ドルは死ぬのか──ペトロダラーの終焉と、250年目のアメリカ
1. 50年前に起きたこと
1971年8月15日、リチャード・ニクソンはテレビカメラの前に立ち、ドルと金の交換を一方的に停止すると宣言した。いわゆるニクソンショックである。
その背景にはベトナム戦争があった。泥沼化した戦費がアメリカの財政を食い荒らし、各国が「ドルを金に換えてくれ」と言い始めたとき、アメリカの金庫にはもう十分な金がなかった。ブレトンウッズ体制──アメリカのドルだけが金と交換でき(1オンス=35ドル)、他国の通貨はドルと固定レートで交換できることで、間接的に金との兌換を保証する仕組み──は、こうして崩壊した。ドルは金という「錨」を失い、大海原に放り出された。
しかしアメリカは、失った錨の代わりに新しい錨を見つけた。石油である。
1974年、ヘンリー・キッシンジャーはリヤドに飛び、サウジアラビアとの間で歴史を変える合意を結んだ。条約でも法律でもない、密約に近い取り決めだった。内容はシンプルだ。アメリカがサウジをはじめとする湾岸王政国家の安全を保障する。その代わり、石油の国際取引はすべてドル建てで行う。サウジはオイルマネーで米国債を買う。こうして「ペトロダラー体制」が生まれた。世界中の国が石油を買うためにドルを必要とし、そのドルを得るためにアメリカに財やサービスを売る。ドルの価値は金ではなく、石油の需要によって担保されるようになった。金本位制から石油本位制への移行である。
この体制は半世紀にわたって機能した。ドルは世界の基軸通貨であり続け、アメリカは自国通貨を刷るだけで世界中からモノを買える「法外な特権(exorbitant privilege)」を享受した。しかし2024年6月、50年の節目を迎えたペトロダラー合意は、サウジアラビアが更新しないまま静かに失効したといわれる。大きな報道はなかった。しかし構造の地殻変動は、すでにそのとき始まっていた。
2. 50年後に起きていること
2026年2月28日、アメリカとイスラエルはイランを攻撃した。
その結果何が起きたか。イランはホルムズ海峡を封鎖し、ベトナム戦争よろしく自体は泥沼化しつつある。世界の石油輸送の20%、LNGの約20%、肥料原料の約3分の1が通過するこの海峡を、イランが物理的に支配下に置いた。そしてイランは、海峡を通りたい船に対して「通行料」を要求し始めた。原油タンカーの場合、1バレルあたり約1ドル。超大型タンカー(VLCC)一隻で約200万ドルになる。
ここが決定的に重要なのだが、その通行料の支払い通貨はドルではない。人民元、もしくは暗号通貨である。
Bloomberg、NY Post、BBCなどの報道を総合すると、通行を希望する船はまずイラン革命防衛隊(IRGC)に船の所有者、船籍、積荷、目的地、乗組員情報、AIS(自動船舶識別装置)のデータを提出する。IRGCがアメリカやイスラエルとの関連がないことを確認した後、人民元または暗号通貨で通行料を支払い、秘密の高周波コードを受け取って海峡を通過する。戦争開始前は1日約130隻が通過していた海峡を、開戦後の1ヶ月間でわずか292隻しか通れなかった。そしてその292隻の通過を可能にした「鍵」が、人民元だったのである。
Fortune誌がロイズ・リストの情報として伝えたところによれば、少なくとも2隻の船舶が人民元で通行料を支払ったことが確認されている。中国、インド、パキスタンなどに関連する約300隻が通過に成功した。一方、2,000隻以上が海域に足止めされたままだ。イランは開戦以来少なくとも1,170万バレルの原油を海峡経由で輸出しており、その全量が中国向けである。
これが意味することを、50年前の構造転換に重ねてみよう。1971年、金とドルのつながりが切れた。1974年、その代わりに石油とドルがつながった。そして2026年、石油とドルのつながりが切れ、石油と人民元がつながり始めている。金本位制のドルから、石油本位制のドルへ。そして石油本位制のドルから、石油本位制の人民元へ。歴史は韻を踏んでいる。
3. ダリオの警告──スエズの亡霊
「すべてはホルムズ海峡を誰が支配するかにかかっている」
世界最大のヘッジファンド、ブリッジウォーターの創業者レイ・ダリオは、Xへの長文投稿でそう書いた。ダリオはこのホルムズ海峡の喪失を、1956年のスエズ危機における大英帝国の屈辱と比較している。
