翻訳消失論 3|ランダム行列は、消えた細部の型を残す
これは「翻訳消失論」シリーズの第3回です。
前回は、素数の履歴がゼータ関数を通って、ゼロの配置として現れる、という見方をしました。
今回は、別の場所に現れる同じ型を見ます。
ランダム行列です。
ランダム行列とは、成分にランダムな数を入れた行列です。
$$
A=
\begin{pmatrix}
a_{11} & a_{12} & a_{13}\
a_{21} & a_{22} & a_{23}\
a_{31} & a_{32} & a_{33}
\end{pmatrix}
$$
ここで、それぞれの成分 a_ij は確率的に決まるとします。
このとき、行列の成分そのものに深い意味を読むのは難しい。
一回ごとに値は変わる。
細部は揺らぐ。
具体的な数字は、たまたま引かれた乱数です。
しかし、行列から固有値を取り出すと、話が変わります。
$$
A v_i=\lambda_i v_i
$$
ここで λ_i が固有値です。
行列 A が、ある方向 v_i をどれだけ伸ばすか。
その倍率が λ_i です。
固有値を集めたものを、スペクトルと呼びます。
$$
\operatorname{Spec}(A)={\lambda_1,\lambda_2,\lambda_3,\ldots}
$$
ランダム行列で本当に面白いのは、成分がランダムであることではありません。
細部がランダムでも、固有値の並びには型が残ることです。
個々の成分は毎回違う。
どの乱数を引いたかも違う。
一つ一つの行列は違う。
それでも、多くの行列を見ていくと、固有値の分布や間隔には安定した形が現れます。
たとえば、固有値を順番に並べます。
$$
\lambda_1<\lambda_2<\lambda_3<\cdots
$$
隣り合う固有値の間隔を見る。
$$
s_i=\lambda_{i+1}-\lambda_i
$$
個々の間隔 s_i は揺らぎます。
しかし、その揺らぎ方には型があります。
特に重要なのは、固有値が互いに近づきすぎにくいことです。
これを、準位反発と呼びます。
完全に無関係な点なら、偶然かなり近づくこともあります。
しかしランダム行列の固有値は、互いに押し合うように並ぶ。
ここには、単なる乱数とは違う秩序があります。
この現象を、翻訳消失論の言葉で読むとこうなります。
ランダム行列では、成分の細部は消える。
しかし、固有値の型は残る。
$$
\text{random details} \rightarrow A \rightarrow \operatorname{Spec}(A)
$$
直接読めない細部が、行列という翻訳を通って、スペクトルとして現れる。
ここでいう「普遍性」とは、細部が違っても最後に同じ型が現れることです。
どの乱数を引いたか。
どの成分がどの値だったか。
どの一回の行列だったか。
そうした履歴の細部は、スペクトルを見る段階では消えます。
しかし、消えたあとにも残るものがある。
それが固有値の型です。
前回の素数の話と、ここでつながります。
素数の並びは、直接見ると不規則です。
しかしゼータ関数へ移すと、ゼロの配置として構造が出る。
ランダム行列の成分も、直接見るとランダムです。
しかし固有値へ移すと、スペクトルの型が出る。
入口は違います。
一方は、素数。
もう一方は、ランダムな行列。
しかし、現れている形は似ています。
直接読めない細部がある。
それをある翻訳に通す。
そのあと、細部そのものではなく、スペクトルの並びとして型が出る。
ここに、翻訳消失論の重要な見方があります。
残差は、ただの余りではありません。
残差は、スペクトル型として現れることがある。
第1回の式に戻すと、こうです。
$$
T(H)=R+\Delta
$$
H は、ランダムな細部を含む履歴です。
T は、それを行列として扱う翻訳です。
R は、個々の成分として読める表現です。
Δ は、成分だけでは読めない残差です。
そして、最後まで残る成分は、固有値の統計として出てくる。
$$
\Delta_{\rm phys}=P_{\rm harm}\Delta
$$
一回限りの乱数を超えて残るもの。
細部を変えても消えないもの。
大きな行列で安定して現れるもの。
それが、ランダム行列における Δ_phys です。
この見方が重要なのは、ランダムを「何も分からない」という意味で終わらせないところにあります。
ランダムな細部は、たしかに読めません。
しかし、読めないから何も残らないわけではありません。
細部が読めなくなったあとに、むしろはっきり見える型がある。
ランダム行列は、そのことを教えてくれます。
これは、次の章への準備になります。
次に見るのは、素粒子の質量です。
電子が軽い。
トップクォークが重い。
ニュートリノが極端に軽い。
クォーク混合は小さい。
ニュートリノ混合は大きい。
標準模型では、これらはYukawa行列の値として入ります。
しかしYukawa行列もまた、スペクトルを持ちます。
ならば、その質量と混合も、ただの入力値ではなく、見えない履歴が残したスペクトルとして読めるのではないか。
素数では、ゼロ。
ランダム行列では、固有値。
素粒子では、質量と混合。
ここで、翻訳消失論は数学から物理へ移ります。
普遍性とは、消えた細部のかわりに、世界が最後に残す署名である。
