にゃくいちさん 十五話
海岸近くの波に動揺することなく、船は水際に近寄って行く。多くの人が港に集まっており、船の到着を歓迎しているようだ。群青の制服の男たちが、規則的な列を作っている。エレベーターを待ちながら、李亜はその様子を窓から眺めていた。
「こちらへどうぞ」スウェット姿の李亜は、バトラーの久慈に案内されてエレベーターに乗る。「皆様がお待ちしております。にゃくいちさん」と久慈が言い、李亜の眉はピクリと動く。
「そのにゃくいちさんってなんやの?」と李亜は訊ねた。
「にゃくいちさんは、にゃくいちさんでございます」と久慈は答える。
「何を言うても無駄やね」
「はい」と言って久慈は頷いた。そしてエレベーターのドアが開き二人は通路に出た。
「春松はどないしたん?」李亜がそう問うもバトラーの久慈は答えず、ただ微笑んでいる。その微笑みが李亜を苛立たせた。
「そろそろ教えてくれてもええんちゃう? にゃくいちさんって何?」と再び聞いても、やはり久慈は何も答えない。李亜は舌打ちをする。
「間もなく、船は到着します。ランプウェイが開きましたら、お車で会場までご案内します」
「会場? なんの?」と李亜は聞くが、その質問にも久慈は何も答えない。やがて、彼女は黒い車まで案内された。
「お待ちしておりました」と言葉をかけてきたのは、仰々しい勲章を身に着けた馬面の久慈。
「ちょ、どういう事や? お前らグルやないか。こいつは、あかんて」
「色々と誤解されているようですが、ご安心ください」と馬面の久慈は、李亜を車に乗るように促す。
「誤解? 何がやねん」と李亜は言うが、馬面の久慈は後部座席に李亜を乗せるとドアを閉めた。そして車は発進する。
「ちょ、ちょっと!」と言った時には車は港に降りて、そこには『にゃくいちさん』と書かれた札の立った駐車スペースがある。そこへ車を停めると、馬面の久慈はドアを開けて一礼した。
「なんです? これは?」
「お出迎えです」馬面の久慈が李亜に答えた。
「いや。なんで? よーわからんわ」と言ってから、李亜は気取った服装の女に目を向けた。
「李亜ちゃん」と名前を呼ばれ、目を見開いた彼女は女に「えっ? あたしの事、知ってます?」と訝しむ。
「なんて言うたらええんやろね。うちらはにゃくいちさんで、同じ境遇やさかい、よぉ知ってますよってに」と女が答えると
「はぁ? にゃくいちさんってなんなんです? 船でも誰も教えてくれへんし。ってか、お祭祀さん!?」と言って、彼女は後ろにいる老人を二度見した。
「こんにちわ」と老人は言い、一礼をするが、李亜は瞼をひきつらせ、困惑を顔いっぱいに漂わせて黙りこむ。
「せやで。お祭祀さんや。あなたの知っている世界とこっちの世界の真ん中におるんが、祭祀王さんで、うちらは、ほんまはこっち側なんや。って言うてもわかりにくいか」女が説明をしたが、李亜は憮然とした顔をしている。一方、女に紹介された老人は愛想笑いをする訳でもなく泰然と二人を眺めていた。
「どういうこと? こっちってなんです?」
「カミ様です」はっきりとした口調で老人が言う。
「はぁ?」と李亜。
「あなた方は、この世の現象の全てです」と老人は答え、そして再び一礼をする。
「は? 意味わからんし」
「まぁ、そうやろね。意味わからんよってに、そう言いたくなるわな」と女は言い、それから馬面の久慈に目配せをする。彼は頷くと、音楽も歓声も止み、辺りが急に静まり返った。暗示をかけるような群衆や、女達の眼差しが李亜を捉え、彼女は更に困惑した。
「ご用意できました」と群青の制服を着た男の一人が言うと、いつの間にか、大まな板が用意されていた。そして、右手に庖丁、左手にまな箸を持った烏帽子をかぶり、狩衣を纏った男が座っている。
「なんです? 一体、なんなんです?」と李亜が声に出すと「式庖丁やよってに」と女が大声で言った。
