にゃくいちさん 三話
昼から夕方にかけての時間帯は、大きなスーツケースを転がす旅行者が駅ビルでは目立つ。李亜は、何かの塊がつっかえたように呼吸が切迫し、肩で息をするようになる。その切ない塊が胸を下って、それが通り過ぎると、李亜は人の多い舗道を歩き始めた。何が彼女を駆るのかというと、それは過去である。過ぎ去った事だが、それでも未だに彼女にまとわりついて離れない記憶の残滓。
「あの……すみません」
李亜が振り向くと、薄い眉の下に、鯨のような眼が二つ並んで、肌は白く、そして馬のような長い顔をした男が立っていた。仕立てのいいスーツを着ているが、どこか胡散臭い雰囲気を醸し出している。男は彼女を待ち伏せていたようで、気味の悪い人懐っこい笑顔をみせた。
「お久しぶりです。東李亜さん」
「久慈……」
「ちょっとお話がしたいと思いましてね。今、いいですか?」と言って彼は再び笑ったが、それはどこか不純物を含んだような笑い方だった。男から香水の匂いがする。
「あの、あたし、仕事中やし」嘘を言って李亜は立ち去ろうとしたが「いや、すぐに終わりますよ」と久慈は言って、彼女の行く手を遮った。「何も話す事はないです」と、李亜は冷たく答えた。
「そうですか……では、これを」と言って彼は大袈裟な動作で、鞄から何かを取り出す。
「そろそろ二本木にお戻りになる頃かと思いましてね」と封筒を手渡したが、李亜はそれを受け取らない。
「意外な事ですが。あなたが先なんです」と意味の分からない事を口にした。
「なんですか? 何の話?」
「おや? お話し、してくれるのですね」
「うっさい」と李亜は言葉を吐き捨て、雑踏に戻っていこうとする。その際に、馬面の久慈は、強引に李亜に封筒を渡してきた。彼女は突き返す事ができなくて、そのまま受け取る形になってしまった。そして、彼女は逃げるように駅ビルのトイレに入った。化粧直しをする訳でもなければ、用を足す訳でもない。ただ、その場を離れたかったのだ。彼女は鏡の中の自分を見つめ、そして、小さな溜息をつく。
「大丈夫や」と彼女は自分に言い聞かせるようにして肯いた。そして鏡に背中を向けて、足早にトイレを出て行く。彼女の表情は強張っていたが、それでも姿勢は良く、毅然としていた。
空には雲が煙っており、パラッと降っては止み、また少し降るというような辛気臭い雨が続いている。嘉久は平地で雲が溜まりやすい。そんな象の腹のような灰色の空を一瞥して、李亜は嘉久駅の北側を歩いている。すぐ目に入ってくるのは巨大な朱の鳥居で、それは天に向かって広げた脚のようでもある。彼女の足並みは一定のリズムを刻んでおり、ずんずんと歩みを進めていた。
堅牢な塔のある寺院の正門は、今や観光都市の玄関としての役割を果たしており、それは古の都の民が、外貨の獲得を準備をしていたようにも捉えられる。嘉久を訪れる者が、始めに立ち寄る建造物の周囲は、清潔な空気に満ちていた。
赤信号で立ち止まると、李亜は久慈に渡された封筒を開封した。
「何やねん」
中には二本木行きの船のチケットが二枚入っていた。「どういう事?」李亜は苛立ち、そして胸の奥に燻るものを感じたのかもしれない。
李亜がいつもの場所に到着すると、黒色のコンパクトカーが他の車の妨げにならないように端に停めてハザードを点滅させていた。
「春松ごめんな。急に電話して」
「かまわないよ。俺、今日休みだったし」髪を短く刈り込んだ、李亜よりも少し年上の男が短く返答する。
「俺、腹減ってるし、何か食おう」
「せやな」李亜は笑った。
「肉? それとも魚?」男はアクセルを踏みながら尋ねる。
「魚!」と李亜は元気に答えた。そして、車は走りだし、駅前を抜ける。それなりに交通量のある道路を、コンパクトカーは器用にすり抜けて行く。李亜はどこか上の空で、窓の外を流れていく風景をぼんやり見ている。
「どうした? 何かあった? 早退したんだよな」運転しながら春松が尋ねるので「え? いや……ちょっとな」と答えたが彼女はそれ以上語ろうとはしない。「体調悪い?」春松はもう一度尋ねる。彼は前を注視したままだったが、ちらりと李亜の様子を伺うような視線を送る。「……いや」と彼女は言葉を濁した。そして「あのな……春松」と言ったが、その後の言葉が続かなかったようだ。
