#3 「卒業後は八戸に戻る」という人生プランが、少しずつ変わり始めた大学生活
上京の当日、八戸のラピアという商業施設から東京行きの夜行バスが出発するのですが、両親が見送りに来てくれました。
息子の旅立ちだし、もっとしんみりするのかなあと思ったら、意外と明るく送り出してくれました。夜行バスに乗り込むときの映像と、両親の表情は鮮明に焼き付いています。
あのときの両親は、どんな感情だったんだろう。
「どうせ4年後帰ってくるだろう」と思ってたのだろうか。
夜行バスの中では、お小遣いを貯めて買ったipod nanoからYUIの『TOKYO』を流し、一睡もできずに東京駅に着きました。
そして、東京駅に到着した夜行バスから降り立った瞬間にぶっ壊された、18年間の価値観―
東京駅を行き交う人たちの数はそれまでに地元ですれ違ってきた人数よりも多く、初の1人暮らしの街まで向かう途中、どの駅にも人が溢れている。
「今この瞬間に、たとえ自分が消えたとしても誰も気づかないだろうな」という恐怖に似た感覚があったと同時に、小さな町で他人の目ばかりを気にしていたこれまでの人生は、本当にバカバカしかったと思えるのにじゅうぶんな景色でした。
今でも東京のビルやマンションの灯りを見たときに「うわ…この灯りの数の何倍の人間が東京で生きてるんだ…」とちょっと怖くなるときがあります。わかる人いますか、この感覚。
特に高校の3年間は「受験先選びに失敗してしまった」ことをずっと引きずっていたので、楽しい思い出は皆無。卒業後は地元八戸市に帰るつもりでいたので、大学の4年間は東京という場所を楽しみ尽くして、いい思い出をつくろうと決意しました。
上京前の人生は、前回のnoteにこのあたり詳しく書いております。
15以上の仕事を経験。アルバイト漬けな大学生活
東京に住み始めてしばらくは、ドラマや映画で見た場所や好きなバンドの歌の歌詞に出てくる街を巡っては「おのぼりさん」を満喫していました。
大好きだった松浦亜弥が『しもきたにも慣れた』と言ってたから、下北沢は慣れるまでに大変な場所なんだと思ってたし、GOING STEADYの声が消えた高円寺はきっとエモい場所なんだろうし、池袋ウエストゲートパークにらまだカラーギャングがちょっとは残ってるのかなと期待していました。(公園めっちゃ綺麗になってた)
奨学金を利用していたため、空いた時間はとにかくアルバイトをしていました。
食費を抑えたかったので、飲食店を複数掛け持ちしてまかないでお腹を満たしつつ、人材派遣会社にも登録し、工場のラインやライブの警備スタッフなど、大学4年間で15以上のアルバイトを経験しました。
忘れられないアルバイトはさまざまありますが、例えば、完成した携帯電話の液晶画面に綺麗にフィルムを貼る…ための"ガイド"を乗せる仕事。フィルムを貼るのは社員です。工場のラインにもちゃんとヒエラルキーがあるんだなと知りました。
あとは、お祭りで買うような透明パックに入ったたこ焼き(8個入り)の真ん中に青のりを永遠にふりかけ続ける仕事。大きな袋に入った青のりをつかみ、ベルトコンベアー的な装置から流れてくるたこ焼きにかけるだけ…ですが最初の20分で右腕と右手指は限界に。あとの8時間は無の境地で乗り切るしかありません。
でもしんどい仕事は時給がいいので「いかに稼げるか」を優先した結果が携帯電話のフィルム貼りであり、たこ焼きの青のりふりかけになったのです。
大学生活も楽しかったけれど、当時は、飲食店のアルバイト先でできた友人たちとよく遊んでいました。というのも、東京の私立大学って中学校や高校からエスカレーター式に進学する「内部生」の数が結構多く、僕が入学したときにはすでにコミュニティができあがっている状態。
サークルを見学してみたりもしましたが、東京で生まれ育った人たちとは世界が違いすぎると感じたし、このテンションで付き合い続けるのはちょっと難しそうだぞと。それだけを聞くとまだこじらせてる感じがしなくもないが…高校のころとは打って変わって楽しく自分らしく過ごしていたと思います。
自分で言ってしまいますが基本的に真面目な性格なので、目の前の仕事はきっちりやるタイプ。アルバイトだったにもかかわらず、副店長を任されたこともありました。
ただ、仕事がめちゃくちゃできるというよりは「ちゃんとしてそうで頼みやすい」タイプなんだと思います。飲食店でアルバイトをしている人たちって年齢も経歴も幅広くて、おもしろい出会いがたくさんありました。
