っていく。

聡は、ゆっくりと歩み寄った。

こと葉は、近寄ってくる男を見た。
ターコイズブルーの瞳が一瞬深い色になる。

「ようこそ、フォーチュンカフェへ。」

こと葉の声は、ふだんよりも落ち着いた声に聞こえた。
くる者を拒まないが、去る者は追わない温度。
今の男に、ちょうどの温度だった。

聡は、少し間を置いてから答えた。

「……まだ、やってますか。」

「はい。もう閉めるところでしたけれど。」

それ以上、理由は聞かなかった。
こと葉には、聡の顔の味が一瞬だけ見えたからだ。

——香りが、違う。

今、誰かを見送ったばかりの人が持つ、あの気配。
ただ、それだけでない。
男には、もう少し違う複雑な香りがしていた。

「温かいもの、いかがですか。」

「……お願いします。」

短い返事だった。
選択肢を求めていない声。

「では、マンデリン。イタリアンローストで。」

こと葉は、瓶の蓋を開けた。
黒く艶のある豆。
鼻を近づけなくても、苦みが立ち上がってくる。

「マンデリンは、甘くはありません。」

それだけ言って、こと葉はミルを回し始めた。

ガリ、ガリ、という低い音。
夜の始まりにふさわしい、重たいリズム。

「苦みが、残ります。消えません。」

聡は、黙って聞いている。

「でも、未完成ではない苦みです。これ以上、丸くしなくてもいい味。」

こと葉は、淡々とそう言った。

湯を注ぐ。
香りが、さらに深くなる。
焦げた木。
湿った土。
遠い国の、夜の匂い。

香りを吸い込んだ瞬間、
聡の脳裏に、ある冬の夜がよみがえった。

聡は、思わず目を伏せた。

小学校低学年のころ。
部屋で遊んでいた自分の前に母親が立った。

「まだ終わってへんやろ!」

高い叫び声。
次の瞬間、頬に鋭い痛みが二度走った。
叩かれた理由は、もう覚えていない。
覚えているのは、そのあとだ。

玄関の戸が開き、裸足で引きずりだされた。
漢字ドリルとノートと鉛筆を投げつけられる。

「できるまで、入るな!」

冬の寒さが、足に噛みついていたのを覚えている。

(寒い。)

涙が零れてくるが、声には出せなかった。
大声で泣けば、もっと叩かれると知っていたからだ。
それが「普通」だった。
殴られることも、放り出されることも、誰も助けてくれないことも。

——母は大変なのだ。
——父がいなくなったのだから。

そう思うことで、納得するしかなかった。

大人になってから、知った。

「子どもを殴る大人は、おかしい。」
「子どもにも、感情がある。」

そんな言葉を、
研修や本の中で、あっさりと教えられた。

(……ああ、そうだったのか。)

怒りもあったかもしれない。
だが、それよりも、心にぽっかりと穴が開いた。
自分の子ども時代が、思い出してはいけない、存在してはいけないもののようになった気がした。

母に自分の想いを伝えてみようと思ったこともあったが、母を傷つけることも嫌だった。

だが……。

ある日、突然母が痩せてきた。
あまりに心配になったので、かかりつけの医者に連れて行くと、

「すぐに、大学病院に紹介状を書きます。」

と言われた。

余命一年。

その言葉を聞いた日の、病院の診察室の明るさとレントゲン写真の黒さだけが、今も記憶に残っている。

震えていた母のあの手。
「怖い。」と、初めて聞いた弱音。

(今さら、言えない。)

殴られたことも、外に出されたことも、恨んでいたことも。

そんなことを告白するのは、この世を旅立つ人にあまりに残酷だと思った。
だから、飲み込んだ。
毎週、見舞いに行った。
だが、言葉は少なかった。
それでも、行った。

——そして、今日の昼間。

自分と交代で見ていた姉からのメッセージが来た。

それは、間に合わなかったという事実だった。

葬儀場の一室で、おだやかに眠る母の顔を見つめながらも、聡は何ひとつ言えなかった。
怒り、悲しみ、孤独、不安、後悔、感謝、全ての感情がないまぜになったまま、街に出てきた。
そうして、フォーチュンカフェに出会った。

