「大森さんちの家出」第8話
8、よたび、大森さん
ねぎまが売りの駅前の焼き鳥屋で、時村はウーロンハイ、大森さんはコーラを頼む。大森さんは、お酒が飲めない。
「奥さんは」
「おでかけ」
「ふぅん」
それからねぎまがやってくるまで、特に会話することもない。
時村は電気湯沸かし器に似ている、と大森さんは唐突に思う。
普段はじっとしていて、よく耳を澄ませると、通電音がかすかにし、生きていることを知らせてくれ、そして、こちらの気が向いた時に、コップを準備して、頭をポンと押せば、熱いお湯をいつでも出してくれるのだ。
そう思いついたことを、大森さんは奥さんに言いたいなと思った。奥さんが喜んでくれる気がしたし、ほめられる気もする。そう考えて、なんだなんだ、と悔しくなってやっぱり言わないでおこうと決める。
時村は女の人のような細い指で箸袋を小さく小さく三角形に折りたたみ、大森さんはそれを眺めている。ねずみ男のように背中を丸めた時村を見て、大森さんは、ダメなやつだなあ、と思う。
いかにも仕事ができなさそうで、いかにも体力がなさそうだ。そう思いながら、大森さんは自分がとても優しい気持ちになっているのを感じる。優越感とも違う。とにかく、時村のダメさや弱さを思うと、泣いてしまいそうになる。それはもしかしたら「母性」と似ている感情かもしれない。とうとう大森さんは母性まで手に入れたのかもしれない。
「そういえば」
「あん?」
「時村との会話を、録音しろと頼まれたよ。奥さんに」
「あ、あん?」時村は、ニヤッと笑って、箸袋から顔を上げた。
「男同士って、どんな会話がするのか知りたいって」
「何、時村のこと書いてくれるの?」
時村は自分のことを「時村」と呼ぶ。
「うちらって何喋ってるっけ」
会社の同僚とは、社内の噂話や、上司の悪口や、芸能ニュースや、たまに奥さんのことなど話したりする。でも、働いてるんだか、いないんだかわからない時村とは、共通の話題がない。
おそらくだが、時村にとっても大森さんは電気湯沸かし器なのではあるまいか。電気湯沸かし器が二つ、日当たりのいい縁側かなんかに並べられていて、二つは同じ方向を向いていて、「晴れたねえ」「晴れたなあ」なんて通電音で伝え合っている。
もし、時村が女の人だったら、自分は時村と結婚したのかもしれない。
「哲はさ、女の話する? 他の人とは」
「は?」
「でも哲からそういうの聞いたことないよね。あんた、いつの間にか結婚してたもんね」
「時村からだって聞いた事ないよ」
「それは哲がしないからだよ。時村、結構他の人たちとはするよ」
「ふぅん」
大森さんはつまらない。大森さんには「他の人たち」がいないのだ。いいタイミングで、ねぎまの皿が運ばれてくる。
「聞いてあげようか」時村がねぎまにかぶりついて言う。
「何を」
「奥さんとなんで結婚した? どこが好きなの?」
「いいよ、別に。興味ないだろ、ほんとは」
「いや、あるなあ。断然あるなあ」
「うーん」素直な大森さんは時村と奥さんとの違いをもう一度考察してみる。
「脳梁のちがい、かなあ」
「脳梁?」
「言うだろ、男性より女性の方が脳梁の幅が太くて、理性に感情を伴わせて考えるって。そういうのがなんか、新鮮なんじゃないか」
「それは違うよ」時村は早くも赤くなった顔で、言う。
「男女の脳梁の太さは、メタデータの分析で違いがなかったことが証明されてる」
「え、そうなの?」
「昔は海馬の大きさも女性の方が大きいって言われてたけどね、それも間違いだってさ」
「……ふうん」
大森さんは、なにか奥さんをけなされたような気がして、より深く思い出そうとする。
のちの奥さんとなる半田さんは、ほぼプロフィール写真通りの顔で(そうじゃない人もいた)、有楽町のマルイ正面玄関前に現れた。
「ごめんなさい。出掛けに電話があって」
そう言って、半田さんは全然すまなくなさそうに笑った。小さくて丸い目をしていて、少し目尻が垂れている。鼻は丸くて大きめで、笑うとウサギのひげのようなシワが寄る。なんだか全身が怒っているようにホクホクしていて、シャキシャキ話す様子に「活きがいい」という言葉がうかんだ。腕の中でビチビチ跳ねる鮭のようだ。半田さんは自己紹介のところに、「癒し系じゃ、ありません」と書いてあった。
【のび太に顔が似てるからか、メダカを飼っているからか、癒し系だと間違えられますが、人を癒す力もそんな優しい気持ちも持っていません。ご注意下さい】
さらに、嫌いな言葉の欄に「癒し系」と書いてあった。どうしても、あくまでも、人を癒したくないらしい。大森さんは、変な人だなあと、なんだか癒されて、思わず「いいね!」を押したのだ。
マッチングアプリ〈betterHalf〉のシステムはこうだ。ウェブ上のプロフィールを読んで、いいと思った人に「いいね!」ボタンを押す。相手も「いいね!」を押したら、マッチング。メッセージのやり取りができる。大森さんと半田さんの場合は、まず、大森さんが半田さんに「いいね!」を押した。そのまま二、三週間ほど半田さんからは応答がなかった。が、或る日突然、マッチングが成立し、半田さんからメッセージが来たのだ。
【いいね、ありがとうございます。早速ですが、今晩空いてたら、晩御飯食べませんか】
その性急な展開から、大森さんは、ああ、これは何かに勧誘されたりするパターンかな、と思った。前々回の幼稚園教諭がそうだったのだ。子どもたちにアトピーやアレルギーが増えているという話の後、「ムーンパワー石鹸」について世の中に広める仕事をしている、と。
――半田さんの売っているものはなんだろう。NASA開発のメダカの餌とか?