今も当時のアルバイト仲間とは仲がいいですし、彼らと出会えたことに感謝しています。
八戸に戻るつもりが「正規教員の採用なし」で就職活動をスタート
東京を楽しんではいても、卒業後は地元八戸に戻るのだと思っていました。言い方を選ばずに言えば、それは「呪い」のようなもの。
上京初日に価値観がぶっ壊されたとはいえ、なぜか「いずれは地元に戻ろう」「地元で働くのなら学校の先生になろう」という気持ちが消えることはありませんでした。
法政大学を選んだ理由は、教員免許を取れる学部だったから。母校の教育実習にも行って、卒業時にはちゃんと、地歴公民・情報の高校教員免許を取得することができました(もう失効してるのか?)。
しかし…大学3年生になり、そろそろ青森県の教員試験を受ける準備をしようとしたところ「非常勤講師の先生が余りまくっていて、来年度は正規教員を取る予定が限りなく少ない」との情報が届きました。
まじかー!となって大学のキャリアセンターの先生に相談したところ「教員試験には社会人枠があり、3年間以上を民間企業で働くとその資格が与えられる(たしかそんな感じのこと)」と教えてもらい、「じゃあ3年間は東京で働いて、そのあと八戸に帰るか!」と切り替えて、就職活動をスタートさせました。
4年で帰るつもりが、+3年に伸びたのも悪くない。むしろラッキーくらいの軽い気持ちで始めた就職活動でした。
今思うとこれはかなり大きな転機で、もしそのとき青森県が普通に正規教員を募集していたら、今ごろは青森のどこかの学校で先生をやっていたでしょうね。人生とは不思議なものです。
ゴールが教員になるならば、どうせなら教員になったときに役立ちそうな教育系がいいだろうと、まず興味を持ったのはベネッセコーポレーションやZ会などの教育系企業でした。
しかし、やるならばちゃんとやろうという真面目な性格なので、しっかりと時間を取って自己分析をしてみたところ「よく考えたら、別に社会とか情報とか”教科”を教えたいわけじゃない気がする」と気づきました。
確かに「信長の野望」の影響で歴史が大好きではあるけれど、とはいえ鎌倉時代から江戸時代ぐらいまでしか好きじゃないなと。
おそらく自分自身の小中高の影響もありますが、自己分析を重ねるにつれ、社会という教科を教えたいと思って教員をめざしていたわけではなく、人の人生の転機に携わるような仕事がしたいのだという自分の気持ちに気づくことができました。
「人生の転機に携わる仕事」というキーワードが見つかったので、冠婚葬祭業界に興味を持ったり、生命保険業界や、人材業界に興味を持ったり。
そうした過程で出会ったのが、リクルートという会社でした。
「良い人間関係とは」を知れたインターンシップ
人材業界に興味を持ち、どうせなら業界最大手を見てみたいとリクルートグループのインターンシップ選考に応募したところ、なぜか合格(今思うとほんとなんで)。
当時のリクルートは今以上に大人気企業で、インターンの参加資格を得るためには3つほどの選考を通過する必要がありました。どうせ慶應のおぼっちゃんとか早稲田の天才しか選ばれないでしょと思っていたから、合格だと聞いたときは本当に驚きました。
インターンシップの参加者は約30人。そこから6人のグループに分けられて課題に取り組むのですが、僕以外はみんな垢抜けてるし、育ちが良いし、グループワークに慣れていたし、もちろん有名大学ばかり。
凝縮された東京がそこにありました。
NOMALの創業メンバーである平山と出会ったのが、まさにこのインターンシップです。
東京(町田市)生まれ東京(町田市)育ち、慶應義塾大学という経歴を持つ彼女。
東京で過ごすと、フィクションの世界でしか見たことがなかった人種と「自分は同じ土俵に立てるチャンスがあるんだ」と知れたことが、このインターンシップでのひとつ目の大きな収穫。
ふたつ目の収穫は、話してみるとみんな良い人なんだと思えたこと。(実際37歳になっても思うけど、活躍してる人はみんな良い人)変な色眼鏡で見ていたのは田舎者の僕だけで、平山もよくよく見たらそんなに垢抜けてないし。

インターンシップの期間は1ヶ月で、グループごとに新規事業を立案し、最終日のプレゼンで順位が決まります。そのときのテーマは「障害者の方がつくった手漉き紙を使ったビジネスプランを考えよう」というもの。
結果的に僕たちのチームは2位を獲得したんですが、順位以上に、このインターンシップで得られた気づきは大きかったです。
