「大森さんちの家出」第7話
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狭い玄関には、汚れたデッキシューズがあった。細長いキッチンに、ペットボトルでいっぱいのゴミ袋が二つもある。キッチンにあった小さなテーブルがなくなっている。茶色のカーテンの向こうから、西日が差して、部屋を照らしている。田舎生まれだからか、雄生はよっぽど遠出じゃないと鍵を締めない。
「雄生、いる?」
私の声だけがこの部屋で揺らめく。靴を脱いで、上がる。
「生きてる?」
たこ焼きの袋を洗濯機の上におく。フローリングはミシミシと音を立て、私を部屋の入り口まで運ぶ。本とレコードと古新聞と楽器とよくわからない機材が山ほど積まれている。私のものは一つも残っていない。
そりゃそうか。あれから何年経ったのだっけ。念のため、360度見渡してみる。部屋がしんとしているのが怖くて、敷きっぱなしの布団の隙間を通って開けられたままの押入れを覗き込む。同じくレコードやテープが積まれているだけだ。
それからトイレのドアをノックし、開ける。小さな浴室も開ける。
雄生も雄生の死体も、いないことに心底ほっとして、今度は机の前に立った。
それは、小学生用の、本立てに付属のライトがついた木製のもので、シールがベタベタ貼られた跡が、引き出しにいくつもついている。ゴミ捨て場から拾ってきたんだろう。
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壁に蛍光黄緑のふせんが、べらべら貼られていて、マジックで意味不明な単語が書き込まれている。そっと近寄って、懐かしい文字をなぞった。
机の上は、コックピットのように右も左も正面もCDがうずたかく積まれて、かろうじて侵食されていないパソコンのキーボードを、ヘッドフォンをして、あのやせた背中を丸くしながら打っているのが目に浮かぶ。壁からも机からも押し入れからも、あの不思議な声が飛び出してくる。
白いタイルのアパートで、原稿用紙をグツグツ煮えたぎった文字で埋めて、それを全部打ち直し、それから全部書き直して、深夜に中央郵便局に駆け込んで出し、受賞の電話を受けた時も、哲くんと会った時も、あの可愛らしい正座のプロポーズも、引っ越しも、緊急事態宣言も、哲くんのメダカの話に相槌を打っている時も、私はこの場所を想像していた。
私がいなければ、雄生は死んでるか、コロナになってるか、少なくともまともな食事をせず、ゴミを溜め込んで、一曲も書けず、事務所にも顔を出せず、練習もさぼって、あの時と同じ、誰よりも自分を呪っているはずだ。
曲が書けないのを私の次の誰かのせいにして、その人に三三七拍子を聴かせてるはずだ。誰かとまた暮らしているはずだ。
コロナ禍でライブハウスがどんどんつぶれ、フェスが中止になり、心をひとつにと誰かが作った楽曲がそんなに話題にもならずに過ぎ去っていくのを見て、私はひそかに安心していた。
哲くんから、テレワーク手当として月五千円支給されることになったと聞いた時も私は、ほらね、と思っていた。間違ってるのはそっちなんだよ。
だけどだんだんわからなくなる。
哲くんは、私と結婚してから料理をするようになった。私たちは独身時代は各々で、松屋とか福しんとかホットモットとか、納豆かけご飯とか冷凍うどんとか、そんなものを食べていたけど、哲くんは当たり前のように、結婚をしたら料理をするようになった。だいたい十八時に隣の部屋の哲くんからLINEがくる。
【今日は何時になりそう?】
【二十一時過ぎ予定】
【お腹すいたよう】
行き倒れのゾンビのスタンプを送るだけの日もある。
そしてやっとのこと、ダイニングテーブルに着くと、哲くんはご飯をよそう。
「あ、洗い物はするからね」二十二時からご飯を食べて、洗い物して、お風呂に入って……、
「あ、風呂も沸かしといた」
「マジで? ありがとう。あ、明日は早めに上がれるから、私作るよ」
自分から言ったのに、言った途端、嫌になる。早めに上がれる日は一行でもいいから小説を書きたい。だけどどんな日にも、温かいご飯が待っている。「冷めちゃうよ」と哲くんは私を信じきった顔できゅうりなんかをパリポリ食べる。
誰かといないほうがいいなんて、そんなはずない。だってもしそうだったら、哲くんはどうなる。私はどうなる。私たちの結婚は、どうなる。
ちがうよ、だって今はコロナ禍だもの。と思っていたら、こないだコロナになった。
まず私が発症し、哲くんは心なしか生き生きと、発熱外来の予約やら買い出しやら部屋の消毒やらこなしてくれた。翌々日に哲くんも熱が出た。二人で並んで寝て、両方感染したほうが隔離しなくて済むからラクだねと笑い合った。私は笑い合える夫がいることに心底安堵した。
四日目に熱が下がり、ゆっくりだけど仕事を再開した。哲くんは私より軽症で、ほぼ同じタイミングで仕事に復帰した。お互い、会社に配慮してもらえ、十八時ぴったりに仕事が終わる。
備蓄の中から気分で選んだレトルトを温め、二人で食べる。私にだけ味覚障害があって、なんにもおいしくない。ゼリー飲料はわらび餅のきなこなしの味だし、うどんは塩水に浸かった麺って感じ。急遽入会したネットスーパーの白くまアイスは子どもの風邪シロップの味がした。
食べ終わると二人でソファに座って、なんとなくテレビを眺める。以前だったら、食べ終わればもうお風呂か寝る時間だったのに。仕事部屋で小説を書くとは言えない。頭がぼんやりするし、今は夫婦で一緒にいるべきだという気がする。
哲くんの選んだバラエティ番組にもちろん私も笑う。でも隣を見ると、哲くんはスマホでゲームしてたりする。映画館だって寝てたしな。だんだん、あれ?と思い始める。私は哲くんを盗み見る。全体に丸くて毛むくじゃらで髭剃りが下手で、左側のほおに剃り残しがひよひよ生えている。ソファにどっかりと座りスマホをいじり、でも器用にテレビも観ていて、時々笑う。あれ? あれあれ?
私は内心慌てて、哲くんの丸い肩にもたれる。気づかれないように息を吸う。嗅覚障害だからなんの匂いもしない。ただ生暖かい。
来週、抗精子抗体の結果がわかる。精液検査では生き生きしていた哲くんの精子が、フーナーテストでは私にもわかるほどしょんぼりしていた。私の子宮に精子の動きを妨害する抗体があるかもしれないということだ。
それはきっと間違いなく、あるんだろうな。玄関のところで私になでられるままになっている哲くんを思う。「痛い?」と聞いた哲くんを思う。私はまた怪物になるんだろうか。
止めていた息を吐き、そして吸う。ああ、雄生の匂いだ。味覚も嗅覚もとうに戻っている。雄生の匂いの中に、かすかに湿った沼のような匂いがする。
コッ
机の下からかすかな音がする。こわごわ覗くと広げられた新聞紙がなにかを覆い隠している。
コッ
また音がする。震える手で新聞紙をかきわける。水槽が現れる。
「ひゃっ」
思わず声が出た私を、薄桃色の生き物が眩しそうに見上げている。
「なんで、また……」
ウーパールーパーだった。砂が敷き詰められ、寝床用の陶器でできたミニ土管もおかれている。水は清潔に保たれ、水槽は保温のためかプチプチで覆われている。新聞紙もそのためだったのだろう。生き物はさっきと同じ姿勢のまま、私を見あげている。ミニ土管には表札のつもりだろうか、アイスの棒に雄生の字で、「ももちゃん」と書かれている。
雄生、それだと墓標みたいだよ。
〈つづく〉
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