イスラーム世界の成立②

第1次内乱とハワーリジュ派

・644年11月、ウマル1世はメディナで、ある男の奴隷の基教徒の私怨で刺殺。
・ウマルが死の直前に指名した6人の古参回教徒による互選でウスマーンが3代目カリフに。
・650年、マクラーンのジールフルト、ホラーサーンのメルヴを制圧。
・翌651年にヤズドギルド3世は逃亡先のメルヴ近郊ムルガーヴ川で住民の1人に殺される。
=ササン朝の滅亡
・646年頃、シリア総督ムアーウィヤがカエサリアに艦隊を創設。
・649年にキプロス島を占拠。
・654年にロードス島を占拠。
・翌655年に埃艦隊と共に帆柱の戦いでビザンツ海軍に大勝。
・以後、ビ海軍と東地中海の覇権を争うように。
・647年に埃のアラブ軍はチュニジアに到達。
・上埃からヌビアへも遠征。

・ここまでが初期の征服の限界。
・人的損傷、住民の頑強な抵抗、自然の障壁が障害となった。
・これにより、アラブ諸部族は自らの内的地位を顧みるように。
・以前は遊牧生活者だったことから急な都市生活には馴染めなかった。
・戦利品の一部の上納やメディナからの統制も嫌われた。
・一般の戦士の俸給は古参回教徒に比べれば少額。
・特に大征服の過程で砂漠から持続的に流入してくる新参において顕著。
・多くの回教徒は征服が齎した富や権益により世俗化。
・古参回教徒も例外でない。
(ペロポネソス戦争でのスパルタ市民の経過と同じ。)
・利己的な利益追求に走り、その一部は財閥化。

・ウスマーンは有能な「自分の出身家系=ウマイヤ家」の者を各ミスルの総督に任命。
・行政の合理化が意図だったが、彼らは自らの権益を拡大し政商に。

・ウマイヤ家はムハンマドのメッカ征服までは敵対していた経過も。

・656年6月、ウスマーンはメディナの私邸で刺殺
・埃から入来し、回教の理念の社会・政治への反映を直訴した一団による。
・メディナの古参回教徒の多くの推薦で4代目カリフはアリーが宣言。
凶行の一団も推薦者に含む
アリーはムハンマドの従兄弟で娘婿
古参回教徒の重鎮、タルハとズバイルは抵抗
・ムハンマドの未亡人の1人、アーイシャも巻き込んで反旗。
・656年12月、ズバイルの勢力地、バスラ近郊で決戦。
・この「駱駝の戦い」はアリー軍が勝利。

・平定後、アリーはメディナからイラクのクーファに遷都。
・ウスマーンの各総督を更迭。
ウスマーンのシリア総督でウマイヤ家のムアーウィヤがこれに抵抗
・ウスマーンのはとことしての復讐と、不法にカリフを宣言した者への正義の戦いを訴える。
・657年7月、アリーのイラク軍とムアーウィヤのシリア軍が決戦。
=スィッフィーンの戦い
・戦局は膠着し、ムアーウィヤ側は調停会議を提案。
・アリーは同意。

・クーファへの帰還の途上、軍の一部が敵との妥協がコーランに反することに気づく。
49章9節
・アリーにシリア軍との戦闘を再開するよう要求。
・アリーは拒絶。
・このイラク軍の一部はアリーと分かれ、付近のハルーラーに留まった。

・和平協定によりアリーはシリア・アラビア国境の町に全権使節を派遣。
=ドゥーマ・アルジャンダル
・このとき、ハルーラー軍の主張に応じてクーファから3000~4000人の兵士が脱出し、合流。
・以後、彼らはこの時の脱出に因んで「ハワーリジュ派」と言われる。
=「脱出者たち」
・ハワーリジュ派は自分たちのカリフを選出。
・バグダード東北のナフラワーンに移住。
・その論理と信条:
回教の理念を政治に反映しない政体の容認は悪政の容認と同義。
そうした政体は回教徒は無縁。
よってそうした政体は破棄されるべき。
これを容認したムアーウィヤ一派とこれと妥協したアリーは最早カリフではない。
そうした政体に留まる回教徒も認められず、異教徒である。
これらとの戦いが聖戦。
・こうした信条を元に、一般の回教徒相手にも非妥協的な戦闘を繰り広げていく。

