にゃくいちさん 一話
幹線道路の喧騒とはよそに、諦らめかけた静けさが、アパートの廊下の片隅に転がっていた。戸を開ける時、李亜はため息をつく。何かしらの気力も、そのため息と同時に出て、冷淡が彼女の脳裏に訪れた。
出かける時に、電気を消さないのはルームメイトの明妃の悪い癖。その事に李亜はうんざりしているのだ。
室内には軽く酸っぱい匂いが漂っている。テーブルの上には、ビールの空き缶が幾つも置かれ、その周りには食べかけのピザや、他の食べ物の乾いた皿が散乱している。
「またや……」鬱屈した苛立ちで顔を歪めた李亜は、テーブルの上にあった空き缶を手に取り、残っていた液体をシンクに流す。
同郷の明妃と一緒に住み始めた当初は、李亜はその生活を楽しむ事ができた。しかし、今は違う。片づけをするのはいつも李亜で、明妃はただ、酒と食べ物を買ってきて、それを散らかすだけ。アパートで一緒に住み始めて、明妃の悪い所ばかりが強調されてきたようだ。好き嫌いの問題ではなく、生理的な嫌悪に近いのかもしれない。
明妃は悪びれる様子がない。彼女のその態度は、李亜の神経を逆撫でする。口に出して彼女は注意もするが、状況は全く変わらない。
生活のリズムが違う事も、苛立ちを産む原因かもしれない。李亜は朝からパスタ店で働いているので早起きだが、明妃は夜職で、帰ってくるのは明け方。そんな時間に人を連れて帰ってくる事もあるので、李亜にしてみれば堪ったものではないのだろう。明妃は、今が楽しければそれでいいのだ。人の機嫌などお構いなしで、自分のやりたい事だけをやる。明妃の勝手は目に余るほどで、李亜が部屋にいるのを知っているのに、男を連れて帰ってきて、憚らず甲高い声で喘ぐ事もしばしばある。李亜の心の中にある、一人の女に対する嫌悪は、それまでの友情では対抗できない臨界点に到達していた。とはいえ、明妃の事を理解できるのは、自分しかいないという自覚は、彼女にはあるようだ。
「もう、ええわ」李亜はそう呟く。明妃の酒と食べ物で汚れたテーブルを片付けながら、その呟きが、彼女の心にある何かを断ち切ったようだ。一通り片付けると、彼女は、脱衣場で複数のパスタソースの匂いが染み付いた服を乱暴に脱ぎ捨て、風呂場に入る。湯船にゆっくり浸かるのが李亜の日課だが、早く体を洗いたかったのか、シャワーの栓を捻り、温水を頭から浴びる。「あぁ」と思わず声が洩れ、苛立ちを発散させるように李亜はさらに深いため息を吐く。その音はシャワーの水音で掻き消された。
「ねぇ」
すりガラスの向こうから掠れた声がした。
「ねぇ」
どこか幼い響き。明妃の声なのかどうかという事に自信がなくなったのか、李亜はシャワーを緩める。
「ねぇってば」
すりガラスに影がぼんやりと映ったような気がしたのか、李亜はシャワーを止めた。
「なに?」苛立ちを隠そうともしない声で李亜は影に応えたが、返事はない。「何やの?」と、今度は少し語気を荒げて言ったが、やはり返事はなかった。彼女はもう一度その輪郭を見ると、それは小さな子供のようだった。
「何よ」眉根をすこし痙攣させながら、むずかしい顔で戸を開けるが、誰もいない。李亜が戸を閉めようとした時、再び「ねぇ」と声がした。薄く漂う湯気が浴室から外に拡がる。冷たい空気が彼女の濡れた肌を包み込んで、鳥肌が立ったようだ。
片付けたばかりのリビングダイニングで、何かが動いたような気配が感じられ、彼女はバスタオルを胸に抱きしめながら、慎重に足を踏み出した。床板が微かに軋み、その音が静寂を裂く。リビングに近づくにつれ、彼女は息を殺し、ドアの隙間からそっと部屋の中を覗き込む。
暗闇の中に浮かび上がるシルエットが、彼女の視界に映った。何者かがソファに腰掛け、じっとこちらを見ている。冷たい汗がにじみ出し、全身が硬直する。逃げ出したいという衝動からか、彼女は一歩後ずさりする。しかし、その瞬間、シルエットがゆっくりと立ち上がった。
「どうしたん?」と、聞き覚えのある明妃の声。李亜は肩の力を抜き、大きく息を吐く。「ちょ、なんや……もう……。明妃、おったんか」
「え? あぁ」そう言いながら彼女は口角をつり上げて「ってか、びっくりさせた?」と肩をすくめた。
「びっくりしたに決まってるやんか。今日は仕事ちゃうの?」
「あぁ、ちょっとね」と明妃は曖昧な答えを返す。李亜は彼女の曖昧な答えに少し不満そうな表情を浮かべながらも、それ以上追及する事はしなかった。ただ、明妃が何か隠しているような雰囲気を感じ取りながら、李亜は浴室に戻りバスタオルで体を拭き始める。彼女の背後から、明妃が冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す音が聞こえた。
