「大森さんちの家出」第6話
6、みたび、大森さん
時村から返信が来ない。
そのことに今日一番堪えていることに、大森さんは驚く。携帯をチェックするのにも飽きて、大森さんはふて寝用に出してきた布団から、両手を伸ばして、そのウルヴァリンのような手を眺めていた。
――こんなだったろうか、お姉ちゃんは
病室に顔を出すと、大森さんのお姉さんは、たいてい点滴の管が付いていない方の手を天井に伸ばしていた。腕は薄青く、まっすぐピンとは伸ばせずに、肘から先をゆっくりとカーブさせて、力なく指先を天井へ伸ばしていた。それが天国へ行こうとするように見えて、幼い大森さんは怖かった。
「お姉ちゃん」
呼びかけると、お姉さんはゆっくりと手をベッドに下ろし、大森さんに微笑む。大森さんは子どもらしく振舞おうとする。
姉が常にまとっている死の匂いに気づかないふりで、無遠慮で、ぶしつけな、奔放な、何か生きている言葉を言おうとする。
だけど大森さんは子供の頃から理系だったのだろうか。それとも妹ではなく、脳梁の狭い弟だったからだろうか。言葉はいつも見つからなかった。
「怖い?」とお姉さんは聞いた。
「哲、私が怖い?」
唐突にわかる。天国じゃない。あれは、自分の体を眺めてたんだ。
子どもの頃からずっと、病院か自宅の介護ベッドで横たわることしかできなかった彼女は、かろうじて動かせる腕だけが、自分から見える自分の体だったのだ。
幼い大森さんは、そのそばに駆け寄って、お姉さんの指先から腕の付け根までを、かたどるように撫ぜればよかった。大森さんの小さい指には先の先まで毛細血管がみっちりと張り巡らされ、きっと彼女にはぬくかったろう。
――それくらい思いつけたらよかった
お姉さんは針の刺さった腕のまま、十四歳で死んでしまった。
お姉さんが亡くなってしばらくは、両親とも放心状態になっていた。大森さんが小学校から帰ると、大森さんのお母さんは、和室にある仏壇の前で、数時間前からそうしていた感じで座っていた。
「お母さん、ご飯は?」
大森さんは、聞きたかった。でも、その度に、点滴につながれた姉の細い腕を思い出した。
「お姉ちゃんはどうしてご飯を食べなくても平気なの?」
ある日、大森さんが尋ねると、彼女は天井からつりさがったような透明のパウチを指差して、
「あれがお姉ちゃんのご飯なんだよ」と言った。
なるほど、パウチからは薄黄色の液体がポタポタと管の中に滑り落ち、その管は、彼女の筋張った腕に刺さっていた。大森さんは、
「どんな味がするの?」と聞いた。
それを聞いて、お姉さんは声を出して笑った。だから、大森さんはどうしても「お母さん、ご飯」と言えなかった。
その時、大森さんは八歳で、病院にもう行かなくなったお母さんの膝の上には、まるまる自分のからだが入るスペースがあったけれど、そこに潜り込むことはできなかった。それをしてしまったら、まるでお姉ちゃんが死ぬのを待っていたようだと思い込んで、小さな大森さんは自分の気持ちを閉じ込めた。
気づいたのは、くぼ菌だった。
大森さんは学校で質問に答えられなかったり、給食を全部食べきれなかったりすると、誰かに怒られる前に、自分の毛をむしった。それも激しくではなく、机に置いたランドセルの陰で、髪に手をやるふりをしながら、一本一本抜いていくのだ。そうすると気持ちがすっとする。時々、抜けた毛に目をやると、根元にはつやっと白い油の固まりがついていた。
それを見ると、大森さんは、大森さんのおじいさんがいつもポロシャツのポケットに入れていた、薄荷ようじを思い出した。だから気持ちがすっとするのかもしれないな、なんて案外呑気に考えていた。
くぼ菌は大森さんの親を呼び出し、こっそり話をしたようだ。帰宅すると、仕事でいないはずの大森さんのお父さんが、お母さんと並んで大森さんを玄関で迎え、ぎゅっと強く抱きしめた。大森さんは、まるでテレビで見たような場面だと思い、そういう風に思うのは両親に悪い気がして、目をつむり、泣こうとした。
「これからは寂しい思いをさせないからね」
大森さんのお母さんはそう言い、それから本当にそうなった。お母さんは大森さんの前では仏壇の前に座らなくなり、ご飯の時間は以前と同じように守られるようになった。お父さんは相変わらず仕事で忙しいようだったが、土日は必ず大森さんを動物園や水族館や、子どもらしいところへ連れて行った。時々、聞かれた。
「寂しくない?」
「なにか考えてることがあったら言ってね」
「お父さんにはなんでも話せよ」
でも、大森さんはそういう会話が苦手だった。「なんにもないよ」と正直に答えると、両親は悲しそうな顔をした。だけど本当になんにもない。お姉ちゃんは死んでしまったし、生き返ることがないなら、なにもしようがない。
中学に入り、数学の授業で三平方の定理を習ったとき、大森さんは激しく感動した。aの二乗+bの二乗=cの二乗。こんなに美しい式が存在していて証明されていて、原理が解明されていて、そして決して揺るがない。
あまりの衝撃で、その時弁当仲間だったやっくんというクラスメイトに、大森さんは珍しく熱弁をふるったのだが、やっくんは弁当から目を一度も上げずに大森さんの話を聞いた後、おもむろに弁当の蓋を閉めると、やっと顔を上げ、「何度聞いてもわからない。その式もお前の言ってることも」と笑った。
思春期には、大森さんはひどい夢に悩まされた。
大森さんのお母さんが、お姉さんのからだを拭いている。彼女の胸は横にも縦にもたくさんのひっかき傷ができていて、ゾンビみたいな色をしている。でも乳首は黒々と突っ立っている。
お母さんは、ガーゼで丹念にそこを拭く。大森さんはそれを押しのけ、舌を出し、お姉さんのそこをなめる。黒いのはかわいそうだ、彼女の奥底にある血を全部、そこに集めて、彼女が死んでしまっても、その色を赤に変えてやらねばと思う。そう思いながら一生懸命吸ううちに、大森さんは自分が興奮していることを知る。
――絶対にこんな夢は見たらいけない。絶対に。
母親にも、仏壇でほほ笑む姉にも合わす顔がなく、大森さんは早く家を出ようと思った。そうして、ようやく東京まで来たのだ。
――やっぱり電話しようか
大森さんは時村でなく、奥さんの番号を表示させる。
――でも、かけてどうする? 何してる?って聞くと、帰ってこいって言ってるみたいだよな。うーん、「どこにいる?」っていうのは? おんなじか……。
「好きよ」と言った奥さんの苦しそうな顔が浮かぶ。大森さんは急激に不安になる。布団をはねのけ、立ち上がり、携帯を持ったままウロウロ歩く。怒りに似たものがせりあがってくる。
――だいたい、なんでこんな遠慮しなきゃいけないんだ。夫婦なんだから、なんかもっと、こう、権利みたいなやつが発生するんじゃないのか
そう思ったそばから大森さんにはわかってしまう。こういうのが一番奥さんに嫌われる考え方で、自分はそれが死ぬほど怖いのだと。憶病で平坦で衝動的になれない自分にイライラしてくる。携帯が震える。
「はい?」
「おー、いいよ」
「え?」
「飯行くって話。今からそっち行きますヨ」
のんびりした時村の声がする。
〈つづく〉
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