ようこそ!フォーチュンカフェへ 3rd #3 託す夜|グアテマラ*コロンビア*マンデリン
「お母さんには、わからへん」
娘の杏の声が、まだ耳に残っている。
真弓は店の裏口から外へ出て、しばらくそのまま立っていた。
路地の石畳が、街灯に冷たく照らされていた。
口論と呼ぶほどのものでもない。
話し合いのつもりで始まって、途中から噛み合わなくなり、最後はお互いに黙り込んだ。
けれど、杏が唇を結んで黙ったときの顔が、どうしても消えなかった。
継いでほしいとは思っている。でも、それだけじゃない。
『立花庵』は、姑から少しずつ引き継いできた店だ。
暖簾の色が褪せれば新しくし、季節が巡れば菓子を替え、三十年近く一緒にやってきた。
その時間ごと、自分の代で終わるのかもしれないと思うと、胸の奥が痛んだ。
だからといって、杏を縛りたいわけでもない。
あの子には、あの子の積み重ねたいものがある。
それも、ほんとはわかっている。
わかっているのに、また責めるような言い方をしてしまった。
行き場のない気持ちを抱えたまま、真弓は夜の路地をゆっくり歩いた。
昼間は観光客でごった返す通りももう静かだ。
ふと、足が止まる。
駅の路地裏に、見慣れない店があった。
小さな黒板が立てかけられている。
白いチョークで一行だけ、こう書かれていた。
――迷っている間は、流れに任せるのもいい。
真弓は、その言葉を読んだ。
もう一度、読んだ。
「お母さんには、わからへん」
杏の声が重なる。
わからへん、じゃなくて。
わかろうとしてへんのかもしれない。
そんな言葉が、ふっと浮かんだ。
そのとき、格子の向こうから珈琲の香りが流れてきた。
深くて、やわらかな匂いだった。
真弓は自分でも理由がわからないまま、そっと扉に手をかけた。
*
カラン。
「ようこそ!フォーチュンカフェへ」
店に入ると、若い店主らしき女が挨拶をした。
年のころは二十代後半だろうか。
目の色が、新橋色(ターコイズブルー)だ。
店の中は、外の夜より時間の流れが違うような静けさだった。
小さなカウンターに椅子が数脚、テーブルが一卓。
棚には古い珈琲道具が並び、どれも長く使われてきた手ざわりを残していた。
横の書棚には、表紙の色が古びた本が並んでいる。
そして店の奥には、大きな車輪の中に目があるカードが飾られていた。
「おひとりですか」
「一人です」
真弓がそう言うと、女性は「どうぞ」とカウンターの席を示した。
メニューを探す。
ない。
「うちは店主のお任せで出しております」
真弓の視線に気づいた店主は、そう告げた。
「お任せ、ですか」
「はい。それと――」
こと葉と名乗った店主は、少し間を置いて続けた。
「お顔の味で、珈琲を淹れております」
(え、顔の味?)