「ん?」春松は短く言う。しかしそれは続きを促すようなニュアンスではない。
「あたしな、春松に言ってへん事があんねん」彼女は窓の外を見ながら言った。そして「うん」と、運転しながら春松は相槌を打つ。その続きを促す言葉も短いものだった。
「あたし、二本木の出身や言うとったやろ?」
「あぁ、言ってたね」春松は即座に答える。
「それでな……」と李亜は言うが、その先の言葉が出てこない。彼女は暗い表情をしていた。そして何かを思い出すように拳を強く握ったようだ。
「あたし……明妃とあたしは施設で育ったんや」彼女が何かを言おうとした時、唐突に携帯電話の着信音が響いた。
「出なよ」と春松は促した。李亜は躊躇っていたが「いいよ」と彼は言った。彼女は携帯電話の画面に目をやると、電話の主の名前を確認したようで、小さく肯いた。そして着信ボタンを押した。
「もしもし?」と彼女は電話に出た。
「え? そうなん」
「大丈夫?」
「ええねんけど、気ぃつけてな。そや。久慈がパスタラビスタにも来たわ」
「うん。そうや。また、ゆっくり話すし。今、春松の車やし」
「え? ほっといてや。うん。ほま、また」
電話を終えた李亜は春松の方を向いて「明妃からやわ。あの子、また店辞めてん」と言った。「そっか」と春松は、聞きたい事を我慢しているような素振りをみせずに短く言う。
「さっきの話やねんけどな、あたしら施設で育ったんよ」と彼女は続けた。「そんで、あたしら……」
「うん」春松はただ一言そう言った。その短い言葉は、これから彼女が吐露するであろう言葉を待ち構えているようでもあった。
「施設って、親がおらん子らが入るとこなんやけど。あたしと明妃はそこで育ったんやわ」彼女は淡々と語る。春松はただ前を見て運転しているだけだ。「そう」春松は短く言う。
「その施設が、ちょっとおかしいとこでな、いや、気がついたんは嘉久に来てからやけど、施設には女の子しかおらへんねん」
「うん」
「でな、あたしと明妃が十二才の時、先生に言われてん『そろそろ体も成熟してくる頃だから、一度ちゃんと検査しましょ』って……先生いうんは、久慈って名前のおっさんや」
「うん」
「あたしら、何の事かわからんかったんやけど……」と李亜は俯いたまま、自分の膝元を見ているように答えた。
「下着を脱げって言われてな……」
「うん」春松はただ相槌をうつ。「あたしと明妃は『何するんやろ?』って思っていたら、先生もな、服脱いでな。で……」彼女はそこで言葉を切った。春松は前を向いたまま「うん」と言っただけだった。
「でもな、途中でおかしいと思うやん? あたしと明妃は、そいつを突き飛ばして逃げたんやけど、すぐに施設の職員が来てな」
「うん」と春松は言った。彼は運転に集中しているようにも見えたし、何か別の事を考えているようにも見える。
「あたしら、そいつらに『何するんですか?』って聞いたんや。そしたら『検査です。場合によっては、嘉久に行く事もあります』って」
「うん」春松はただ相槌をうつ。
「それで、あたしらはな、施設から逃げ出したんや。けどな、すぐに捕まってな……」李亜の声は震えていた。そして彼女の頬を涙が伝ったが、それは前を見ている春松の視界に入る事はなかった。「明妃はそういう事を忘れる為に、色んな男に抱かれとるんかもしれん」
「そっか」と彼は言って、車を道路脇に停めた。彼女の涙は次第に頬を流れ落ちていき、顎から落ちる時には、それらは既に冷たくなっていた。
「こっち見て」と春松は李亜の方に顔を真っ直ぐ向けた。彼女は涙で濡れた顔のまま、春松の顔を見る。
「俺はさ、李亜の味方だから」
「……」
李亜は涙で濡れた顔で笑ったが、それはどこか寂しそうでもあった。「うん」春松はそう頷いて、彼女の頭を撫で、ティッシュを渡した。
「李亜。とりあえず、なんか食おう」と春松は言って、車を発進させ「全てを言わなくてもいいよ。言いたくなったらいつでも聞くから」と言った。
「ありがと」李亜は春松から渡されたティッシュで涙を拭いた。
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