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『成瀬は天下を取りに行く』①前編――説明されない行為と、現代的ヒロインの成立

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はじめに

最近は、三島由紀夫の作品を取り上げることがメインでした。
彼の作品は倫理、純粋、死、美──そうした重たい主題を、否応なく読者に突きつけてくる作品群です。

そもそも私がnoteへの投稿を始めた動機のひとつは
現在の小説がどのような位置に置かれているのかを知り、
どうせなら、その感触を言葉にして発信してみたいと思ったからです。

書店に足を運ぶことは多いです。
そのたびに、宮島未奈さんの成瀬シリーズは、店先の目立つ場所に並んでいました。
ただ正直に言えば、ラノベのようにも見えるタイトルと、アニメ的な表紙の雰囲気に、どこか身構えてしまい、これまで手に取らずにいました。

が、食わず嫌いも良くないと思い、まずは1冊購入してみることにしました。

ところが、近所のカフェで読み始めてすぐ、私は不意に笑ってしまいました。
しかも一度ではありません。
人前で読むには、やや危険なタイプの小説かもしれません笑

今回は、その「笑ってしまう小説」について書きます。

まずはあらすじ

『成瀬は天下を取りに行く』
大津市に住む中学生の成瀬あかりは、「西武百貨店が閉店するまで毎日通う」「M-1に出る」「坊主頭にする」など、突飛とも思える目標を淡々と実行していく少女。
物語は、成瀬の親友・島崎みゆきや周囲の人物たちの視点を通して進み、
成瀬の行動が、周囲に戸惑い・困惑・軽い羨望を生みながらも、次第に肯定されていく過程が描かれる。

◾️成瀬あかりという“現象”

『成瀬は天下を取りに行く』の主人公・成瀬あかりは、中学生の少女です。
彼女はある日、以下のようなことを唐突に宣言します。

──西武百貨店が閉店するまで、毎日通う。
──M-1グランプリに出場する。
──坊主頭にする。

どれも突飛で、現実的とは言いがたい目標です。
しかし成瀬は、それらを冗談めかすこともなく、誇示することもなく、淡々と実行していきます。

物語は成瀬自身の内面からではなく、
親友の島崎みゆき、同級生、近隣に住む大人たちなど、
周囲の視点を通して描かれていきます。

成瀬は「理解される」存在ではありません。
だが、無視されることもありません(無視することができない)。
彼女は、周囲の人間の生活に、わずかな歪みや揺らぎを生じさせてしまう。

成瀬あかりは、人物というよりも、ひとつの現象として立ち現れています。

◾️ファニーで、シュールで、しかし異様にまっすぐ

この作品は、単純に面白いです。
それはファニーな意味でです。

成瀬の発言や行動はいつもシュールで
それを受け止め続ける親友・島崎との掛け合いは、ほとんど漫才のようでもあります。
実際、漫才を題材にした章では、出先にも関わらず、思わず声をもらして笑ってしまいました。

ここ数年、私はほとんど漫才を見ていなかったこともあり、
それだけにこの軽やかなテンポは新鮮でした。

三島由紀夫や、いわゆる純文学的作品に慣れた読者からすれば、
この小説はあまりにも「軽い」と感じられるかもしれません。

倫理的葛藤は強調されず、思想的主張も前面には出てきません。
悲劇も、決定的な破滅もありません。

だが、その軽さは空虚さとは違う。
むしろこの作品は、異様なまでにまっすぐなのだ

◾️「考察できない小説」という誤解

正直に言えば、多くの読者にとってこの成瀬シリーズは、
「考察のしようがない大衆小説」に見えるでしょう。

登場人物は善良で、物語は穏やかに進み、
世界は基本的に優しい
そこには、いつも私が書いているような哲学・思想を持ち込む余地がないように思えます。

しかし私は、むしろ逆だと感じました。

この小説は、思想を語りません。
しかし、そのかわりに、読者の価値観に直接「触れてくる」

成瀬は何かを主張しない
誰かを導こうともしない
それでも、彼女の行動を見ている周囲の人間は、
少しずつ、自分の生き方を揺さぶられてしまう

それは、静かで、目立たず、しかし確実な作用です。

◾️「立派」という価値は、本当に消えたのか

以前、私は『潮騒』の書評の中で、
「令和の時代において「立派」という価値規範は消失した」
と書きました。

そこでは、「立派であること」がもはや社会的報酬を伴わず
むしろ滑稽さや不器用さとして処理されてしまう現状を指摘しました。

・ 勤勉であること
・ 誠実であること
・ 仲間や弱い者を裏切らないこと
・ 自分の役割を引き受けること

これらは、かつては明確に「立派」と呼ばれていた資質です。
しかし現代社会では、それらを測る共通の物差しが存在しません。

評価は相対化され
規範は細分化され
「立派さ」は数値にも物語にも還元されなくなりました。

その結果、立派であろうとする態度そのものが、
どこか時代遅れで、空気の読めない、居心地の悪いものとして感じられます。

──少なくとも、そう見えていた

が、実際はそうではありません。

令和の社会において『立派』という規範は
確かに明示的な規範として語られなくなりました。
しかし、語られないがゆえに、潜在化したのだと感じてます。

どこかで人は、
「本当は、こうありたい」
「こう生きられたらいいのに」
という憧憬を、まだ手放してはいません。

ただ、それを正面から口にすることが気恥ずかったり、もしかしたら危うくなってしまっただけなのです。

成瀬シリーズを読んでいて私が感じたのは、
その潜在していた感覚が、
きわめて無防備なかたちで呼び起こされる、ということです。

成瀬あかりは、「立派になろう」とは一度も言いません。
誰かの模範になろうともしない
社会をよくしようという大義すら彼女は掲げない

それにもかかわらず、
成瀬の行動は、周囲の人間にとって、どこか「立派」に見えてしまいます。

それはなぜでしょうか。

成瀬は、価値を語りません。
代わりに、生き方をそのまま差し出します。

彼女の行為は説明されず
正当化もされず、意味づけも読者に委ねられます。

だからこそ周囲の人間は
自分でも理由のわからない違和感や羨望を覚えてしまいます。

ここで重要なのは
成瀬が「立派であろうとしていない」という点である。

立派さが目的化された瞬間、
それはすぐに欺瞞やポーズになることが多々あります。
成瀬は、その一歩手前に留まり続けます。

この曖昧さ、この無自覚さこそが
現代における「立派さ」の成立条件なのかもしれない。

そして、この問いは成瀬シリーズだけに留まりません。

◾️次回予告

それでも、令和は「立派さ」を欲している

近年、多くの若者に支持され、社会現象にまでなる物語作品が現れています。
そこでは、仲間を守り、弱き者を助け、逃げずに自らの信じる道を貫く登場人物が描かれ、人々の心に深く残ります。

しかし一方で、現代社会では「立派さ」は目に見える形で評価されることは少なく、規範も曖昧です。

次回は、こうした現象を手がかりにして、令和という時代において「立派さ」は本当に消えたのか、もう少し広い射程で考えてみたいと思います。

成瀬あかりのような存在は、私たちの心にどのような「立派さの可能性」を示しているのか――。

続き書きました↓


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