1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化した。イギリスとフランスはイスラエルとともに軍事介入したが、アメリカとソ連の圧力に屈し撤退を余儀なくされた。このとき世界は「イギリスはもう世界の海を支配できない」ことを知った。スエズ危機は、歴史家が「大英帝国のグローバルな帝国主義の終わり」と広く認識する転換点となった。
ダリオはさらに遡り、17世紀スペイン帝国と18世紀オランダ帝国にも同様のパターンがあったと指摘する。いずれも重要な貿易ルートの支配権を失ったことが帝国の衰退を決定的にした。そして今、アメリカがホルムズ海峡の支配権を失いつつある。
「同盟国と債権者が信頼を失い、基軸通貨としての地位が失われ、ドル建て資産が売られ、通貨が弱体化する──特に金に対して──ことに注意せよ」とダリオは書いている。
これは単なる悲観論ではない。ダリオ自身の著書『変動する世界秩序(Changing World Order)』で展開された帝国のサイクル理論に基づく分析である。ダリオのモデルでは、帝国の衰退は六つの段階を経る。アメリカは現在「第5段階(内部紛争と財政危機の段階)」にあり、ホルムズ海峡の喪失が第6段階(対外的覇権の喪失)への移行を決定づける可能性があるという。
4. トランプの「放棄宣言」
ダリオの警告に不気味な現実味を与えているのが、ドナルド・トランプ自身の発言である。
2026年4月1日、トランプは記者会見で言った。「アメリカはホルムズ海峡を必要としていない。我々は使っていない。必要としているのはヨーロッパだ。韓国だ。日本だ。中国だ。彼らが少しは関わるべきだ」。そして困っている国々に向かって「自分で石油を取りに行け(go get your own oil)」と言い放った。
ペトロダラー体制の本質は、アメリカが湾岸の安全を保障し、その見返りとして石油取引にドルが使われることだった。トランプのこの発言は、その保障を大統領自身が放棄する宣言に他ならない。Deutsche Bankのマリカ・サチデヴァが「湾岸での安全保障に失敗すれば、ペトロダラーの前提そのものが解体される」と書いた通りのことが、しかもアメリカの側から起きている。
ここにはある種の皮肉がある。アメリカはシェール革命を経て世界最大の石油・ガス生産国となり、2025年には原油輸入の84.26%を西半球から調達するようになった。中東への依存度は劇的に下がった。ホルムズ海峡を通る原油のうち、アメリカ向けはわずか6%に過ぎない。だからこそトランプは「我々には関係ない」と言える。しかしペトロダラー体制とは、アメリカ自身が石油を買うための仕組みではない。世界中の国がドルを必要とする仕組みなのだ。
上で書いたことをより詳しく書くと、ドルがなければ石油が変えないとなれば、嫌だろうとなんだろうと世界各国は一定の量のドルを保つ必要がある。そして利便性のためもあり、みんなが持っているドルを使って多国間での貿易でも自分たちの通貨を使わずに決済をするようになる。すると世界はいくらでもドルが必要にあり、アメリカは輪転機でドルを印刷するだけで世界中のモノが手に入るという上述の法外な特権を手にすることができる。本来こんなことをすればあっという間にハイパーインフレになってしまうが、基軸通貨国の通過(現在はドル)はよそにいくらでも自国通貨(ドル)を持ちたがる国や個人がいるので、国内に通過があふれることなく(インフレになることなく)国外にそれを輸出することができる。言い方を変えれば、自国のインフレを外国に輸出することができることが、自国通貨が国際基軸通貨になる最大最強のメリットなのである。だが「我々は海峡を必要としない」と言った瞬間、世界中の国がドルを必要とする理由もまた消えていく。
5. 数字が示す侵食
ペトロダラーの崩壊は一夜にして起きるものではない。しかしデータは、緩やかだが確実な侵食を示している。
IMFの統計によれば、世界の外貨準備に占めるドルのシェアは2025年第4四半期に56.77%まで低下した。1995年の統計開始以来最低であり、Wolf Streetの分析では31年ぶりの低水準である。2000年代初頭には70%を超えていたシェアが、四半世紀で13ポイント以上削られた。
