掛谷予想、110年目の決着——2026年フィールズ賞・王虹とザールが埋めた最後の空白

一本の針をあらゆる方向に回してみてください
もし部屋の中で、長さ1メートルの針を、あらゆる向きに一度ずつ向けなければならないとしたら——その針が通る場所、つまり「使うスペース」はどれくらい小さくできると思いますか。
2026年7月23日、フィラデルフィアで開かれた国際数学者会議(ICM)の開会式で、4年に一度の「数学のノーベル賞」ことフィールズ賞が発表されました。受賞したのは4名。中国出身で現在はシカゴ大学の鄧宇(Yu Deng)氏、ストーニーブルック大学のジョン・パードン氏、トロント大学のジェイコブ・ツィママン氏、そしてニューヨーク大学とフランスのIHESに籍を置く王虹(Hong Wang)氏です。王氏は、この賞の90年の歴史の中で、マリアム・ミルザハニ、マリーナ・ヴィアゾフスカに続く3人目の女性受賞者となりました。
正直、私が今回いちばん惹かれたのは、王氏の仕事です。冒頭の「針の問題」——数学の世界では「掛谷予想」と呼ばれています。1917年、日本の数学者・掛谷宗一が提起したこの問題は、平面の上でならすでに答えが出ていました。針をくるりと回すのに必要な面積は、工夫次第でいくらでも小さくできる。ところがこれを空間(縦・横・高さのある3次元の世界)に持ち込んだ途端、話は一変します。面積ではなく体積で考えたとき、針をあらゆる方向に向けるための領域は、どこまで小さくできるのか。これが100年以上、世界中の数学者を悩ませてきました。
王氏は、ブリティッシュコロンビア大学のジョシュ・ザール氏と共に、2025年にこの問題へ決定的な決着をつけました。答えは「小さくできない」。針を全方向に向けるための領域は、体積という意味で、空間そのものと同じだけの大きさを必要とする——つまり、うまく折りたたんですき間に押し込めるような裏技は存在しない、ということが証明されたのです。
このタイプの問題が面白いのは、答えそのものより、証明の"組み立て方"にあります。王氏とザール氏は、いきなり全体を証明しようとはしませんでした。まず「次元が2.5から2.6の間には、問題となる図形は存在しない」という、ごく狭い範囲を潰す。それができたら、次は2.500001まで、その次は2.500002まで——まるで、暗い部屋の中を手探りで少しずつ進み、壁のありかを一歩ずつ確定させていくような作業です。過去の数学者たち(トム・ウォルフ、ネイツ・カッツ、テレンス・タオ)が積み上げてきた部分的な地図の上に、最後の空白を丁寧に塗りつぶしていった、というのが実際に近いイメージでしょう。
以前このブログでも、タオ氏がAIと数学の関係についてどう語っているかを取り上げたことがありますが、
今回の証明でも、タオ氏はいち早くSNSでこの成果を「幾何学的測度論における最も重要な未解決問題のひとつが、ついに証明された」と評価しています。専門家がいち早く反応するのを見ると、この問題がいかに長く重くのしかかっていたかが伝わってきます。
なお今回のICMは、開会前から波乱含みでした。ウェブサイトの不備で受賞者名が式典の10日前に漏れてしまうという珍事があり、また開催地をめぐって2300人以上の数学者が反対署名をするなど、運営面でも異例づくしの大会となりました。それでも、壇上で語られた数学そのものの美しさは、そうした喧騒とは無関係に静かに輝いていたように思います。
針は、どこまで折りたたんでも、最後には空間いっぱいに広がってしまう。そんな当たり前のようで証明できなかった事実が、100年越しに言葉になった夜でした。
〇2026年フィールズ賞発表——4人の受賞者(International Mathematical Union, 2026年7月23日)
https://www.mathunion.org/imu-awards/fields-medal/fields-medals-2026
〇'Once in a Century' Proof Settles Math's Kakeya Conjecture(Quanta Magazine, 2025年3月13日)
〇2026 Fields Medals Awarded to Four of World's Top Mathematicians(Simons Foundation, 2026年7月23日)