・658年2月、ドゥーマ・アルジャンダルで第1回調停会議。
・659年1月、ヨルダンのアズルフで第2回調停会議。
・恐らく658年7月にアリーはナフラワーンに夜襲。
・約500人を残してハワーリジュ派を討滅。
・これより前に、アリーは説得を何度も試みた。

・660年、ムアーウィアはイェルサレムでカリフを宣言。
・661年1月、アリーは生き残ったハワーリジュ派の1人が暗殺。
・これによりムアーウィアが唯一のカリフになり第1次内乱は終結。
・これが正統カリフ時代の終幕に。
・「正統カリフ」は「神によって正しく導かれたカリフたち」の意味。
ウマイヤ朝とは違い、少なくとも理念が政治に反映されていたという後世の回教学者による名称
(明らかに実態とは異なる。回教徒は世俗化した。)

ウマイヤ朝の成立とカルバラーの惨劇

・661年7月、ムアーウィヤはダマスクスにウマイヤ朝を開く。
・14代のカリフ全員がウマイヤ家出身であることからこう呼ばれる。

・ムアーウィヤはディーワーン制度を拡充し、行政の官僚化を実行。
租税庁=ディーワーン・アルハラージュ:
租税の徴収
文書庁=ディーワーン・アッラサーイル:
公文書の作成
封緘庁=ディーワーン・アルハータム:
印璽の管理
軍務庁=ディーワーン・アルジュンド:
戦士の登録と俸給の支給
・また、ムアーウィヤは警察=シュルタも創設。

・幾つかの総督・官吏にはウマイヤ家一門を任命。
・「シリア砂漠の有力部族=カルブ族」のマイスーンを妃に。
・シリアの戦士の俸給を増額。
・これらの措置でシリア人の忠誠を固めた。

・征服戦争も再開。
・669年にシチリア遠征。
・672年、ロードス島を再征服。
・674年、クレタ島征服。
・670年、チュニスの南にミスルとしてカイラワーン市を建設。
・以後、ここが北弗征服の根拠地に。
・679年、コンスタンティノープルを攻撃。
・671年、イラク総督ズィヤードがクーファとバスラの戦士とその家族5万人をホラーサーンのメルヴに転住させる。
・以後、メルヴが央亜遠征の拠点に。

・680年、ムアーウィヤは死去。
・その晩年に、諸州の有力者を脅迫して、実子のヤズィードの継承を認めさせていた。
・これにより、順当にヤズィードがカリフを継承。
・しかしムアーウィヤの死はそれまで言動を封殺されてきた人々に機会を与えた。
・特にクーファのシーア派にとっては大きなものだった。

・シーア派の起源は直接的には第1次内乱の両派の戦いが由来。
・体制派となったムアーウィヤ派は最早派閥ではなくなった。
・反体制派となったアリー派が単にシーア派と呼ばれるように。
・よってムアーウィヤの死は天恵と取られた。
・メディナに隠棲していた「アリーの第2子=フサイン」にクーファへの移動を催促。
=ムハンマドの孫
・当初、フサインはこの要請を固辞。
・しかし、再三の要請に折れ、100人弱の小隊でクーファへ発進。
・クーファ総督=ウバイド・アッラーフはシーア派やフサインの動向を把握していた。
・680年1月10日、総督軍4000人により、一行のクーファ入城を阻止。
・ユーフラテス川西岸のカルバラーで包囲攻撃を受ける。
・女性と子供を残し、全員戦死。

・預言者の血を引くフサインの惨死は回教徒に永く記憶されるように。
・特にシーア派にとってはアイデンティティの原点に。
・今日でも1月10日はフサイン追悼祭。

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