日航機墜落事故の光と影
1985年(昭和60年)8月12日に、日本航空123便(ボーイング747SR-100)が群馬県多野郡上野村の高天原山山中(御巣鷹の尾根)ヘ墜落しました。
それから、今年で、40年経過します。しかし、この事故には、未だに多くの解明されていない謎が存在しています。
その為に、多くの陰謀論が世の中に溢れ、事故の真実の姿が見えなくなっています。
という事で、今日は、何故、この事故に謎が存在するのかを考えていきたいと思います。
日航ジャンボ機123便墜落事故の原因
この事故で死亡した乗客は、520名。
日本では史上最悪の航空事故で、単独機の事故としては世界史上最悪の航空事故となっています。
航空機事故調査委員会の最終報告から、事故の原因は、製造元のアメリカ・ボーイング社による機体尾部修理不良と設計上の欠陥で、特に機体修理中に使用されたリベットの留め方が不適切だったことが起因となり、飛行中に圧力隔壁が崩壊して機内の与圧により、垂直尾翼及びAPU(補助電源)が吹き飛び、油圧ユニット装置(ギアボックス)が損傷し、墜落したとなっています。

この事故の発端は、1978年(昭和53年)6月2日、当該機が、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路面に接触させる事故でした。
この尻もち事故の後に、ボーイング社で圧力隔壁部品の交換を行いますが、実際の作業は指示書通りに行われませんでした。

指示書には、一枚の結合板で上下の圧力隔壁をそれぞれ2本のリベット(合計3本のリベット)で結合される所を、この結合板が下部圧力隔壁の上部で切断されており、これにより中央のリベットに応力がかかり、ここから圧力隔壁が破断したとされています。
確かに、こうした作業ミスは、目視点検時には、客室側からはシール材により、外部からは上部圧力隔壁により結合材が切断されていることを見つけるのは不可能であると推測されます。
破損した垂直尾翼は、航空機の左右へのブレを軽減し、目的の方向へ前進する際の安定性を高めるなどの役目を担っていました。そのため、垂直尾翼が損傷すると当然、航空機の飛行は不安定となり、ダッチロール(機首が8字を描く様に揺れる状態)やフゴイド(Phugoid)運動(激しい周期的な上下動)が発生します。
しかし、1964年1月10日、試験飛行中の米空軍のB52は、米国カンザス州ウィチタを飛び立ち、ロッキー山脈上空で乱気流に遭遇。そのとき、B52は垂直尾翼のほとんどを損失しますが、事故から6時間後に無事に着陸させることに成功します。
つまり、垂直尾翼を失ったとしても、即、墜落ではないということです。このB52が墜落しなかった最大の要因が、油圧系統などのコントロール機能が残っていたからです。
不幸なことに、日航機は、構造上、油圧系統が最後部に集中して配置されており、これが、圧力隔壁の破断と共に損傷し、油圧がゼロとなり操舵不能となります。
結局、日航機の墜落は、圧力隔壁の作業ミスと航空機の設計不良などの複合的な要因より引き起こされたと言うことです。
事故発生時に、室内に圧力低下による霧が一瞬発生しますが、酸素マクスが必要なほど、機内の与圧が低下しておらず、この状況から、破断はさほど大きなものではなかったと言われています。
実際、後の実証実験で、僅か4psi(Pounds per Sequare Inche / 1平方インチあたりに何ポンドの圧力がかかるかを表わすもの)の圧力差で垂直尾翼及び航空機後部が吹き飛んだと言われています。
因みに、この4psiの圧力ですが、我々が使用している単位で表すと27.58kpaとなります。車のタイヤの標準的な空気圧の1/4〜1/8程度ですが、この気圧差により、前向きの異常外力(最大値約11トン)及び下向きの異常圧力が発生し、最終的に垂直尾翼及び航空機後部が吹き飛ばしたそうです。
日航機の経路の謎
次に、陰謀論が多く語られる理由として挙げられる事項、「墜落した日航機の経路」及び、「救出まで何故16時間もかかったのか」について書きたいと思います。
この二つの謎は、多くの推測を呼び各種の陰謀論が囁かれてはいますが、これを時系列に整理しなおすと、意外と真実は、その姿を見せてくれます。
まずは、墜落した日航機の飛行経路から説明します。



