東方イスラーム世界③

セルジューク朝の統治体制

・アルプ・アルスラーン以後に領土が拡大すると中央集権国家に。
・遊牧民の政治観は、支配権は王族全体に帰属する。
・族長位も長子相続という規則はない。
・伝統的に、戦利品が俸給。
・広大な領土を継続的に支配するには常備軍が必要に。
・俸給の必要性もここから発生。
・スルタンは一族の反乱を抑える為、トゥルクマーン以外の民族を軍に編入。
非トゥルクマーンのトルコ系、ダイラム、グルジア、クルド
・これらの兵にイクターと現金給与。
・12世紀以降はスルタンも王子も兵の確保の為にイクターを家臣に授与。
・そこで将軍は地方で独立傾向を深めた。

・セ朝も遊牧民王朝として首都を持たず、季節に応じて移動。
・宮廷や官庁も一緒に移動。
・有力なアミールは王子の養育係に。
・王の死後は王子の後見役。
・未亡人と結婚することも。
・よってスルタンの死後の後継争いには妃や養育係も干渉。

・首相の下に4つの部門とその長官が置かれた。
財政、文書、軍事、地方監察
・アッバース朝やガズナ朝の体制を継承したもの。
・首相は内政と財務の総責任者。

セルジューク朝の分裂

・1092年にマリク・シャーは死去。
・その妻は4歳のマフムードを即位させた。
・兄のバルキヤールクや叔父のトゥトゥシュは反発。
・内紛状態に。
・地方ではイクターとして割譲される領土が増加。
・北イラクでは養育係に率いられた独立領が拡大。
・1098年にシリアには十字軍。
・セ朝スルタンもア朝カリフも有効打を打てず。
・在位:1105~1118年のムハンマドの治世には安定を回復。
・在位:1118~1157年のサンジャルの時代はイラク領で後継争い。
・イラン領は安定。
・1127年にジャズィーラではザンギー朝が独立。
・アサド族のマズヤド朝も勢力を拡大。

・カリフも軍事力を回復し、スルタンに対抗するように。
・在位1136~1160年のムクタフィーはアルメニアや希の奴隷軍人を購入。
・1152年にスルタンのマスウードが死去。
・そこでバグダードのシフナ職を追放。
・スルタンの宮殿や領地も没収。
・在位:1180~1225年のナースィルも軍を保持し、セ朝スルタンに対抗。
・カリフは「神の代理」としての理念を掲げる。
・民衆組織も組織し、カリフによる統治を目指した。
・2人のカリフの下で首相を務めたイブン・フバイラとその息子が復権を後押し。

・バグダードではティグリス川東岸に宮殿が建造。
カリフやブワイフ朝、セ朝のもの
・西岸に代わる中心に。
・11世紀以降は暴力や自然災害によりバグダードは荒廃。
・西岸は防壁で囲まれた街区が点在するだけに。

・サンジャルの晩年にはイラン領が反乱で疲弊。
・1194年、カリフのナースィルの招聘でホラズム・シャー朝が西進。
・スルタンがレイで敗死し、セ朝は滅亡。

カリフとスルタン(中世の政治論)

・カリフによるスルタン位の授与は、二頭体制の始まりとされる。
カリフ:宗教的権威
スルタン:政治的権限

・カリフがムハンマドから受け継いだのは政治的権限のみ。
・宗教の教義への決定はウラマーの合意に委ねられた。
・カリフは自らの統治権をスルタンやアミールに委譲したと言える。

・回教法を弁えない軍人が統治権を握ることの是非が議論に。
・マーワルディーは、支配者が回教法に則って統治する限り、その統治を承認すべきと説いた。
・セ朝時代のガザーリーはウンマの秩序維持に当たるスルタンをカリフは無条件で承認すべきとした。
・軍事的現実を踏まえた議論だが、ウラマーの参政権を裏付けることにも。

・軍人君主はイランの理想君主論や哲学者の理想国家論を援用。
プラトンの理想国家論も下敷きに。
・具体的な政策論は欠如。
政治は支配者の倫理の問題として説かれることに
回教の信仰にも関わらず、儒教国家と変わらない政治思想が形成されたことは興味深い。)