グループで企画を進めるにあたってさまざまな意見が出るたびに「その企画はここがいいよね」「その視点は新しいよね」とか、ポジティブなフィードバックがたくさん出てくる。
ひとつの目標に向かって成果を出すために、同級生たちとそうしたコミュニケーションを重ねること自体が新鮮で、同時に「こうゆうのがまっとうな人間関係なんだな」と感じたんです。
ひとつ前のnoteで振り返ったように、小中高の僕は非常に打算的な生き方を選んでいました。それは田舎に住んでいる人間の防衛策でもあったけれど、誰一人として、同等の立場であったことはなかったようにも思います。
自分が下の場合もあるし、上の場合もあるけれど、とにかく常にヒエラルキーがある状態で、それを前提としたコミュニケーションしか経験してこなかった。
だからこそ、当時の僕にとって「人間とはこうやって付き合うものだ」の正解をようやくもらうことができたという感覚。
相手を認め、同じ立場で同じ目標に向かうコミュニティを「そこにいる全員で」育くんでいく光景に衝撃を受けました。
そして、このインターンシップ期間中に、同じ目標に向かって過ごしたメンバーのおかげで「自分は自分のやり方で戦えるかも」と思えたことが、大きな自信になりました。
僕を1人の人間としてフラットに見てくれて、僕にポジティブなフィードバックをくれて本当にありがとう。おかげで、東京で頑張れる自信がついたよ。
インターンで出会ったメンバーは僕の人生を間違いなく変えてくれました。
もちろん全体的な能力は叶わないけれど、ピンポイントで勝てるところはあると実感できた。「自分はどうやら営業が得意らしい」「ここを磨けば勝てるかも」という感覚をつかめたのは、その後の自分の人生に大きな影響を与えたと思っています。
僕たちのグループの最終案は「手漉き和紙を卒業証書にする」というプラン。
プレゼン資料をつくるにあたっては売上予想やコストの計算が必要になるのですが、グループ内では、その算出方法についてさまざまな意見が交わされていました。
そこで僕が取った行動は、東京にあるあらゆる印刷会社に片っ端から電話することでした。企画の意図を説明して、興味を持ってくれた印刷会社さんと会う約束を取り付けていきました。みんなには驚かれたけど(なんならちょっとひいてたかも)単純に「え…知ってる人に聞いたほうが早くない?」と思って行動していました。
契約につながる商談ができたらこのビジネスモデルの将来性を証明できることになるのではと考えていて、実際、賛同してくれた印刷会社さんには手漉き紙で実際に卒業証書をつくってもらって、最終プレゼンの資料として使用させてもらいました。
いま振り返ると「知らないことが武器になった」ということかなと思うのですが、僕以外のメンバーはおそらく中高時代からプロジェクト発表のような経験をたくさんしてきていて、学生の立場でビジネスを考える際のお作法みたいなものが身についていたのかもしれません。
僕にとっては「ビジネスコンテスト」という場そのものが初めてだったから、先入観やフィルターがなく「優勝するためにやれること全部やろうよ」とシンプルに考え、行動することができたのだと思います。
ちなみに、そのときのインターンシップ参加者は自分を含めて半分くらいが経営者になっているようです。改めてリクルートの審美眼はすごいですね。
僕は2010年卒なのですが、当時2008年に起きたリーマンショックの余波で新卒採用の枠がかなり絞られている状態でした。
しかし、リクルートグループのインターンシップですっかり自信をつけた僕はそのエピソードを武器に就職活動に挑み、なんと8社から内定をいただくことができました。そのうちのひとつがマイナビ(当時の株式会社毎日コミュニケーションズ)です。
当時のマイナビはリクルートを追いかける立場で、まさに"ザ・メガベンチャー!"な雰囲気。そしていちばん気に入った環境は「新入社員研修がほぼない(当時)」という点でした。
入社から1ヶ月足らずで現場に出られると聞いて、マイナビに就職しようと決めました。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。次回は、マイナビに就職後「調子に乗っていた自分のプライドが折られる話」を予定しております。フォローしていただけると、モチベーション保てますのでよろしくお願いいたします!
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