にゃくいちさん 二話
風が花弁を掃き去って、屋内の舗道に転がり込んでくる。舗道を歩くのは、家族か友達か恋人を携えた旅行者ばかり。彼等のさざめきは混じりあい、そのひとつひとつの音は、本来の意味を失って風物詩のようにに流れていく。その不明瞭なこだまのようなさざめきを紐解いてみると、異国の言葉がほとんどで、いつの間にかという表現はどうも乱暴ではあるが、本当にいつの間にか、外国語のさざめきがこの舗道を支配するようになっていた。
「今日、お祭祀さんが嘉久に来るらしいよ」
客の出入りも少くなり、ほんの形式だけの談話未満といった感じで、店長が愛想笑いで李亜に告げた。彼は有難い程の親切者であるが、一緒にいると、憂鬱なほどその存在が不快になってくるタイプの人物だ。
「お祭祀さんねぇ」と彼女は適当に肯くような相槌をした。お祭祀さんとは国の象徴で、その姿は国民の誰もが、一度は映像や写真で見た事がある。
「中央口から降りると混乱を招くから、八条口から出てくるんだって。この前を通るかもね」
「どっちにしろ、人、多いんちゃいます?」
「そうだね」
脂っこい物を好んで食べていそうな、プリプリした頬の店長は窓を見続けている。
嘉久は古都で、古い町並みが残る都市。海外からの観光客が多いのは、そういう歴史がある事と、為替による恩恵を受けているからなのだろう。嘉久には国際線のある飛行場がないので、他の都市から旅行者は主に新幹線で移動してくる。
李亜が勤めているパスタラビスタは嘉久駅八条口の舗道に面した飲食店。呼び込みなどしなくとも、旅行者がひっきりなしに訪れる。舗道も、店内も外国人が多くなった。
豆でも挽き立てるような声がしたかと思うと、群青の制服を着た男達が通行人を規制した。硝子戸の向こうに店長は首を伸ばしたが、人々の背中しか見えないようだ。李亜も何となく見当が付いているのだろう。外国人旅行者も足を止めて、何の騒ぎなのかと足を止める。
「お祭祀さんですか?」
「だろうね」大袈裟な警備に、野次馬が群がるのは想像に難くない。
「あっ」店長は首を伸ばして、人の列の切れ目にその姿を確認した。李亜の眼にも紺色のスーツを着たお祭祀さんが映った。そして、彼は一度立ち止まって、挨拶するかのように頭を垂れたのだ。「え? 今、お祭祀さん、東さんに頭下げなかった?」店長は李亜に目配せした。彼女は白けている訳ではないが「たまたまちゃいますか」と言って皿を洗い始めた。
しばらくしてから、群青の制服を着た男達が規制を解除すると、群集は雪崩をうって店の前を通り過ぎて行った。
「ちょっと俺、見に行ってくる」と店長は慌ただしく出ていった。李亜は食器を拭きながら窓の外を見る。舗道を歩く客は相変わらず多かったが、その中に幼い子供を見つけた。
「どうしたんですか?」
外を見ていた李亜は「何でもない」と言おうとしたのだろう。しかしながら、思い直したように「子供が一人でウロウロしている」とアルバイトの高校生にそう答えた。
「え? 迷子ですか?」と、彼女は女子高生に尋ねられたが、その瞬間に新しい来客があり「いらっしゃいませ」という言葉で迷子の件は有耶無耶になる。来店したのは白人の家族連れで「いらっしゃいませ」の意味などわかっていないかもしれないが、李亜は反射的にそう口にして、空いている席に彼らを案内した。
「子供いませんでしたよ」派手な見た目に反して、どこか生真面目な女子高生は、迷子を見過ごしたくなかったのだろう。客の誘導が終わった李亜に、こっそりと耳打ちした。
「え? あぁごめん。私の気のせいやったかも」
それほど歳も離れておらず、同じアルバイトの李亜だが、店長以外に社員がいないこの店の中では、彼女に任される仕事が多い。ホールのバイトのシフトを取りまとめるのは李亜だ。
「そうですか」そう言って女子高生は、出ていく客の会計をする為にレジに向かい、李亜は、その客がいたテーブルを片付ける。そこにはパスタのプレートが二枚と、小さなプレートが一枚残っていた。それは、子供用の皿なので、迷子の事が頭によぎったのか、李亜は外を見た。子供はいなかったが、外を歩いている男の顔を見て、彼女は思わず「あっ」と声を漏らした。それは彼女の記憶にある姿と同じで、見間違えるような人物ではない。その男は、李亜を見る事無く通り過ぎていった。その後に店長が戻ってきて「東さん休憩に行ってきてね。お祭祀さん見られなかった」と言う。
「……」彼女は無言で頷いてキッチンに入り、シンクに両手をついた。そして大きく息を吐くと「何なん? あいつ」と言ってサロンエプロンを外した。
「え? どうしたの?」店長は、自分に向けられた言葉だと勘違いして、眉を垂れ下げる。
「……いえ」李亜はそう答え「店長すみません。ちょっと体調が悪くなってしまって……」と頭を下げた。店長は「え? そうなの?」と言ってから「じゃあ仕方ないね。今日は帰ったほうがいいよ」と言った。どことなく抜けている性格の彼は、夕方以降の店の心配も、李亜の事を咎める事もせず能天気に答えた。
李亜はキッチンの流し台で手を洗うと「すんません」とすぐに店を出て行った。
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