各国中央銀行の行動は、数字以上に雄弁である。ブラジル中央銀行は2025年に金保有を倍増させ、準備資産に占める金の比率を3.55%から7.19%へ引き上げた。同時にドル資産の比率は過去最低の72%まで低下した。こうした動きはブラジルだけではない。中国、インド、トルコ、ポーランドなど、世界中の中央銀行が金を買い増し、ドル資産を減らしている。
Deutsche Bankのサチデヴァはこの戦争を「ペトロユアンの始まり」と呼んだ。ただし同時に、人民元の外貨準備シェアはまだ2%未満であることも付記している。ドルが一夜にして人民元に置き換わることはない。しかし問題は「置き換わるか否か」ではなく、「ドルの独占が崩れるか否か」である。Commerzbank のフォルクマー・バウアーは、興味深い視点を提供している。「湾岸産油国の世界石油輸出に占めるシェアは、1980年の55%から2024年には35%未満に下がった。半導体貿易はペトロダラーフローに匹敵する規模に成長している。ドルにとっては、石油よりも半導体がドル建てで取引されることのほうが重要になりつつある」。これが正しければ、ペトロダラーの終焉は即座にドル覇権の終焉を意味するわけではない。しかし「裏付け」が分散するということは、体制が脆くなるということでもある。
6. 帝国の寿命──250年という数字
ここで時間軸を広げてみたい。
イギリスの軍人ジョン・バゴット・グラブ(グラブ・パシャ)は、1976年に『帝国の運命と生存への探求(The Fate of Empires and Search for Survival)』という短い論文を書いた。彼はアッシリア、ペルシア、ギリシャ、ローマ、アラブ、オスマン、スペイン、大英帝国など歴史上の主要な帝国を分析し、驚くべき共通点を見出した。帝国の平均寿命はおよそ250年(10世代)であり、そのサイクルは征服の時代→商業の時代→富裕の時代→知性の時代→退廃の時代という段階を経て衰退に向かう、というものだ。
アメリカ合衆国は1776年に独立を宣言した。2026年は建国からちょうど250年目にあたる。
これだけなら偶然の一致として片付けることもできる。しかし同時に、ストラウスとハウが1997年に著した『フォース・ターニング(The Fourth Turning)』も、アメリカの歴史が約80年周期で「危機の時代」を迎えると論じており、2020年代がまさにその「第四の転回」にあたると予測していた。独立戦争(1780年代)、南北戦争(1860年代)、第二次世界大戦(1940年代)、そして2020年代。80年×3=240年。グラブの250年とほぼ重なる。
レイ・ダリオの帝国サイクル論もまた、おそらくグラブの仕事を下敷きにしているとみられ、帝国の寿命を約250年とし、アメリカが末期段階にあると警告している。
中国の歴史にも似た周期がある。秦の統一(紀元前221年)以降、歴代の統一王朝はどうしても300年を超えることができなかった。漢は約400年続いたが、途中で王莽による簒奪と「新」の建国があり、実質的には前漢200年・後漢200年に分かれる。宋は320年ほど続いたが、靖康の変で北宋が滅亡し南宋として再出発している。明は276年、清は268年。日本に目を向ければ、江戸幕府は265年、室町幕府は約240年。不思議なほど、250年前後に集中する。ちなみに私も王朝240年周期説という似たようなことを考えているのでで、初期の頃に投稿されたエントリーを読んでみてほしい。
正直に言えば、これらの周期論が「科学的な予測理論」として成立するかと問われれば、確たる自身があるとは言えないかもしれない。合致する事例を拾い上げ、合致しない事例を例外として処理すれば、ほぼどんな数字でも周期に見えてしまうという構造的な問題がある。周期は反証可能性を持たない。
しかし、周期論の価値は「予測」にあるのではなく「警戒」にあるのだと思う。250年も経てば制度は腐敗し、建国の精神は形骸化し、対外的な信用は摩耗する。それはほぼ歴史的に確実なことだ。そしてグラブが列挙した帝国末期の特徴──内部分裂の激化、財政の放漫、軍事力の過剰展開と信頼の喪失、同盟国への無関心、富の偏在と大衆の疎外──を2026年のアメリカに当てはめたとき、複数どころかほぼすべてが該当する。250年という数字を信じるかどうかは個人の判断に委ねるとしても、そこに描かれた「症状」が目の前で進行していることは、否定しがたい事実である。
7. 構造的な類推──金→石油→?
