徒党文化の光と影
昭和生まれは、
「群れること」がデフォルトだった。
連れション、部活の集団行動、暴走族、チーマー、ギャルサー、パラパラのシンクロダンス──あらゆる場面で「歩調を合わせる」ことが美徳とされていました。
この傾向を単なる世代のノスタルジーで片付けるのは簡単ですが、
背景には、当時の社会全体の空気感が色濃く影響していました。
──多様性なんて、そもそも存在していなかった。
「違う」ということは稀有だった。
社会に“寛容”が育っていなかったし、“知性”も成熟していなかった。
異なる意見や生き方を許容するという発想自体が、まだ一般的ではなかった。
だからこそ、集団行動に馴染むことが「正しさ」であり、「生存戦略」だった。
「みんなと同じ」ことが、自分の存在を社会に認めさせる唯一の方法だった。
一方で、そんな同調圧力に、
私を含め、どこか息苦しさを感じていた人々もいた。
孤高のヒーロー像への憧れだ。
松田優作が演じた、群れずに己を貫く男。
寡黙で、誰にも媚びず、自分の信念だけを頼りに生きる姿は、多くの男たちのこうありたいという裏の願望をくすぐった。
徒党を組んで安心を求める。
でも、心のどこかで「誰にも縛られず、孤高に生きるカッコよさ」も夢見ている者も。
それは、当時の社会がまだ「個」を支える土壌を持っていなかったからこその、ささやかな反抗でもあった。
時代は変わり、平成に入る。
自由な時代になった──と言いたいところだが、群れ文化はすぐには消えなかった。
平成前半、90年代から00年代初頭までは、まだ「つるむこと」が基本だった。
学生生活でも、社会人生活でも、グループ単位で行動することが「普通」であり、
一人でいると「浮く」空気は依然として存在していた。
特に、80年代後半~90年代前半生まれの平成初期世代は、
「群れることが当たり前」という昭和的価値観の最後の洗礼を受けた世代だった。
学校でも、サークルでも、会社でも、「みんなで一緒に」が基本線。
けれど、時代の空気は少しずつ変わり始めていた。
個人主義、ソロ活、SNSによるつながりの自由度が広がり、
「群れるのはダサい」という感覚もじわじわと広がり始めていた。
つまり、彼らは、「群れ文化最後の過渡期世代」だ。
群れながらも、心の中では、「一人でもいいじゃないか」という芽生えを抱えていた。
そして、令和。
群れるもよし、孤高を貫くもよし。
そんな自由な時代に一歩近づいた。
拳の時代。
脳みそよりも腕力、
いや、チカラだけが優位に思われていた黒歴史ともいえる時代から
しっかりと時間は流れた。
あの時代には、
群れなければ生き残れない不自由と、
群れながらも、
心の中で孤高を夢見る自由は
同時に存在していた時代。
社会が進化するには必要な過程。
そうだったのかもしれない。
……今回も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
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