大森さんはひとり、笑う。やはり、アプリで伴侶を見つけることはできないのかもしれない。始めて二か月経つが、大森さんは、女の人はそんなに寂しくない生き物であることに気づいた。
女の人はいつも、何かの帰りか、何かの行きがけに大森さんと会う予定を入れている。そして、周りの友達と成果を報告しあっているようだ。結婚願望は大森さんにも女の人にもあった。でも、女の人の結婚したい理由は、大森さんとはだいぶ違うようだった。
半田さんが、「ここにしましょう」と入った店はガード下にある「大漁旗」という名前の居酒屋だった。二人席に向かい合って、ラミネート加工されたメニューを覗き込む。半田さんが生中、大森さんがジンジャーエールを頼む。「ついでに」と半田さんは刺身盛り合わせと、ホッケ、ポテトサラダを頼んで店員が行ってしまってから、「あ、嫌いなものありますか?」と、大森さんに聞いた。
――ああ、たしかに。たしかに、癒し系じゃないなあ
と大森さんは笑う。お互いを簡単に自己紹介した後、半田さんが質問した。
「家にアイロン、あります?」
アイロン? その質問からどんな論理構成で何を売られるのか、予想を立てるけれど見当もつかない。
「ありますけど……」
恐る恐る大森さんは答える。すると、半田さんは生ビールの泡の後ろで笑って、
「だって、シャツが」
大森さんは床に積み重なった洗濯物の山から、パイナップル柄のシャツを引っ張り出して着てきた。シャツは確かにヨレヨレだった。
「すみません、急いでて」大森さんは慌てた。裾を引っ張る。
「でも、かわいいです。その柄。なんでパイナップル柄選んだの?」
大森さんは、言葉に詰まって、これは言わないほうがいいというのは百も承知でやはり正直に答えるほかなかった。
「……母が、送ってくるんです」
「え! 服を? 全部?」
「あの、マザコンっていうわけじゃなくて、僕が服に興味なくて、放っておくと同じ服しか着ないからって」
大森さんのお母さんは毎月段ボール箱にいろいろ詰めて送ってくる。レトルトのカレー、地元の菓子、庭でとれたびわの実、よくわからないキーホルダー、季節の服、毛布とバスタオル、それから手紙が入っている。今回送ったもののこと、最近の父親の様子、家のリフォームの話。四月には姉の三十三回目の誕生日がきたこと、墓参りをした話、お盆には必ず帰ってこいという件。そして、姉の話を塗りつぶすように「元気ですか」「会社には慣れましたか」「残業はありますか」「どんな部署に入ったの」、たくさんの質問が書かれていた。
「たぶん趣味なんだと思います。色々荷物送ったり、手紙書いたり、そういうことするのが」
「へぇ、いいなあ。返事は書くの?」と半田さんは尋ねた。
「まさか。手紙なんて書いたことないです」
「え、母の日とかも? メールでも?」
「しません、しません」
「どうして」
「なんて書いていいかわかんないし」
「届いたよ、でいいんだよ」
「それだけでいいんですか。長めですよ、母の手紙」
長いから大森さんはよけいに返事ができないのだ。
「あとは、パイナップル柄のシャツ、女の子に褒められたって書きなよ」
半田さんは笑った。例の笑い方で。
「それだけで、すごく喜ぶよ。そうだ、今メールしてみてよ」
「え、いやです」
「いいから、してみてよ。責任は私が取ります。私が打つ。携帯貸して」
何度かの押し問答の後、半田さんは大森さんの携帯を奪い、楽しそうにメールを打った。
「登録名、〈母〉とかじゃないんだね。大森香織。フルネーム。なんかいいね」とかなんとか言いながら、あっという間に送信してしまった。それから二人は仕事のことや好みのタイプなど別の話題へ移ったけれど、二人して大森さんの携帯が震えるのを今か今かと待っていた。大森さんと同じくらい、半田さんがそわそわしているのが嬉しかった。だけどその日はとうとう返信はなかった。
次の朝、目が覚めると、「女の子!? 彼女できたの!?」と、たくさんのにこちゃんマークとハートマークの入ったギャルみたいなメールが届いていた。綿々と几帳面な文字でつづられた手紙とのテンションの違いに大森さんは、ひとり笑って、それを半田さんに伝えたいと思った。「届いたよ、でいいんだよ」と、半田さんは言ったのだ。
そういうことを全部、時村に話そうと思ったが、伝わる気がしなかった。
「……やっぱいいや」
「なにそれ」
時村は首を亀のように伸ばしてウーロンハイをすすった。
「時村ってさ、三平方の定理習ったときどう思った?」
「どうって……好きだなあって思ったよ」
「やっぱり」
「三平方の定理もいいけど、時村的には三角形の内角の和もたまりませんね」
そう言って目のふちを赤くして笑う。大森さんは、ああ、だから時村とは友達で、奥さんとは夫婦なんだ、と思った。
〈つづく〉
最初から読む>>>