湯気が、鼻先をくすぐる。
現実に戻る。
聡は、ようやくカップを口元へ運んだ。
一口、含む。
強い、苦味が舌の奥に居座る。
逃げ道のない苦さだった。

(ああ……)

こと葉が、小さな紙袋をそっと添えた。

「よかったら豆菓子もどうぞ。」

中身をひと粒、口に入れる。

——塩味。

甘くない。
ただ、歯応えがあって、しょっぱい。
次の瞬間、珈琲の苦味が、少しだけ輪郭を変えた。
消えたわけではない。
薄まったわけでもない。

(……そうか。)

こと葉は、何も言わなかった。

ただ、小さな箱を差し出す。

「もし、よければ。」

「……?」

「ことばみくじです。」

聡は、少しだけ迷ってから、紙を一枚取った。

灯りの下で、ゆっくりと開く。

 ——文字は、短かった。

『苦い記憶は、苦いままでいい。』

息が、止まった。

ただ、そのままでいい、と書いてある。

否定でも、肯定でも、赦しでも、和解でも、強い言葉でもない。

(……そうか)

癒されなくてもいい。
薄まらなくてもいい。

これは、今は、整理できない感情のままでいいのだ。
苦いから受け入れられないのではない。
苦いからこそ、ゆっくりと受け入れるのだ。

母に言えなかった言葉。
言わなかった言葉。
言うべきだったのか、今も分からない言葉。
それらが、苦いまま、そこにある。
だが、それでいいのだ。

涙は出なかった。
代わりに、珈琲の苦みが胃の腑に落ちたのが分かった。
聡は、その紙をしばらく見つめてから、折りたたんだ。
そして——コートのポケットに、そっとしまった。
苦いまま、持ち帰ろう。
それでいい。

「……ありがとうございました。」

それだけ言って、頭を下げる。

「お気をつけて。」

こと葉は、深くはうなずかない。
ただ、いつもの調子で微笑んだ。
聡は、母の元に戻るように歩き始めた。
クリスマスイルミネーションの光の中で、マンデリンの苦味と塩味の余韻が舌に残っていた。

夜更けの葬儀場は、音がなかった。

人の気配は感じられない。
白い壁と、低い天井と、わずかに残る線香の匂い。
この世とあの世が触れ合っているかのような空間だった。

聡は、母の横に座っていた。

白い布に覆われた顔。

(……やっと、静かになった。)

そう思ってしまった自分に、言い訳はしなかった。

小さい頃、叩かれた頬。
寒空に出された夜。
それらは、確かにあった。

けれど同時に——
小さい時に高熱を出したとき、夜中に身体を抱えて病院に連れて行ってくれたこと。
朝と晩の食事は何があっても作っていたこと。
一人で二人の子どもを大学に行くまで育て抜いたこと。
そして、余命一年と告知されたときも、「怖い」とは言ったが、淡々として自らの旅立ちを受け入れたこと。

どれも、消えなかった。

(苦いままでいい)

ポケットの中で、紙の感触を確かめる。
あの言葉は、ここで使うためのものではない。
母に見せるためでも、赦すためでもない。

そして、ただ一言、言えた。

「……間に合わなくて、ごめんな。」

声は、静かだった。
謝罪とも、報告ともつかない。

母は、答えない。

それでいい、と聡は思った。
苦い記憶は、苦いままで。
それを抱えたまま、生きてもいいのだ。
聡は、ゆっくりと立ち上がった。

線香を一本、手向ける。
煙が、細く立ちのぼる。

(……ちゃんと、もらったから。)

何を、とは言わない。
許しでも、愛情でもない。
ただ、人生を生きるための“味”を。

部屋を出る前、もう一度だけ母を見た。
そこには、もう恐怖も、怒りもなかった。
ただ、終わった〈時間〉が、静かに横たわっているだけだった。
扉をそっと閉めた。
廊下の灯りが、現実の色を取り戻す。

——苦いままで、いい。

聡は、それを捨てずに生きていくことにした。

(続く)


#フォーチュンカフェ
#短編小説
#大人の物語
#喪失と再生
#家族の物語
#心に残る物語
#珈琲と物語
#苦い記憶
#クリスマスマーケット
#一条詩紋

いいなと思ったら応援しよう!

一条 詩紋 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 物語があなたの癒しになれば幸いです。 チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。