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現代翻訳語論


序 現在の日本語

 「近頃の日本語は外来カタカナ語が氾濫している」という意見をよく耳にする。それは日本語を使う我々にとって聞き馴染みのある議題ではあるが、この議題を根本的に解決するような出来事は未だ起こっていないように思える。実際、平成29年度の世論調査によれば「カタカナ語の意味が分からずに困ることがある/たまにある」と答えた人の割合は全体の8割を超える結果となっている。これは、平成24年度の同様の世論調査における結果よりも5%ほど高く、日本語は微少ながらも外来語に浸食されていっていることが読み取れる。さらに、外来カタカナ語の使用は年々増加していることから、日常語におけるカタカナ語の氾濫は如実に表れていると言えるのだ。
 外来語の氾濫は、その外来語の意味が正しく理解されないことから円滑なコミュニケーションの妨げになり、結果として我々の言語活動を大きく損害してしまう。このために、我々は外来カタカナ語の氾濫をせき止めなければならないのだ。

 さて、どのようにすればこの言葉の氾濫を食い止めることができるのだろうか。
 カタカナ語が氾濫する要因として、そのカタカナ語に対応する「既存語」がないことが第一に挙げられる。外国から言葉がもたらされるとき、大体はその言葉に附随してそれまでの日本語に無かった事物や概念も同時に輸入される。「インターネット」という言葉はまさにその典型例だと言えるだろう。「既存語」が無いから、翻訳のしようがない。ゆえに、現代日本語には外来カタカナ語が溢れかえってしまっているのだ。
 同じような状況に陥った時、先人たちはどのようにこの苦境を乗り越えてきたのだろうか。先人たちはこうしたカタカナ語の氾濫を防ぐために“翻訳語”と呼ばれる言葉を用いてきたのである。

一 “翻訳語”とは

 翻訳語とは「外国から輸入された新しい言葉を翻訳する際に用いられた言葉」のことである。例えば「個人」という言葉は「インディビジュアル(individual)」という言葉を翻訳するために創られた新造語であり、「自然」という言葉は「ネイチャー(nature)」という言葉を翻訳するために、元来の「おのずからそうなっているさま」といった語義から押し広げて用いられた言葉である。「インディビジュアル」も「ネイチャー」もそれまでの日本語には存在しなかった概念であり「ツリー」は「木」のような既存語での翻訳が不可能な言葉であった。そのため、新しい概念に出くわした当時の知識人たちは、「その言葉に対応する新造語を創る」という道を選び、これがすなわち「翻訳語」という概念を確立させたのである。
 翻訳語を創る活動は主に幕末から明治時代にかけて盛んに行われてきた。当時は文明開化によって数多の外来語が西洋から流入し、当時の日本人はその言葉の意味を分かりやすくするために様々な翻訳語を生み出した。
「社会(society)」「近代(modern)」「恋愛(love)」「存在(being)」「権利(right)」「自由(freedom・liberty)」「彼(he)」「彼女(she)」…。
 これらは全て幕末・明治期にかけて西洋の概念を翻訳するために日本で造語・転用された言葉たちである。先人たちの苦悩によって、現在の学術用語・日常語のほとんどが「翻訳語」を通じて和漢化され、カタカナ語の氾濫は免れることが出来たのだ。
 一方で、現代日本においてはこうした翻訳語による翻訳活動があまり行われていないような印象を受ける。外来語は外来語のままで表記され、「risk」は「リスク」、「stress」は「ストレス」、「governance」は「ガバナンス」と音写されて使われていることの方が多い。「リスク」、「ストレス」のように一般社会に広く認知されている言葉はさておき、「governance」のような一般社会に浸透しているとは言い難い言葉たちは音写で済ますのではなく、新しく「翻訳語」を用いて翻訳すべきであると私は考える。だが、そういった活動や運動は一般大衆に広く知られていないように思える。現代において「『翻訳語』を用いた翻訳活動」はどれほど行われているのだろうか。

二 “翻訳語”による翻訳活動

 現代における翻訳語を用いた翻訳活動は「研究機関が行ったもの」と「個人が行ったもの」の二種類が存在する。
 研究機関である国立国語研究所は、平成15年から平成18年にかけて、『「外来語」言い換え提案』と題した外来語に対する新しい言い換え案を計4回発表した。案内では「アセスメント」を「影響評価」、「スケールメリット」を「規模効果」、「モータリゼーション」を「車社会化」と翻訳し、その他170以上の外来語を翻訳している。国立国語研究所は、ただ溢れている外来語を翻訳するのではなく、その外来語への理解度を研究・分析し、国民の理解度が低いものを中心に翻訳をしているため、外来語の氾濫で懸念されている「意思疎通の障害」を補うことができると考えられる。さらに、この翻訳活動の大きな特徴は、無理な造語を用いず、既存語を組み合わせた新しい翻訳語を用いているところにあり、その翻訳語を初めて見た時の語義推測が容易であることから、非常に大衆に配慮した画期的な翻訳活動であると言える。
 また「個人が行った活動」として、新井聡は7300語に相当する外来語を翻訳した『片仮名語和改辞典』を発行した。この辞典の特徴は、これまで適当な訳語が無かったものには全く新しい翻訳語を充てたところにあり、『「外来語」言い換え提案』とは真逆の方面から翻訳活動を行っている。
 典内では「ニコチン」を「莨塩(ろうえん、“莨”は“タバコ”を表す漢字)」、「ベビーシッター」を「お子守さん」、「ジュークボックス」を「百音箱(ひゃくおんばこ)」と翻訳し、真新しい響きで大衆を魅了させるような造語を多く用いている。外来語が持っている「真新しい響き」を和語や漢語を用いて表現しているという点は、本書最大の優れた点であると言えるだろう。
 これら二つの事例から、「翻訳語を用いた翻訳活動」は現代になった今でも微量ながら行われていると言えるのである。