「しき? 何です?」と李亜が聞き返す。
「まぁ、ご覧ください」と祭祀王が言う。すると、馬面の久慈が、群衆に向かって声を上げた。
「にゃくいち様にお出しする供物をご用意いたしました!」
何人かの男達が、用意してきた子鯨を担いで大まな板の上に乗せる。そして、狩衣の男は、まな箸で鯨を抑え、儀式めいた舞をしながら右手の包丁でそれ捌いていくと、生臭い血の匂いが辺りを漂う。
「なに?」
子鯨の眼球が動き、李亜を捉える。まだ生きているそれは、堪忍した色を目に浮かべながら、鋭利な刃によって解体されていく。
狩衣の男が心臓を取り出した時にも、子鯨は絶命することなく、李亜に空虚な目玉を向けていた。脈打っている心臓は、凄艶な大理石の斑紋のようで、生命の象徴に見える。
「え? なに? なんなん?」
久慈の族長が心臓を掲げると、群衆からは歓喜の声があがる。
「これは何ですの?」と李亜が尋ねると「見ての通り、お供え物やよってに」と女は言い、彼女は一礼をする。それは恭しく清らかで美しい動作。そして彼女は前に進んで、狩衣の男によって薄く切り取られた心臓を指で掴み、口に運んだ。
「あなたも食べや」と懐紙で手を拭いている女に言われ、李亜は「え?」と言ってから、祭祀王を見る。
「どうぞ、お召し上がりください」と彼は言ったが、彼女は躊躇した。
「いや、でも……」
「これはうちらへの供物やよってに、食べなしゃあないんやで」周囲の空気が底潮のように冷え冷えし、彼女がそれを食べない事には何も始まらない圧力が感ぜられた。そして、いつの間にか馬面の久慈が彼女の後ろに立って、手を彼女の両肩に置くと「お召し上がりください!」と彼もそう言った。
「いやや!」と言って彼女は逃げ出そうとしたが、群青の制服を着た男達に取り押さえられた。
「放して! やめてぇな! いややぁ!」と叫び、抵抗をする彼女に、馬面の久慈は優しく言った。
「さぁ、お召し上がりください。これはあなたの為のお供え物です」
「なんでうちなん? なんでうちにこんなん食べさせるん? やめてぇ! いやや! 放して!」と叫び、暴れる李亜の口に、女は心臓を一切れ押し込んだ。彼女はそれを吐き出すが、すぐに群青の制服を着た男に顔を抑えられて、砂がついたそれを口に放り込まれる。そして、その行為を何度か繰り返し、李亜が嚥下してから女が「もうよろしいでっしゃろ? お水を飲ましたって」と祭祀王に訊くと、彼は「はい」と言う。そして、イナンナが指を鳴らすと、どこからともなく屈強な男達が現れ、暴れる彼女の腕を掴み強引に地面に押さえつけると、蟠桃水を飲ませ、顔に麻袋をかぶせた。くぐもった悲鳴を上げる李亜だが、その声も次第に小さくなり、ついには聞こえなくなった。
「では、これで失礼しますよってに」と女が言うと「本日は、本当にありがとうございました。イナンナ様」祭祀王と久慈が続け様に一礼し、それから群衆に向かって「これにてお開きでございます」と馬面の久慈が声を張り上げた。
祭祀王は恭しくイナンナに一礼し「ワンスェイ」と大きな声で言う。
「ワンスェイ!」
「ワンスェイ!」
「ワンスェイ!」と群集も合唱をするかのように三唱し、唱え終わると群衆は散り散りに去っていく。
「お車まで案内いたしますので」と久慈が言った。
「おおきに」とイナンナは言い、彼女は群青の制服を着た男に囲まれながら歩いて行く。その後ろには李亜が連れられていた。彼女は息を吹き返し、抵抗をしているようで、男達の拘束から逃れようともがいていた。
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一日延ばしは時の盗人、明日は明日……
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