にゃくいちさん 四話
「俺さ、スマホを落としてさ、画面割れちゃったんだ」席に着いて注文をした後、春松は気分を変える為なのか、李亜にスマートフォンを見せた。それは蜘蛛の巣のようなヒビが広がっていて、画面が見えづらくなっている。
「なにしとんねん。なにしとって落としたん?」二人は何となく回転寿司のチェーン店に入り、注文した皿が来るのを待っている。二人は、車中の重い空気を忘れる為に明るい調子で話す。
「いや。朝起きたら、落ちてた」
「なんやそれ。でも、そういう事ありそうやな」李亜は朱い唇で柔和な同調をした。
「それに最近さ、電話してたら電波悪くて圏外になるんだよ。なんか調子悪くてさ」
「ほな、変えたらええやん」
「うん。そうしよかなって思う。スマホってさ、機種変えても前のデータ引き継げるだろ?」春松は、席にある蛇口に湯飲みをあてて、ザザッと湯を入れて緑茶を作る。
「それがどしたん?」
「いや。データが本体で、機械はただの入れ物なんじゃないかなって思うんだ」
「なんやそれ。でも、何となくわかるような気するわ」李亜は注文したアジの寿司をレーンから取りながら答えた。
「そう。データが本体でさ、機械はただの入れ物。もしかしたら、人間もそうじゃねーかなって」
「ほな、人間の本体はなに?」
「欲望」
「なんやねんそれ!」李亜は笑いながら言う。
「いやさ、よくわかんねーけど、欲望って、絶対に親から子供とかに受け継がれるだろ? 俺、地元出て、こっち来た時にさ、何があるかわかんなくて、とにかく何かと闘わなきゃいけないのかなって思ってたんだよ。それって、生きる欲望みたいなもんじゃない? それで結局、人間は欲望の入れ物にすぎねーかなって」春松は嘉久で大手のゼネコンの下請けで働きながら、建築士の資格を取るために勉強もしている。
「なんか哲学的やな」春松が注文していた鮪の寿司が届いた。
「そういえば春松、日垣ってどんなとこなん?」李亜がアジの寿司を口に放り込んでから訊いた。
「なんもねーとこだよ」
「そんな事ないやろ?」
「いや、本当だって。でかい湖があるだけ。俺、嘉久に来た時、驚いたもん。人多いし、電車の乗り換えとか全然わかんねーし」春松は笑った。「でもさ。俺、嘉久に来て良かったよ」
「なんで?」
「だって、こんな可愛い子と知り合えたし」
「何言うてんの? アホちゃう」李亜はそう言って笑う。「いや。マジで」春松は真面目な表情で答える。
「俺、李亜に会えてよかった」
「なに? どしたん? 急に」彼女は、春松の視線をかわしながら笑った。
「いや。マジで」
「ほな、なんで、あたしと付き合ったん?」悟られたくない照れを隠すかのように、今度は彼の目を見て言った。
「歩く速さが一緒だったから」
「なんや、それ」
「もっと他にもあるけど、俺、李亜とこれからも歩んでいきたい」微かで、はっきりとしない表情で春松は言った。それが彼の最も真面目な顔付きなのかもしれない。
「あ!」
「なに?」
「ちょ、それあたしの茶碗蒸しやんけ」
「あ。ごめん」
「もーええわ」春松は茶碗蒸しを飲み込むと、手を合わせた。
「ご馳走様でした」
「食うのめっちゃ早いな。飲みモンとちゃうでそれ」李亜は笑いながら言うと、ミネラルウォーターを飲んだ。それから少しして春松が会計を済ますと二人は車に乗り込んで、走り出した。
「もう雨止んでるな」と春松が言うので、李亜は「せやな」と外を見た。雨は完全に止み、雲の隙間から夕焼けが差し込んでいる。道路脇に点在する木々の緑が一層濃くなり、青さも際立っている。李亜が再び窓の外を見ると、三歳ぐらいの女児がこっちを見ているのに気がついた。
「うわ、子供や」
「何をそんなに驚いてんの?」春松は軽く笑って言った。
「いや、最近な、子供見たら、なんや怖いねん」シャワーをしている時に、女児の声を聞いた話を李亜はしたが、春松はすぐに答えなかった。彼は前を向きながら運転している。そして少ししてから口を開いた。
「疲れてんだよ。きっと」
「そーかな」
「俺もあるよ。女の幻覚見ること」
「なんやねん、それ。聞き捨てならんな」何かを揉みほぐそうとして、李亜は懸命におどけているのかもしれない。
「まぁ、いいじゃん。俺、二本木行くの初めてだし、楽しもうぜ」
「え? ちょ、何? そんな話してへんやんか」李亜がそう言っている間、春松は車を後進し、アパートの駐車場に車を停めた。
「え? 二本木行のチケットをもらったって。一緒に行こうってさっき言ってたじゃねーか」
「はぁ?」李亜は春松を睨みつけるように「言うてへんわ!」と驚きと、困惑、立腹が合併したような落ち着かない表情をする。車内の空気が、急に暗く冷えたのか、彼女は手を擦り合わせた。
春松はそんな李亜に構わず、車のドアを開けて外に出ると、後部座席から封筒を取り出して「はい」と李亜に渡した。彼女はまだ何が起きたのか理解できていないようで、呆けたような顔をしていたが、春松に急かされて車外に出る。
春松はアパートの近くにある自販機でミネラルウォーターを買うと 、李亜に渡した。「あ……ありがと」彼女はそれを受け取ると、キャップを開けた。そして一口飲んでから「いや、この封筒、あたしが春松に渡したって事?」と尋ねる。
「なに言ってんの? あぁ、これが、二本木の人のボケってやつ? 俺、ツッコミしなきゃなんねーのか」春松は笑ってそう言うと「ほら。早く行こう」と言ってアパートの階段を上り始めた。
「ちょ……ちょっとまってや!」と彼女は慌てて後を追った。
「え? 何?」春松は階段の途中で振り返って言う。
「いや、だってな……」李亜は困惑した表情で彼を見据えている。春松は階段を上る足を止めて彼女を待っていた。
「どうした?」反感も直ぐに消えてしまうような、屈托のない鮮かな目をしている。
「二本木に帰るのが楽しみだって、李亜、言ってたじゃねーか」
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一日延ばしは時の盗人、明日は明日……
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