三 仮想現実(VR)


 
 さて、そういった活動が存在していたとしても、そこで生み出された翻訳語が一般社会に定着しなくては外来カタカナ語の氾濫は止められない。幕末・明治期において翻訳語が広く大衆に受け入れられた理由の一つに、外来語への知識が当時の民間の中で非常に乏しかったことも挙げられる。外来語への一定の知識がある現代社会においては中々翻訳語が定着しないように思えるかもしれない。個人や民間の手によって生み出された、現代における「新しい翻訳語」が世の中へ定着する事例はあったのだろうか。

 「仮想現実」という言葉は1989年頃から登場しはじめた「virtual reality(VR)」の翻訳語である。「仮想(virtual)」も「現実(reality)」も明治から存在していた漢語であったが、「仮想現実(virtual reality)」と一語で用いられた例は、国立国会図書館によれば1989年11月号の雑誌『OHM』に発表された『仮想現実感ネットワークVRNetの実現』が初出であるとされている。「仮想現実」という概念は1950年代から徐々に生まれていった現代の概念であるため、これはまさしく「現代における新しい翻訳語」の例であると言える。
 「仮想現実」という概念は次第に一般社会へと浸透し、今ではその技術が医療や販売、娯楽などの多岐に渡る分野で使用されている。それに伴い、「仮想現実」という言葉も一般社会へ広く認知されるようになった。
 そうして現在、『広辞苑第七版』には「仮想現実」の語が、「バーチャル-リアリティ」の別称として明確に記載されている。30年前に生まれた翻訳語が、令和になった今でも生きている言葉として存在しているのである。これはすなわち「仮想現実」という言葉が、「現代に定着した新しい翻訳語」としての地位を手に入れたと言えるだろう。
 現代においても「新しい翻訳語」の定着は起きているのである。

終 翻訳語の可能性


 
 ここまで、私は「翻訳語」についてその語義から置かれている現状に至るまでを述べてきた。「翻訳語」という文化が廃れかけている今、かろうじて息を繋いでいるこの言葉に私は“可能性”を見出したいと思う。外来カタカナ語が氾濫している昨今、我々はこの問題にどう対処すべきか。この問いの答えの一つに、私は「新たな翻訳語の創出」を行うことを提唱したい。
 一見無謀にも思えるこの活動は、ただ一個人が行うだけでは何も成果が上がらないかもしれない。しかし、我々一同が意識的に「翻訳語」を使用し、「翻訳出来ない言葉」を「翻訳出来る言葉」へと変えていくことによって、日本語は少しずつではあるが本来の姿を取り戻していけるはずであるのだ。
 私はこの「翻訳語」という概念が、さらに一般社会へ認知されていくことを心から願っている。
(2024年12月5日執筆 2026年4月12日改訂)

【参考文献】


・平成29年度「国語に関する世論調査」の結果の概要(文化庁)
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/r1393038_01.pdf
・平成24年度「国語に関する世論調査」の結果の概要(文化庁)
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/h24_chosa_kekka.pdf
・柳父章『翻訳語成立事情』(1982、岩波新書)
・カタカナ語の認知率・理解率・使用率【使用率順】(文化庁)
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/h14/katakana_shiyo.html
・「外来語」言い換え提案―分かりにくい外来語を分かりやすくするための工夫―(国立国語研究所)
https://www2.ninjal.ac.jp/gairaigo/Teian1_4/iikae_teian1_4.pdf
・新井聡『片仮名語和改辞典』(2009,幻冬舎ルネッサンス)
・ことばの疑問 明治期のように、外来語を表す新たな翻訳語を作るというのはどうでしょうか(ことば研究館)
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-96/
・谷卓生『VR=バーチャルリアリティは,“仮想”現実か~“virtual”の訳語からVRの本質を考える~』(2020、放送研究と調査)
・仮想現実(VR)とは?仕組みや活用例・将来性について解説(TID 東京情報デザイン専門職大学)
https://www.tid.ac.jp/contents/column/vr/
・新村出『広辞苑第七版』(2018、岩波書店)

※URLは全て2024年12月5日に閲覧

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