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にゃくいちさん 十四話

 大きさの違うそれぞれの石に、黒い染みがべっとり付いていた。畳んだ手ぬぐいを懐から取り出し、李亜は汗ばんだ額を拭う。彼女は冷めたい唾をグッと飲み込んで、狐の面を被った女の体を見下ろした。
「にゃくいちさんやで」と、明妃に似た女児が笑いながらそう言った。
 倒れている女の髪の毛にも赤黒い血がべっとりついていて、ぱっくりと開いた傷からは白い骨が見えている。
「死んどるん?」李亜がそう言うと、もう一人の女児が「死んではるわ」と言った。彼女は黒目がちな瞳をしており、生気があまりにも強いので、李亜よりも年上に見える。
「殺したで」
 黒目の女児がそう言い終わった時、甲高い笑い声がどこからか聞こえてきた。その声に反応して女児たちは互いの顔を見合わせる。
「婆さんやな」と黒目の女児が言うと、また甲高い声が聞こえた。
「死にはったようですね」その声のする方に三人が振り向くと、そこには子供の背丈程の影が現れた。おかっぱ頭のその下の顔は老婆で、口角から覗く犬歯をむき出しにしている。
「誰やあれ」李亜はそう言ったが、すぐに黒目の女児は肩をすくめて「アヌ婆さんとこのババァや」と言った。
「この女の人やったら死んどるで」と明妃に似た女児が、老婆にそう告げる。
「そうみたいですね」と老婆は言って、それから李亜を見上げたが、すぐに視線を逸らし「これでええんです」と言った。「どういうこと?」李亜が問うと、彼女は短い前歯をキラリと見せて笑った。
「持って帰ってきはったんです」と老婆が言うと、明妃に似た女児もくすくすと笑う。
「わからんわ」と李亜が言うと、老婆は「よぉしゃべる娘ですねぇ」と言い、そして黒目の女児のほうを見た。「この子ですか? 次に帰ってきはるんは」と老婆が言い、黒目の女児は頷く。そして、女児は李亜のほうを向き「このにゃくいちさんはアヌ婆さんのもんや」と言った。
「どういうこと?」と李亜はまた問うたが、誰も何も答えず、黒目の女児が「ほな」と言って老婆とともにその場から忽然と消えた。
「なんやねん。アヌ婆さんて」と誰に言うでもなく李亜は呟く。明妃に似た女児が頷き「李亜ちゃん。気いつけてぇな」と言った。
 李亜が「え? なに?」そう言うと、明妃に似た女児は「李亜ちゃんも、あたしもにゃくいちさんなんやで」と言い、そして甲高い声で笑った。「なに言うてんねん」と李亜が言うと、女児はまた甲高い声で笑い「ほな、また」と言って、やはりその場から消えた。明妃に似た女児が消えると同時に、李亜の意識もそこで途絶えた。