一番上の図を見て判ると思いますが、クルー達は、昇降舵(エレベーター)、補助翼(エルロン)、方向舵(ラダー)といった主要な操縦系統が一切機能しなくなった絶望的な状況でも、残された4つのエンジンの推力を個別に調整する「ディファレンシャル・スラスト(推力差動)」及び使用できた降着装置(ランディング・ギア)やフラップ(高揚力装置)を使い、羽田空港へ向かいます。
しかし、右旋回して降下を始めると、PIO現象が発生し、完全にコントロール不能の状態になります。これを左旋回して持ち直そうとしますが、思った通りに高度が上昇せずに、御巣鷹の峰に衝突、墜落します。
PIO現象とは、パイロット誘導振動(PIO、Pilot-Induced Oscillation)のことで、航空機を操縦するパイロットが飛行を安定させようと操作する時に発生する現象で、操縦士の意図に反した機体のピッチ角振動現象(機首の急激な上下動)のことを指します。
以上のシナリオで考えると、飛行経路、飛行高度、東京ACCとの交信、そしてボイスレコーダーの内容全てが一致します。
空白の16時間
レーダーから機影が消えてから、実際に救助員が生存者を確認するのに要したのが、16時間と言われています。
何故、これほどの時間がかかってしまったのかを、「システム」と「装備」の面から探っていきたいと思います。
救難システムについて。
運輸省航空事故調査委員会が発表した「航空事故調査報告書」に基づいて、時系列で各部署の動きを整理すると以下の通りとなります。
昭和60年8月12日18時26分
東京航空局東京空港事務所救難調整本部(以下、「救難調整本部/RCC」という。)は、日航123便の緊急状態の発生通報を東京コントロール(東京ACC)から受領した後、同コントロール及び日航と緊密な連絡を取りながら、情報収集を開始。
昭和60年8月12日18時59分
救難調整本部は、同機の機影が18時57分に羽田から磁方位308度59海里の地点でレーダから消えた旨の通報を東京アプローチから受領した後、直ちに上記情報を警察庁、航空自衛隊入間救難調整所及び海上保安庁に通報した。
昭和60年8月12日19時01分
領空侵犯措置のため地上待機中の航空機2機を百里基地より発進
昭和60年8月12日19時15分
救難調整本部(東京RCC)は、横田TACANから305度、35海里の地点に火災を発見した旨の米軍機(C-130)の情報を横田進入管制所経由で受領した。
昭和60年8月12日19時21分
百里基地から発進した航空機は、事故現場と思われる場所に炎を確認
昭和60年8月12日19時45分
政府は、事故発生後、直ちに運輸大臣を本部長とする「日航機事故対策本部」を設置し、生存者の救出、遺体の収容に全力を尽くすことを申し合わせ、関係機関との間の連絡を密にすることとした。また、運輸省においても、事故発生後、直ちに事務次官を長とする事故対策本部を設置した。
昭和60年8月12日19時54分
防衛庁は、より正確な位置確認のためV107ヘリ(バートル)とMU2S救難捜索機を発進させる。
昭和60年8月12日20時00分
警察庁は、庁内に「8.12日航機墜落事故対策本部」を設置するとともに、墜落地点の可能性があると考えられる県を管轄する群馬、長野、山梨及び埼玉の各県警察に対し、墜落現場の確認、捜索及び情報収集等を、警視庁、埼玉県警察及び静岡県警察等に対し、機動隊及びヘリコプタ等の支援を指示した。同指示に基づき、各県警察等は、早期に指揮体制を確立し、8月12日から13日にかけ、夜を徹して墜落地点の確認、捜索及び情報収集活動を展開。
昭和60年8月12日20時33分
東京空港事務所長は航空自衛隊中部航空方面隊司令官に対し災害派遣要請を行った。
昭和60年8月12日20時42分
航空自衛隊のV107ヘリ(バートル)が、現場上空に到着。防衛庁では、直ちに航空自衛隊、陸上自衛隊に対し、墜落位置の確認、災害派遣準備及び情報収集活動等を指示。
昭和60年8月12日21時30分
陸上自衛隊東部方面総監に対し災害派遣要請を行った。陸上自衛隊東部方面隊は、8月12日から13日にかけ、夜を徹して墜落したと推定される場所への部隊の移動、ヘリコプタを使用しての墜落地点の確認、捜索及び情報収集活動を展開。
これを図示すると以下の通りとなります。

最初に東京ACCが、日航機の墜落を確認、その情報に基づいて東京RCCが立ち上がり、監督省庁である通産省へ通告、その後、警察庁、自衛隊、海上保安庁、消防庁、関係県知事及び日本赤十字へ支援を要請するとともに情報を共有します。
その後は、政府官邸内に開設された「日航機事故対策本部」が、全ての関係部署を統括し、事故機の発見と救助を行います。