「顔の味、というのは、お客様のお顔を見て、その方に合う珈琲を選ぶということです」
真弓の表情を読んだかのように答えると、こと葉は豆の瓶に手を伸ばした。
「今日は、グアテマラをベースに、コロンビアで丸みを添えて、マンデリンを少し重ねますね」
さらりと言われた豆の名前は、真弓にはよくわからない。
けれど、こと葉の声は、不思議とそれだけで落ち着いた。
「苦みのあとに、やわらかさが残るように淹れます」
それだけ言って、こと葉は静かに仕事を始めた。
(妙な店やねぇ)
けれども席を立つこともなく、真弓は店を見回した。
「ここは、最近始められたのですか」
「いえ、ずっと前からあるんですよ」
こと葉は笑顔で答えた。
しばらくして、白いカップが目の前に置かれた。
細い湯気が、すうっと立ち上っている。
真弓はそっと両手でカップを包んだ。
温かかった。
口元に近づけると、香りが先に来た。
深くて、落ち着いた匂いだ。
一口飲むと、苦みの奥にかすかな甘みがあって、それがゆっくりと喉の奥へ消えていった。
肩が、少し下がった気がした。
もう一口飲んだ。
さっきまで頭の中で鳴り続けていた杏の声が、少し遠くなった。
「おいしい」
「ありがとうございます」
こと葉は静かに答えた。
なぜか、それが真弓にはちょうどよかった。
さらに一口飲んだとき、真弓の心から言葉がぽつりと漏れた。
「娘と、うまくいかんくて」
*
口にしてから、真弓は少し驚いた。
こんなことを、見知らぬ店で話すつもりはなかった。
でも、止まらなかった。
和菓子屋を継いでほしいこと。
娘が首を縦に振らないこと。
娘の焼き菓子の夢も、わからないではないこと。
それでも、三十年守ってきた店が、自分の代で終わるかもしれないこと。
責めるような言い方をしてしまって、後悔していること。
こと葉は、黙って聞いていた。
相槌も、助言も、慰めもない。
その静けさが、真弓には不思議と話しやすかった。
「……割り切れんのです」
最後にそう言って、真弓はカップに視線を落とした。
「娘のことを応援したい気持ちも、本物です。店を続けてほしい気持ちも、本物です。どっちかが嘘やったら、楽やのに」
しばらく、沈黙があった。
こと葉が、静かに口を開いた。
「よろしければ、ことばみくじを引いてみますか」
「ことばみくじ?」
「はい。あなたを後押しする言葉がでてくるかも」
いたずらっぽく笑いながら、こと葉が小さな木の箱を差し出した。
真弓は少し迷ってから、一枚を引いた。
細い紙に、丁寧な字で書かれていた。
積み重ねた先なら、納得できる。
真弓は、その言葉をじっと見た。
積み重ねた先。
自分には、三十年分の積み重ねがある。
朝に暖簾を出して、餡を炊いて、季節の菓子を考えて、また一年を送る。
その繰り返しが、今日の立花庵だ。
だからこそ、手放せない。
でも。
ふと、杏の顔が浮かんだ。
小さいころから台所でバターを溶かして、粉をこねて、焼き上がりをわくわくした顔で待っていた杏の顔が。
あの子にも、積み重ねてきたものがある。
自分とは違う場所で、自分とは違う形で、それでも真剣に積み重ねてきたものが。
「継ぐ、継がへん、やなくて」
真弓は、ぽつりと言った。
「あの子が積み重ねた先に、あの子の納得がある、ってことですかね」
こと葉は答えなかった。
ただ、少し微笑んだように見えた。
割り切れたわけじゃない。
店が惜しい気持ちは、まだある。
でも、さっきまでとは、何かが少し違っていた。
「おおきに。少し気が楽になったわ」
真弓はゆっくり立ち上がった。
そのとき、こと葉がやわらかく言った。
「お代は、ことばみくじでいただいております」
真弓は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「ほんまに、変わったお店やこと」
「よろしければ、こちらを」
こと葉が差し出したのは、小さなカードと、細いガラスペンだった。
傍らには、「ゆずり葉色」と書かれた小瓶のインクが置かれている。
真弓はその色を見た。
深い緑に、かすかにやわらかな光が混じっている。
真弓は、迷わずペン先をインクに浸した。
白いカードに書く。
託した先で、育つものがある。
書き終えた字を見ているうちに、不思議と心のざわつきが落ち着いてきた。
まだ寂しさはある。
惜しい気持ちも、なくなってはいない。
それでも、この言葉を書いた自分は、さっきとは少し違っていた。
こと葉は、そのカードを大切に受け取った。
「おおきに」
