【美術展2025#21】雨宮庸介展 まだ溶けてないほうのワタリウム美術館@ワタリウム美術館
会期:2024年12月21日(土)〜2025年3月30日(日)
この展覧会は、アーティスト雨宮庸介の活動の初期から現在までを見通せる展覧会です。2000年初頭の作品から始まり、「溶けたりんごの彫刻」や「石巻13分」の記録映像、「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」のペーパーなどを含み、さらに最新作として今回の設営期間にワタリウム美術館で撮影するVRが展示され、それは「話す、語りかける」「イメージを絵の具で描く」「歌や楽器やダンス的要素」など新たなアート体験を提供します。さらに会期中の毎週土曜日夕方、「人生最終作のための公開練習」が行われ、観客が雨宮の制作現場に立合うことが出来ます。
前回のSIDE CORE展と同時期に行っていた修復工事は何事も無かったかのように終了していた。



何が変わった?

壁は綺麗になったか。
しかし改めて見てもすごいデザインだな。
マリオ・ボッタの名建築はキレッキレで色褪せないどころか二周くらいして逆に最先端の雰囲気すら醸し出している。

で、今回の展覧会だが、会期途中から撮影ルールが変わって4階のみ撮影可となり、一番映える一連の溶けたりんごが並ぶ2階展示室内は撮影不可になった。
2階以上はスマホ以外持ち込み禁止。
どんなに小さなカバンもロッカーに預けなくてはならない。
誰かが会期途中に撮影に夢中になってカバンをりんごにぶつけて壊したとか、きっとそんな感じでルールが厳しくなったのだろう。
せっかく美術館で写真が撮れるのが普通になってきたのに、鑑賞者の軽率な行動のせいで一昔前のような写真撮影一切禁止がデフォみたいな時代に戻ってしまうのは避けたい。
2階展示室はキャリア最初期の作品から一連のりんご作品までが並ぶ。
そこに入るためには極端なパースがついた入り口をくぐる。
ドラえもんのガリバートンネルをくぐるような気分。
かなり狭い入り口。
これ、XXXLくらいの豊満なサイズの人は入れないな、と思う。
別の入り口が用意されている様子もない。
昨今の行き過ぎたポリコレへのアンチテーゼか?などと深読みをしてみる。
2階:立体作品
3階:作品テキストとVR作品
4階:アーカイブと映像作品
と、階によって展示内容が明確に違う。
今回の展覧会のメインは3階のVR作品。
ひとりずつ案内されスタッフにゴーグルを装着してもらう。
VRの映像はファミコンからスーパーファミコンになった時のような技術的進化の感動がありながらも、まだまだ発展途上の解像度の粗さや画面の歪みなどがこれからのハード面の伸び代と、それに伴う表現方法の多様化と深化を予感させる。
今回の展覧会タイトル「まだ溶けてないほうのワタリウム美術館」は「溶ける以前の状態が継続している」という、実はデュシャン以降のアートをアートたらしめている「過去完了」をそっと召喚しようと試みます。同時にこれは、平和にみえる無関心な日常さえも実は「まだ戦争が起きていないほうの静寂」でもあることを顕在化せんとするものです。
本来「ここではないどこか」に自身をカジュアルに転送するために設計されているはずのVR HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を使用しつつ、むしろ「どこかではないここ」に丁寧に連れ戻し、この世界そのものについて肯定を試み、仮に祝福にまでこぎつけると「この世界」と「この世界」が秘密裡に並走しはじめる。
そんな仮説を今読んでいるあなたにそっと耳打ちすること、それこそが僕なりのアートの実践であり本展覧会で試みられることです。
本人も言っていた。
りんごのイメージが強いが、昔からVとRの話をしている、と。
ヴァーチャルとリアリティ。
「溶けてるほう」と「溶けてないほう」
「溶けてないほう」を、
「溶ける以前の状態が継続している」
「まだ戦争が起きていないほうの静寂」
「どこかではないここ」
とも表現しているが、そのVとRはもしかしたら時に緩やかに交錯しつつ、いつの間にか入れ替わったりしているのかもしれない。
これは大事なことだから もう一度言いますね
あなたがもう口にしなくなったあの震災「後」もまだ終わっていないので 今日は2011年3月5,041日 あの戦「後」もまだ終わってないので 今日は1945年8月28,960日
私には終わったことでも、まだ終わっていない人もいる。
あなたには終わったことかもしれないが、私にはまだ終わっていないこともある。
日本人にとってのりんごの形と、外国人にとってのリンゴの形。
ふと思い出す。
1993年。
その年は冷夏の影響で深刻な米不足になったため、タイ米を大量に輸入したが日本米とは品種も味も違ったため不人気で、結果せっかく輸入したタイ米は大量に廃棄された。
そんなこともあったな。
ジャポニカ米とインディカ米。
インターネット無き時代、当時の日本人はその違いすら正確に理解できていなかった。
いや、違う。
「日本人は」ではない。「私は」だ。
私にとってのりんごの形と、あなたにとってのリンゴの形。
今見ているこのVR映像だって、私の見ている内容が隣の人と同じとも限らない。
もしかしたら我々は全く違う映像を見ているかもしれない。
会期中に何回も来館できるチケットなのは、その違う内容の映像を全てコンプリートするため?
頭の中でVとRがぐるぐると回りだす。
3階展示室前には「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」のハンドアウトがあった。
実に「火の鳥」的世界観。
4階のアーカイブ部屋。
資料とともに所狭しと過去作品から現在進行中の作品までが並ぶ。

安齊重男による記録写真。

安齊氏に撮られるということは若手アーティストにとってはステイタスだった。

何かがぶつかってガラスが割れている(風)。

ずっと昔に見たイリヤ・カバコフの《自分の部屋から宇宙に飛び出した男》を思い出した。
この窓にタイトルをつけるとすればさしずめ《溶けてないほうから溶けてるほうに飛び出した男》といったところか。
ここのガラスは割れていないけど。(それも含めてのVとRのセルフパロディ?)
あの日の3.11はまだ溶けてない。

地下のミュージアムショップでは今回の展覧会のためのドローイングが並んでいた。
その名も「まだ溶けてないほうの原稿展」。

ドローイングは販売している。

雨宮氏は2024年から母校の多摩美で准教授をされている。
1999年学部卒とのことなので私の少し上の代の先輩に当たる。
直接の面識は無いが、学部の在籍が何年か重なるので学食あたりですれ違ったことくらいはあるだろう、きっと。
2000年前後。
当時就職氷河期真っ只中だったが、私はろくに就職活動もせず、はたまた作家活動に歩み出すでもなく、「ここではないどこか」の世界を見たくて長旅をしたり外国に住んだりしていた。
失うものが何もなく、安定した生活を恐れていたあの頃。
それから四半世紀ほど経った今、「どこかではないここ」の世界には概ね満足している。
守るべきものが増え、安定した生活に感謝している今。
この世界そのものについて肯定を試み、仮に祝福にまでこぎつけると「この世界」と「この世界」が秘密裡に並走しはじめる。
果たして今私が生きているこの世界は「溶けてないほう」なのだろうか、「溶けてるほう」なのだろうか。
頭の中でVとRがぐるぐると回りだす。
そして「リアル」と「リアリティ」が並走しはじめる。
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