ここに何故、米軍が入っているかと言うと、これは全くの偶然であり、 日航機123便が墜落したのが、この横田基地が管制している横田空域内であったため、

そして、沖縄の嘉手納空港を離陸して、横田基地に向かっていたC-130輸送機が、たまたま日航機の墜落現場を確認したためでした。
人道的見地から、米軍は、C-130からの情報を横田TACANが入手し、この情報を横田空域を統制している米軍の横田侵入管制所RCC(救難センター)が、東京ACC(東京空域管制所)へ通報したと言うことです。
更に、入間航空自衛隊にあるRCC(救難センター)に通報します。航空自衛隊には、救難専門の部隊である救難団がありますが、この事故の時点では、入間ではなく百里に部隊が移動していたことから、その後の捜索には、百里の救難団が動くこととなります。
米軍は、日本側に通報するとともに、座間にいる在日米陸軍航空大隊所属の救難隊を現地へ派遣します。しかし、現場に到着した時には、すでに自衛隊のヘリが飛行しており、救出に関して優先権を持たない米陸軍のヘリは、コミュニケーション不足による接触事故を恐れ現場を離れます。
これが、公式記録文書に記載されていることです。
これから推測されることは、当時としては、最善の事故対応が取られていたと思います。
しかし、事故の10年後の1995年に「アントヌッチ証言」と言うものが、出回ります。
これによると、日本の政府又は自衛隊が、日航機123便の救難を断ったとあります。これにより救える命が救えなかったと訴えています。
この「アントヌッチ証言」は、日本の報道機関で取り上げられますが、この証言を裏付ける文書や事実等は、未だに見つかっていません。
また、証言では、現場に19時15分に到着して、20時30分まで墜落現場上空にいたとされていますが、この時間には、すでに緊急発進した航空自衛隊のF-4戦闘機が上空近くを飛行しており、これについては一切説明がされていません。
航空自衛隊のF-4戦闘機2機は、横田空域を飛行すると言うことで、横田ACC及び横田タカンと交信をしており正確な位置を掴んでいたので、C-130の近くを飛行していたはずです。
また、横田タカンは、航空自衛隊の戦闘機2機が向かっていることをC-130に通告しているはずであり、C-130のナビゲーターであるアントヌッチ氏が、これを認知していなかったとは到底考えられないことです。
何故なら、プロペラ機で低速の輸送機に、高速の戦闘機が近づいているのであれば、当然、安全のためにコンタクトをとるはずですが、証言からアントヌッチ氏の証言では、一切この記述がなされていません。
更に、証言のなかで、航空自衛隊がF4戦闘機を保有していないと書かれており、これが航空自衛隊の戦闘機と全く交信していない確固たる証拠となっています。
しかし、真実は、間違いなく百里基地所属の航空自衛隊のアラートの為に待機していたF-4戦闘機2機が、19時21分に墜落現場上空を飛行しています。
この証言の内容によると、航空自衛隊が現地に航空機を派遣したのが、21時以降としています。
実は、この時間は、東京空港事務所長が航空自衛隊中部航空方面隊司令官に対し災害派遣要請を行った時間から推測したのであろうと思いますが、実際には、この災派の要請前に航空自衛隊は、航空自衛隊のサイト(空自峯岡山分屯基地「峯岡山レーダーサイト」)のレーダーから、日航機の機影が消えた時点で、当時の自衛隊災害派遣法では認められていない「見切り発車」の状態ですが、既に動き始めていました。
後に、このことについては、政府は国会で正式に認めています。(19時1分に出発し、19時21分に現場に到着)
恐らく、アントヌッチ氏は、これを知らなかったのではないかと思われます。
日本の運輸省航空事故調査委員会(現・運輸安全委員会)が1987年に公表した報告書は、原則として日本語で作成されています。
しかし、事故の国際的な注目度の高さから、英語版の翻訳資料も作成され、特定の研究者や機関によって公開・複写されていますが、この情報は、海外では一部の専門家しか知らない事項でした。
ここでは、この証言の真偽について述べるつもりはありませんが、その判断は皆さんに委ねます。
装備面から見た救助の遅れの原因
日航機123便の航空事故報告書を読む限りでは、大まかな墜落場所の特定は、凡そ2時間〜3時間で出来ています。
では、何故、そこから更に救助が12時間遅れたのか?