「ちょ、また飲むの?」李亜は自分の不満をぶつけようと思ったのか、大きな声で言った。
「うん。あ、李亜も飲む?」明妃は李亜の不機嫌など一切感じ取っていないのか、あっけらかんと聞いてきた。
「いや……ええわ」と、李亜は素っ気なく答え「それよりさ、さっきの声、何やったん? 」と尋ねる。
「え? なに? 何か聞こえた?」
「うん。子供の声みたいな」
「え? 私、知らんで」明妃はビールを持ったまま、リビングとダイニングを隔てる戸口で立ち止まって「そんな事よりもな、李亜に言わなあかん事あんねん」と、何も気にしていないような声で明妃は話題を変える。
「え? 何?」李亜は濡れた髪にドライヤーを当てながら、怪訝な表情を浮かべた。
「いや、大したことやないんやけど」と、明妃はリビングの灯りを点けてから話を続けた。「私さ、仕事辞めるわ。あの店もな、昨日で最後」そう言ってビールを大きく一口飲んだ。「また?」李亜はドライヤーを切って手を止めた。明妃は、先月からその店で働き始めたばかりだった。
「辞めてどうすんの? 」
「ちょっとね」明妃は言葉を濁し、再びビールを一口飲んだ。そして、大きく息を吐くと「あ、そうや」と言って、李亜に向き直る。
「何?」と、ドライヤーのコードを巻き取りながら、李亜が聞く。
「あのさ」明妃は何か言いかけながらも、言葉を詰まらせた。
「……いや、やっぱええわ」と明妃はビールをテーブルに置く。そして、そのままソファに腰掛けた。
李亜は、明妃を突き放すような事はしなかった。髪を乾かすのを中断し、わざわざ彼女の傍に座る。不満があったとしても、李亜は彼女の事を気にかけている。
「あんな……」と、明妃は切り出した。そして再びビールを口に含むと、そのまま考え込むように押し黙る。
「……うん」と、李亜はまだ乾いていない髪の毛に手を当てて、明妃の顔を見るが、彼女はソファの背もたれに体をあずけ天井を見上げたままだ。しばらく沈黙が続いた後で「やっぱ、あたしも飲むわ」と李亜は言い冷蔵庫から缶ビールを取り出してきた。
「え? あぁ」と明妃は驚いたような表情を浮かべ「なんか、ごめん」と言った。李亜は缶を開け、喉を鳴らして一気に半分ほど飲んだ。そして大きく息を吐くと、「で?」と話の続きを促した。
「いや……あのな……」と明妃は少し間を置いてから「昨日な、久慈が店に来たんや」と言った。
「久慈ってあの久慈?」と李亜は明妃の顔を覗き込む。「そう」と明妃は頷くが、すぐに目を伏せた。
「それで?」と、李亜は明妃の表情を窺いながら問いかける。
「うん……」明妃はそこで言葉を詰まらせた。彼女はいつもの調子ではない。楽天的で呑気なところがありながら、刺激や変化によって、明妃の情緒は変り易い。
「なんやねん。何があったんや?」李亜は、今度は苛立ちを隠さずに言う。彼女は、タオルを首にかけたままビールを口に運んで、大きく音を立ててテーブルに缶を置いた。その音が、その場に漂う曖昧な空気を裂いたように感じられた。
「あのな……やっぱり、あたしら捕まんのかな」
「はぁ?」と李亜は素っ頓狂な声を上げた。そして、笑いながら「なんで? なんでそうなるん?」と言う。「いや……別に」明妃は李亜の笑い声に、少し安心したのか、ようやく視線を彼女に向ける。
「あいつ、あたしらの事聞いてきたんや」
「何て?」李亜は身を乗り出した。
「なんか『付き合っている男はいますか?』って」
「え? 何でそんな事」と李亜は体を固くして明妃を見る。
「ごめん。李亜が春松と付き合ってるの言うてもたわ」
李亜はビールを一口飲むと「もうええわ。何も気にせんでええ。仕事はまた探したらええやん」と言う。その言葉を聞いた瞬間、明妃はホッとしたのか笑みをこぼした。
「せやけどな」と、彼女はビールをテーブルに置いた。「あんた、家の掃除はせぇよ」その表情には不安や苛立ちなどが見て取れるのだが、どこか達観したような眼差しでもある。彼女は小さなため息を吐くと、残りのビールを飲み干して、浴室に戻っていった。
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一日延ばしは時の盗人、明日は明日……
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