スンナ派法学とスーフィズム

・セ朝はファ朝との対抗関係からスンナ派ウラマーの保護を図った。
・マドラサには学生の寄宿舎も。
・法学教育が主だが、神学も開講。
・創設者の寄進財によって経営。
・その収益から教授には給与が支給。
・学生の衣食住も。
・バグダードにはニザーミーヤ学院の他、カリフもマドラサを建築。
ムスタンスィルがムスタンスィリーヤ学院
・11世紀以降、マドラサの建築はシリアにも拡大。
・これによりウラマーはマドラサを遍歴し、その後に教授などの職に。
軍人支配者はマドラサの建設・寄進を通じて特定のウラマーとの関係を深めた

マドラサは一般に法学派を特定して建設されることが多かった
・法学派の勢力と結び付いた。
・ハナフィー派はトゥグリル・ベクやアルプ・アルスラーンの支持を獲得。
商業に寛容な学派
・イラン~央亜に拡大。
・シャーフィイー派は埃~シリア・イラクに拡大。
・ニザームの支持を獲得。
・ニザーミーヤ学院ではアシュアリー派神学とシャーフィイー派法学が重んじられた。
・ハンバル派はバグダードやダマスクスで熱心な支持者を獲得。
法源をコーランとハディースに限定
・ムスタンスィリーヤ学院ではスンナ派4つの法学派全ての教授が置かれた。
・病院や浴場などの施設も完備。

・法学派は宮廷や都市に支持者。
・農村ではスーフィズムが浸透。
「スーフ」:亜語「羊毛」
・羊毛で出来た粗衣をまとった。
・禁欲と敬虔が旨。
・修行によって神との合一を求める人物が「スーフィー」。
・思想自体を神秘主義と呼んだ。
・9~10世紀に神秘主義は形成された。
・修行には階梯が設定された。
・その究極の境地として、自己の意識が消滅し、神と一体化した忘我の体験が得られるとされた。
・この境地に至った者が「シャイフ」=「師」。
・弟子はその指導の下に修行を積む。
・師は神に近づき、特別な力を授かった聖者として民衆の崇敬を受けた。

・クシャイリーはニーシャープールでの法学派の抗争から逃亡。
・バグダードではカリフのカーイムにハディースを教授。
・神秘主義の著作も著す。
・スーフィズムの実践と回教法との調和を図った。
・ガザーリーは穏健なスーフィズム思想を作り上げた。
理性に基づくスンナ派神学との調和を図った
一般的なスーフィズムは汎神論的
・組織面では修行場が各地に建設。
・師を仰ぐ教団が結成された。
・教団では始祖からの師弟関係を示す系図が作られた。

マフムード・カーシュガリーとトルコ民族

・840年の遊牧ウイグル・カガン国が内紛とクルグズの攻撃で滅亡。
・これ以降、トルコ民族の活動の主な舞台は北亜から央亜に。
・10世紀後半にカラハン朝。
現在のカザフスタン~中国領
・この王朝の領域を中心にトゥルキスターンと呼ばれていた。

・カラハン朝の支配層を嚆矢に回教への集団改宗を開始。
・1077年頃のバグダードにマフムード・カーシュガリー。
カラハン朝の王族出身と見られる
・亜語で「トルコ人の言語集成」を著す。
セルジューク朝の西亜進出以来高まっていた一般の関心に応える目的で
・当時トルコ人は20の部族集団に分かれた。
・ビザンツ帝国の国境~中国内地の広大な範囲に分布。
・回教への改宗者も未改宗者も。
・ト人は皆ヤペトの子孫であるとしている。
創世記に登場するノアの子供
・彼以後もト民族の歴史を回教徒が書くときに必ず引用される伝説。
・当時流通していたハディースに依拠し、ト人の民族の優越性も説いた。
ト人は神自身によって東方に場所を与えられた神の軍隊

・14世紀の蒙古時代以降に土語文学は現れる。
・長らくト人がイランの文化的優越を受け入れたことが要因。

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