「なんやねん」と呟いたところで李亜は目覚めた。夢から覚めたことを認識した途端、自分がどこにいるのかをすぐに思い出すことができたようだ。シルクのシーツ、広いベッド。客船の最上階の部屋で李亜は目覚めた。
「にゃくいちさん」と、その不可解な響きの言葉を確認するように独り言ち、スマートフォンを取り出すと時間を確認した。
 上半身を起こし「夢や」と李亜は言い、そしてベッドから下りる。素足のまま窓際まで歩き、カーテンの隙間から外を覗くと海が見えた。空はまだ暗いが、あと一時間もすれば日の出の時間だ。
 李亜は窓を少しだけ開けると、潮の香りがする風が部屋に吹き込み、レースのカーテンを揺らす。窓の外の、まだ暗い紺色の海面のかなり先には、街の灯りがポツポツ見える。その景色を眺めながら李亜は腕を伸ばし、自分の頭上でそれらを交差させ「んんっ」とストレッチをした。そして再びスマートフォンを手に取った。しかしながら、彼女は怪訝な顔をして、すぐにそれを放り出したのだ。見知らぬ相手から不可解なメッセージがあったのかもしれない。
 それから李亜はバスルームに入り、シャワーを浴びた。熱い湯に肌を打たれ、夢を反芻したのか「にゃくいちさんってなんやねん」と李亜はまた呟いた。
 シャワーを終え、新しいバスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで拭いていると、自分が着ていた黒のスウエットと下着が無くなっている事に李亜は気がついた。しかしながら、その事を気に留めもせず、頭にタオルを巻いてリビングルームに足を踏み入れる。
 ソファに腰掛けてテレビをつけるが、館内放送以外は何も映らない。飲み物が欲しくなったのか、彼女は内線電話を持ち上げる。
「すみません。朝早くから。あの、ミネラルウォーターをいただけますか」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」と電話口の男が答え、それから二分後にバトラーの久慈が部屋に現れた。
「おはようございます」そう言って久慈はカートからミネラルウォーターを取りだし、ソファの前の低いテーブルに置く。
「おはようございます。ありがとうございます」と言って李亜は一礼し、そしてミネラルウォーターのキャップをひねった。冷たい水が喉を通り胃に落ちる。
「あの……昨日はありがとうございました。夕食美味しかったです。それに、あんなショーがあるなんて思っても見ませんでした」と李亜が言うと久慈は、口角を斜め上に引っ張って、何もかも心得ているという風な笑みを浮かべて「にゃくいちさんに喜んでいただいて光栄です」と言った。
「は? いま、にゃくいちさんて言いました?」と李亜は問うたが、久慈は何も答えず、ただ笑っているだけ。その微笑みに気圧されたのか、それとも質問する事に疲れたのか、李亜はミネラルウォーターを一気に飲み干して「今、あたしの事、にゃくいちさんって言いましたよね?」と李亜は、今度は噛みつくように訊ねた。
「えぇ。東様はにゃくいちさんです」
「いやいや。だから、それ、なんなんです? にゃくいちさんって」久慈は困ったように唸って「東様、どうかされましたか? にゃくいちさんはにゃくいちさんでございます」と答えになっていない返答をする。
「いや。せやから、そのにゃくいちさんってなんです? あたし、最近、よくその言葉を聞くんですけど、なんですの、それ?」
「にゃくいちさんでございます」と、久慈はこれ以上の説明はできないと言わんばかりに短く言い「朝食をご用意いたします」と言うと、そそくさと立ち去った。
「ちょ、待ってや。あと、春松の事はどうなっとんねん」と李亜は立ち上がったが、久慈が振り返る事はなかった。

 ドアをノックする音が再び聞こえ「はい」と李亜が答えると、昨夜の給仕が入ってきた。
「おはようございます」二人は白いシャツを着込み、サロンエプロンを着用している。
「カプチーノとビスケットをお持ちいたしました」とロングヘアーの女が言い、ショートカットの女は、カートをローテーブルの近くに止める。
「あのー。にゃくいちさんってなんですか?」と李亜が女性二人に聞いたが、二人は顔を見合わせて笑うだけで何も答えない。そしてカプチーノをテーブルの上に置き、ビスケットの入った小さな籠をその横に並べた。
「いや、あの……」李亜がそう言うと、二人はまた顔を見合わせ、ショートカットの女が「二本木ではお迎えがありますよ」と言った。
「お迎え?  お迎えってなんですの?」と李亜が言うと、ショートカットの女は「にゃくいちさんですから」と言う。
「いや。だから……」と言いながら李亜は髪をかきむしり、そして短いため息をついてから、カプチーノを一口飲んだ。その苦みで彼女は少し落ち着きを取り戻す。
「ほんで、にゃくいちさんって何なん?」と再び訊くも、二人はテーブルにミネラルウォーターのボトルを置き、にっこりと微笑みを返すだけで何も答えない。
「ほんま、一体どういうつもりやねん」と、声を尖らせる。
「東様がお召しになっていましたお洋服は、洗濯してクローゼットに置いております」と、意思疎通のとれない事をショートカットの女は口にする。
「いや、そんな話はええねん。にゃくいちさんってなんやねん! あと、春松のことはどないやねん!」と癇癪が走ったような大声を李亜は出してしまった。
「すみません」
「えっ?」
 震えた声で謝るショートカットの女に、李亜はたじろいだ。李亜は、髪の毛の上からこめかみの所を両手で押えた。そして重い空気の寄せ来るままに「もうええわ」と言ったのだった。


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中島亮 一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!