40歳でセカンドキャリアを始めた僕にとって、一番「要らない」と思ったものはアレ。
40代ともなると体に支障がき始める年代だ。
膝が痛い、腰が痛い、目が霞む、肩がこる。
その上、仕事も思うようにいかなくなってしまえば
「人生って、なんか嫌だな……」
こんな風に落ち込むのは当然かもしれない。
自由奔放に働いてる人たちをみて、「羨ましい」よりも「妬ましい」感情が口をついて出る。
これからやりたいことよりも、これまでやってきたことばかりをいつも頭の中で数える。
実はそんなときこそ、人生を大きく変えるチャンスだと僕は感じている。
実際に40歳から第2の人生を始めた僕について、備忘録を兼ね、本記事からしばらくシリーズ化してまとめていこうと思う。
第2弾
第3弾
40歳は第2の人生を始めるチャンス
僕は40歳になる年に仕事を辞めた。満年齢で言えば39歳だった。それまで高校教師を15年やっていた。
理由や背景は別記事に書いているから、理由や背景が気になる人だけが読んでくれたらそれでいい。
ここでは事実だけを繰り返す。
僕は40歳になる年に仕事を辞めた。
同時に、第2の人生が始まった。
ありがたいことに、そのどちらも自分の意思で決められた。
「自分の意思で人生を決めるなんて、そんな当たり前なことを……」こんな風に感じる人もいるかもしれない。「自分の人生なんだから、自分の生き方や仕事なんて、自分で選べるでしょ?」、と。
僕も若い頃は ── アラサーの頃までは ── きっとそうだった。
「自分の人生は自分のものだ。好きにやればいい」と。
でも。人生はどうやらそういう風にはできていない、らしい。
不思議なことに40歳が近くなると、多かれ少なかれ、「自分の人生は自分のものだけではないらしい」と気づくものだ。少なくとも僕はそうだった。
そんなときが、そんなときこそが、第2の人生を始めるチャンスだと思っている。ここからは僕の轍を紹介する。
第2の人生を始めるため、優先順位を見直した。
自分の人生において、何が1番で、2番目は何なのか。
これをはっきりとさせる。
実はこれが簡単なようで最も難しい。
たとえば、「家族が1番だ」と答える人がいるとしよう。
本当に家族が1番だろうか?
週末に古い友人に飲みに誘われたとき、「たまには息抜きも必要だから……」と言ってくれた妻の甘い言葉を鵜呑みにして、飲み会に参加はしていないだろうか?
優先順位が下位なのに(ここでは友人との飲み会)、いとも簡単に優先順位を上げていないだろうか?
これでは第2の人生は始まらない。
第1の人生の延長を繰り返しているだけだ。むしろ「やり始めた感」が増している分、意識高い系の自己啓発本ばかりを読み込んでいる割に何も実践できていないような、そんな厄介な存在かもしれない。
別の例でも見てみよう。
「子どもが1番」と言いながら本当は「自分の価値観」が1番で、自分の価値観や物差しで、子どもと接していないだろうか?
「子どものため」と言ってわかったつもりになって、本当は「自分の思い通りにしたいだけ」ってことはないだろうか。
人生の優先順位を見直すことは難しい。しかもその通りに生きていくことは、さらに難しいのだ。
承認欲求を捨てれば大概うまくいく
そこでおすすめなのは(僕がやったことは)、承認欲求を捨てることだった。
友人たちの顔を立てること、世間体を気にすること。
どちらも(少なくとも僕にとっては)第2の人生をはじめることに全く必要がなかった。
オンラインが絡んでくると、承認欲求はもっと酷い。
顔もよくわからない、本名も年齢も知らない、そんな人たちにいくら認められたところで「消耗的」「消費的」な快感を得るだけだ、と悟った。
昨今のようになんでも簡単に万単位で繋がってしまう世の中では、意識的に繋がりを「排除」する必要があるように感じている。
これは中毒と同じで、タバコがなければ、お酒がなければ、コーヒーがなければ、女がいなければ……など数えたらキリがないが、承認欲求はついつい惰性で求めてしまっているものだから、承認欲求なんてなくなったところで慣れればどうってことがない。
権威性がある人や影響力がある人に認められよう(認められたい)というマインドも、一緒にどっかに捨てた。
ビジネスに活かすため、権威ある人や影響力がありそうな人の知見を利用させていただくことは大いにあるが、そんな巨人たちと近づきたいと思わなくなった。
その人は決して、私の人生を豊かにはしてくれない。
この一連の心情をうまく言語化している人の一人として、スティーブ・ジョブスがいると思う。彼は40歳で新しいことを始めなさいと言っていた(らしい)一人だが、そんな彼はこういっていた。
「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを本当にしたいだろうか?」と。
人間はいつでも簡単に死ぬ。
ファーストフードで並んでいても、きちんと信号を守って横断していても、ある日突然死ぬ。
マンションの上から何かが落とされることだってあるし、逆走してきた車と衝突することだってある。雷に打たれてしまうことも、火事や自然災害に見舞われることだってあるだろう。
人間はいつでも簡単に死ぬ。
それなのに、今やっていること。とりわけこの文脈で言えば「承認欲求」を得るために取っている行動の全て。今日死ぬとして、明日もやりたいと思うのだろうか?
私はノーだ。
だから承認欲求を捨てた。
言葉を正しくすれば、リアルにおいて、承認欲求を満たしてくれる人たちのそばにいることを優先した。
承認欲求を満たしてくれるものを近くに……
私の場合は家族だった。
人によっては友人や親友でも良いだろうし、どこかのコミュニティに属している人でも良い。
家族や恋人以外なら、人数は5人以下に抑えた方が良いと思う。広いと結局いざこざを生む。
定期的に承認欲求を満たしてくれる、または自己効力感(自分が役に立っていると感じられる)や自己肯定感(自分には価値があると感じられる)を感じさせてくれる人たちの側に物理的に存在していれば良い。それが私の場合は家族だった、ということになる。
もちろん家族といえどいきなりそんな良好な関係を築けたわけではない。
家族と言ってもしょせん他人からスタートする以上、お互いに諦め・割り切りを繰り返しながら、育ててこなければならなかった。
だから、家族が良いとか恋人がいいとかではなく、承認欲求を満たしてくれる人たち、または自己効力感や自己肯定感を上げてくれる人たちが、物理的に近くにいれば、承認欲求は簡単に捨てられるという話だ。
それ以上、すなわち必要以上に不特定多数を味方につけたからといって、消費的な快感が得られるだけで、いつも喉が渇いているような感覚になるだけだろう。SNSにショート動画をアップロードしたところで、ものの数分で消費され、いつ何時でもアップロードし続けないと発信力がつかない状況と似ている。
ここまで話すと
「そうまでして第2の人生をはじめることに、価値があるとは思えない」
こんな疑問も出てくるだろう。
これについては次回にでも語ろうと思う。
それまでは(この記事が気に入ってもらえたなら)フォローやスキをしてお待ちいただけると嬉しい。
何かを始めるのに、遅すぎることは何一つない。
今日1日が、素敵な1日でありますように。