周期論の「数字」よりも説得力があるのは、通貨覇権の「裏付け資産の移行」という構造的な類推のほうだろう。
1971年まで、ドルの裏付けは金だった。金は物理的な実体を持ち、量が有限で、国境を超えて価値が認められる。しかしアメリカはベトナム戦争の出費によって、金の裏付けを維持できなくなった。
1974年以降、ドルの裏付けは石油になった。石油そのものというよりも、「石油を買うにはドルが必要」という世界的な制度設計が裏付けだった。これを可能にしたのは、アメリカの圧倒的な軍事力によるペルシャ湾の安全保障である。
2026年現在、その軍事的安全保障が機能しなくなっている。ホルムズ海峡を封鎖したイランに対し、アメリカは海峡を再開できていない。トランプは「我々には関係ない」と言い、湾岸諸国は自力での安全保障を模索し始めている。そしてイランが設定した新しい通過ルールの中で、人民元が「通行料」として機能し始めた。
これは金→石油のときと同じ構造転換の初期段階にある可能性がある。金本位制が崩壊したのは一夜のことだった(ニクソンの宣言)が、その前段階──金の流出、各国の不信感の蓄積、ドルの過剰発行──は何年もかけて進行していた。ペトロダラーの崩壊もまた、決定的な「一夜」が来る前に、長い前段階がある。2024年6月のサウジアラビアによるペトロダラー合意の不更新、各国中央銀行のドル離れ、そして今回のホルムズ海峡での人民元決済。これらは前段階の出来事なのかもしれない。
むろん、人民元がドルに取って代わるにはまだ途方もない距離がある。中国の資本規制、人民元の自由兌換性の欠如、中国国内の不動産危機と人口減少。人民元の外貨準備シェアが2%未満という現実は、ドルの57%と比較にならない。しかし覇権通貨の交代は、代替通貨が「完璧に準備できてから」起きるのではない。既存通貨への信頼が「十分に失われてから」起きるのだ。ポンドからドルへの移行も、ドルが完璧だったからではなく、ポンドの信認が崩壊したから起きた。
8. 日本にとって何を意味するか
この議論は、地政学の知的遊戯ではない。日本にとって極めて実際的な意味を持つ。
日本のエネルギーの中東依存度は95%を超え、食料自給率は38%、肥料の大部分を輸入に依存している。これらの輸入は、ドル建ての国際貿易システムと、アメリカが保障する海上交通路の安全に依存してきた。ペトロダラー体制は日本にとっても生命線だった。ドルさえ持っていれば、世界中から必要なものを買えた。アメリカが海を守ってくれていたから、タンカーは安全に航行できた。
その二つの前提が、同時に揺らいでいる。
ドルの裏付けが弱くなれば、円が依存してきた「ドルを持っていれば安心」という構造も弱くなる。アメリカが海峡を守らなくなれば、日本のタンカーは自力で安全を確保しなければならない。実際、5月の石油調達量は前年比約60%に留まり、残りは備蓄の取り崩しで賄うという状況がすでに始まっている。
ペトロダラーの終焉が緩やかに進むのか、それとも何らかの「ニクソンショック」的な断絶が来るのかはわからない。しかし、50年前にアメリカが金の錨を失ったとき、最初に衝撃を受けたのは日本だった(1ドル=360円の固定相場が崩壊し、円が急騰した)。次の構造転換においても、最も大きな影響を受ける国の一つは間違いなく日本である。
9. おわりに──韻を踏む歴史の中で
マーク・トウェインが言ったとされる言葉がある。「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」。
50年前、アメリカはベトナムの泥沼から抜け出せず、金の裏付けを失い、石油で新たな体制を構築した。2026年、アメリカはイランとの戦争で海峡の支配を失いつつあり、石油の裏付けが人民元に侵食されている。250年前、アメリカは大英帝国から独立して新しい国を作った。250年後、そのアメリカ自身が帝国の末期症状を呈している。
これらの周期的な「符合」が因果関係なのか偶然の一致なのか、正直なところ誰にもわからない。わからないが、少なくとも一つ確かなことがある。構造転換のさなかに何も備えていなかった者は、事後に選択肢を持たないということだ。
金本位制が崩壊したとき、金を持っていた者は資産を守れた。ペトロダラー体制が機能している間にドル資産を積み上げた者は繁栄した。では、ペトロダラーの次の体制において、何を持っている者が生き残るのか。
その答えは、まだ歴史が書いている途中である。
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