真弓は小さく一礼して、店をあとにした。
扉の向こうには、来たときと同じ夜の路地が続いている。
けれど、その先に戻っていく足取りは、ほんの少しだけ軽くなっていた。
*
立花庵に戻ると、店の灯りはまだついていた。
真弓は裏口から入った。
土間に杏の草履が揃えられている。
まだ起きているらしい。
台所を抜けると、居間の襖の向こうに明かりが見えた。
真弓は少し立ち止まってから、襖を開けた。
杏は座卓の前に座って、ノートに何かを書いていた。
真弓の顔を見ると、少し身構えるように肩が上がった。
「……お母さん、どこ行ってたん」
「ちょっと、そこまで」
真弓は杏の向かいに座った。
しばらく、どちらも黙っていた。
「さっきは、あんな言い方して悪かった」
杏が少しだけ目を見開く。
たぶん、先に謝るとは思っていなかったのだろう。
「うち、あんたに店を続けてほしい思てる。それはほんまや」
真弓は、そこでいったん言葉を切った。
「でも、それをそのまま、あんたの人生に乗せようとしてたんかもしれへん」
杏は黙っている。
真弓は続けた。
「中途半端な気持ちで店に残られても、うちもたぶん、うれしない」
そこまで言うと、杏の肩がわずかに揺れた。
「……ほな、どうしたらええの」
強く言い返していたさっきとは違う、幼い時の声のように思えた。
真弓は、持っていた封筒を作業台の上に置いた。
「これ、あんたの結婚資金に思て、置いといた分や」
杏が顔を上げた。
「結婚資金……?」
「せやけど、今はそっちやない気がする」
真弓は、杏の目を見た。
「やるんやったら、気が済むまでやってみたらええ」
その言葉を口にしたとき、自分でも少しだけ胸が痛んだ。
惜しい気持ちが消えたわけではない。
このまま店がどうなるのか、不安がなくなったわけでもない。
それでも、言わなければならない言葉だと思った。
「あんたが積み重ねた先に、あんたの納得があるんやったら、うちはそれを見てみたい」
杏はしばらく何も言わなかった。
それから、封筒に触れた。
指先が、少し震えていた。
「……ほんまに、ええの」
「よくはない」
真弓は即座にそう言って、少しだけ笑った。
「店は惜しいし、ほんまは戻ってきてほしい。そんなもん、簡単にはなくならへん」
杏も、少しだけ笑った。
泣きそうな顔のまま、でも、たしかに笑った。
「せやけど」
真弓は、あらためて言った。
「それでも、あんたにしかできひん積み重ねがあるんやろ」
杏は唇を結び、それからゆっくりとうなずいた。
「……うん」
その返事は、さっきまでのどんな言葉よりもまっすぐに聞こえた。
少しの沈黙のあと、真弓はふと思い出したように尋ねた。
「店の名前は、どうするの」
杏は目を瞬いた。
それから、座卓の上のノートを開いて、真弓のほうへ向けた。
そこには、黄色の車の絵に丁寧な文字でこう書かれていた。
An's Baking Caravan
「杏の、旅する焼き菓子屋」
杏が言った。
真弓はその文字を、黙って見た。
継いでほしい。
その気持ちは、今も変わらない。
けれど、この名前を書いた娘は、もう自分の道を歩き始めているのだとも思った。
「ええ名前やね」
真弓は言った。
杏が、泣きそうな顔で笑った。
*
その夜遅く、「ことばみくじ」を思い出していた。
――託した先で、育つものがある。
あの言葉を書いたのは自分だ。
けれど今は、誰かにそっと渡された言葉のようにも思えた。
継いでほしい。
その気持ちは、たぶんまだ消えない。
杏がいつか戻ってきてくれたらと、そんなこともやっぱり思う。
けれど、あの子もまた、迷いながら、自分の道を探している途中なのだ。
それでも今夜、真弓はその背中を押した。
手放したわけではない。
あきらめたわけでもない。
ただ、今は託してみようと思ったのだ。
胸の奥の痛みは、まだあった。
けれどその痛みのそばに、今までなかった楽しみが、ほんの少しだけ生まれていた。
(第3話 了)
娘の杏がフォーチュンカフェと出会った日の話
1st Season
2nd Season
一条詩紋のほかの作品
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いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
物語があなたの癒しになれば幸いです。
チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。