これに関係しているのが、「装備」面でした。
救助が遅れた最大の原因が、墜落事故が発生したのが日没後で周囲に人家がなく暗闇であったこと、そして、高い尾根が連なる険しい地形で地上から墜落場所の特定が難しかったことです。
自衛隊といえども、当時の装備では「夜間」に行動することのできる航空機を有していませんでした。更に、救助に必要なホイストを有するヘリコプターさえあまりない状態です。(この事故後に、予算が分配され、自衛隊の夜間装備が大きく変わります。)
ましてや、暗視ゴーグルやGPS装置さえもなく、ヘリからは現場が特定できますが、地上の自衛隊や警察及び消防団などの誘導には、失敗してしまいます。また、ヘリからの情報も間違って伝えられ、地上の関係者の混乱さえ引き起こしてしまいます。
結局、深夜近くに二次災害を防止する為に、空中からの救助は、日の出まで一時中断されます。
奇跡の生存者発見
8月13日04時39分、陸上自衛隊のヘリが、日航機の残骸を発見し、墜落現場を確認します。同じく、8月13日05時37分ごろ長野県警察ヘリコプタが日航機の残骸を発見し、墜落現場を確認し救助が本格的に動き出します。
当初は、陸上自衛隊のヘリからラペリングで75名の空挺隊員が現場に降り立ち、状況を確認します。
空挺隊員達は、ヘリが降りれる様に急拵えのヘリポートを開設します。また、地上からは地元消防団や自衛隊の部隊が集結し、本格的に生存者の捜索を開始します。
そして、現場の状況から、生存者はいないと考えられていましたが、関係機関等の捜索隊が協力して救出活動を行うなか、広範囲に残骸が散乱しているスゲノ沢第3支流において、地元の消防団により、4名の生存者が11時40分ごろまでに約4メートル×4メートルの範囲の残骸の中から救出されます。
生存者発見の知らせにより、赤十字の医師が、ホイスト装置を有している警察のヘリから現場へ降り立ち、生存者の状態確認及び現地でできる応急処置を行います。
生存者全員は、13時29分、陸上自衛隊の大型ヘリコプタで墜落現場から上野村総合グラウンドに空輸され、応急手当を受けた後、2名ずつ前記ヘリコプタ及び東京消防庁ヘリコプタによって上野村総合グラウンドから藤岡市立第一小学校グラウンドに空輸され、その後、2台の救急車によって14時13分及び14時17分藤岡市内の病院に収容されます。
最後に
確かに、この事故を検証すると、例えば、何故、圧力隔壁の作業ミスが発生したのか、本当に事故の起因が垂直尾翼ではなく圧力隔壁だったのかなど、多くの謎が未だに残っています。これは、事故当時に事故の原因を徹底的に究明するよりも、犯人探しを優先させてしまったことにより、アメリカ側の態度を硬化させ、日本との共同捜査が拒否されたためです。
ただし、事故調の最終報告については、世界最高峰の事故調査機関であるアメリカの国家運輸安全委員会(National Transportation Safety Board , NTSB)は、その内容が正しい事を認めています。
悲しいことに、日航ジャンボ機事故から2025年8月12日で40年たった現在でも「自衛隊がミサイルを誤射した」「撃墜の証拠隠滅を図るため乗客らの遺体を焼却した」など日本航空機墜落事故を巡り、自衛隊の関与を指摘する「陰謀説」が書籍やインターネット上などで流布されています。
ベストセラーになる書籍もある中、中谷防衛大臣は、今年の4月10日の参院外交防衛委員会で「自衛隊の関与は断じてない」と明言し、厳格に対応する考えを示しています。
また、昨年には事故現場への登山道に犠牲者の名前と「自衛隊が意図的に殺害した乗客・犠牲者」などと記された「慰霊碑」の設置が確認されるなど、「陰謀論者」達は、確固たる証拠もなく、推測のみで自衛隊を非難し、捻じ曲げられた真実を、一方的に御巣鷹山の登山者に押し付けています。これが、民主主義の国民がすることか、と悲しくなります。
これら行為は、犠牲者は勿論のこと、犠牲者の家族を傷つけるものであり、同時に、犠牲者を家族に合わせる為に肉体的及び精神的にも過酷な墜落現場で作業した関係者を冒涜する行為であり、断じて許されることではないと個人的に思っています。
今我々がなすべきことは、根拠のない又は切り取りによる推論で作られた陰謀論に囚われて、真実を歪め、興味本位で囃し立てるのではなく、事故が再び起こることのない様に、安全運行システムそのものを常に注視し、航空機の安全運行を促すことだと確信しています。
悲惨な事故から40年が経過して、事故そのものが風化しかかっています。特に当事者である日航は、最近不祥事が頻発し、業務改善命令が出される状況となっています。
今一度、日航の社員のみではなく、国民全体で輸送手段の安全について考えるべきであると思います。
再び、悲惨な事故が起こらないことを願って。
最後に、「日航機墜落事故40年 墜落機発見のパイロット 初証言「今でも脳裏に刻まれている」…事故はなぜ起きた?修理ミスめぐる警察と日航の“攻防”の記録【news23】」を添付しておきます。
全部で13分23秒の動画ですが、私が言いたかったことが、すべてこの番組に集約されています。
