062.不運はまだ"偶発に戻せる"(前編)〜無理に伏線回収しない
人生は編集可能。でも、その前に立ち止まれ
以前の記事で、僕はこのように書いた。
人生は、起きた出来事そのものではなく、その解釈を編集してできている
同じ出来事でも、どこに字幕を入れるか、どこを切り取り、どこを残すか、どんなナレーションを重ねるかで、人生の物語はまったく違うものになる。人生は、一本の完成されたドキュメンタリーではない。むしろ、何度も"今の時点"から編集され続ける未完成の映像素材に近い。今回は、その話のさらに手前に戻ってみたい。
編集の話をする前に、そもそも僕たちは人生という「素材」をどう扱っているのか。出来事が起きた"その瞬間"、どんな操作をしてしまっているのか。今日はそんな話をしてみたいと思う。
苦労が報われる話は、なぜ安心するの?
「Googleでは、学歴よりも"人生で苦労したかどうか"が重要らしい」
こんな話を、一度は聞いたことがあると思う。「努力と挫折が報われる」、「苦労した人が評価される」・・・どこか安心するし、納得感もある。
この話のソースを辿ると、元Google人材開発担当のピョートル・グジバチさんのインタビューに行き着く。いわゆるGoogle公式の統計研究ではない。だから、ここを過剰に一般化するつもりもない。
ただ、ひとつだけ気になる点がある。この話を「苦労=価値」「不運=あとで報われる」という単純な成功物語として読んでしまうと、何か大事なものを取りこぼしてしまう気がした。
そもそも、挫折や苦労はしんどい
そもそも、挫折や苦労はしんどい。
・自信は削られるし
・将来も見えなくなるし
・うまく言葉にもできないし
挫折した瞬間に、「これは将来の糧になる」なんて思える人は、ほとんどいない。同じような挫折を経験しても、そこから何かを見つける人もいれば、自分を責め続ける人もいるし、何も語れなくなる人もいる。
違いを生んでいるのは、出来事そのものではない。Googleで評価されていたとすれば、それは「苦労したかどうか」ではなく、その出来事を、どんな状態で引き受け、どう扱い、どう次の行動につなげたかというプロセスだったはずだ。
この時点で、この話はもう『運の良し悪し』の話ではない。
何か良いことが起きたとか、運が味方したという話ではなく、偶然な出来事と、どう関係を結び続けたかという話になっている。
「無駄は、無駄のままでいい」という抵抗
その違和感を、とてもはっきりした言葉で表現していたのが、お笑い芸人:髭男爵の山田ルイ53世さんだった。山田さんは、かつてのひきこもり生活についてはっきりとこう語っている。
「あの時間は、無駄でした」
本人が思う分には、その経験が美談であろうが無駄であろうが、どっちでもいいと思います。ただ、周りの人間が「いやいや、あのひきこもり経験が、期間があったからこそいまの君が…」と言うのはちょっとね。
なんでも美談にしたがるバイアスが、この世に満ち溢れすぎてる。そして、その経験を「今につながる意味のある時間だった」と無理やり美談にする風潮が、当事者をかえって苦しめることがある、と。
この発言は、とても強い。
なぜなら、本人が"無駄だった"と言っている時間を、他人が勝手に"意味ある時間"に変換してしまう、そんな構造に、明確に抵抗しているからだ。
成功談は、後からいくらでも作れてしまう
成功した人の過去は、あとからいくらでも「物語」にできる。失敗は伏線にされ、無駄は「必要な遠回り」に書き換えられる。でも山田さんは、そこに立ち止まった。
「無駄は、無駄だった。失敗は、失敗だった。」
それでもいい。それを無理に回収しなくていい。成功だけでなく、失敗や負けの経験も語られるべきだという山田さんの姿勢は成功至上主義に対する、静かな、でも強いアンチテーゼだよね。
セレンディピティは、幸運の話じゃない
ここで、セレンディピティの話をしたい。
セレンディピティという言葉は、「偶然の出逢い」とか、「思いがけない幸運」と訳されたり、そういう文脈で使われることが多い。でも、この理解にはずっと違和感があった。
なぜなら、"幸運だけを扱う"セレンディピティは、僕には現実的に思えない。人生には、嬉しい偶然だけでなく、望まなかった出来事や、避けたかった出来事、報われなかった時間も等しく起きる。それらをすべて「あとで意味があったこと」にしてしまうと、人生は一気に嘘っぽくなるし、それは人生そのものの話ではなく、美化されすぎた成功談の"短編集"みたいになってしまう。
不運を、偶発に戻す
少し整理してみる。
【偶発】 起きた事象そのもの(価値はまだ決まっていない)
【幸運/不運】 あとから貼られる解釈のラベル
同じ出来事でも、「あれはラッキーだった」とも言えるし「あれは不運だった」とも言える。
『セレンディピティ』とは、幸運を引き寄せる力ではなく、価値が確定していない偶発を、意味や行動に変えていく構造そのものだと、僕は考えている。だから、出会いも、失敗も、挫折も、同じフレームに乗せて考えられると僕は思うんだ。
僕たちは何かが起きると、驚くほど早くラベルを貼ってしまう。「あれは不運だった」、「ついてなかった」、「運が悪い人生だ」と。
この言葉には、救いもある。自己説得や自己消化ができるし、そのおかげで気持ちも少し落ち着く。気持ちの"応急処置"みたいなものだ。でも同時に、「不運」と言った瞬間、その出来事は、"もうこれ以上意味が変わらないもの"として確定させてしまうことになる。
そこで、こう考えてみたい。ポジティブに考え直す必要はない。前向きになる必要もない。ただ、一度貼られた『不運』というラベルをはがし、その出来事を価値未確定な偶発として、机の上に戻す。これを「不運を偶発に戻す」姿勢と、ここでは呼んでみることにする。
たとえば、
・転職がうまくいかなかった
・大事にしていた関係が終わった
・計画していた道が閉ざされた
これらは、不運と呼ぶこともできる。でも同時に、それはただ予期せず起きた出来事でもある。
『不運』という字幕を外した瞬間、その出来事はまた別の文脈に接続される可能性を取り戻す。挫折とは、人生が失敗した証拠ではないんだ。それまで信じていた物語が、途中で途切れた瞬間だ。期待が崩れ、計画が使えなくなり、「この先どうなるのか分からない状態」に放り出される。
それって、しんどい。不安だし、格好も悪い。
でも、その状態は同時に、"物語を書き換える余白"にもなりえる。挫折がセレンディピティの素材になるのは、そこに「まだ決まっていない部分」が残っているからだ。
ここでは、まだ答えを出さない
ここまで書いてきたことは、具体的な解決策や、前向きな行動指針を示すものではない。むしろ、すぐに答えを出そうとすること、すぐに意味を見つけようとすることから、いったん距離を取るための話でした。
人生には、個人の解釈だけではどうにもならない出来事もある。社会的な構造や、不条理や、努力では越えられない壁も確かに存在している。それでもなお、自分の経験を、ひとつの確定した物語に閉じ込めないという態度だけは、手放さずにいたい。
不運は、まだ偶発に戻せる
「無駄だった」と感じていい。「不運だった」と言ってもいい。その上で、まだ何も決まっていない偶発として、そっと机の上に置いておけるようになって欲しかった。今回のnoteは、そのための"立ち止まる場所"をつくることが目的だった。
次回は、2025年最後の投稿。
今日紹介した"この態度"を実際の出来事や生活の中でどう扱っていけるのか、どんな限界があり、それでもなぜ有効なのか・・・この辺を、もう少し踏み込んで、考えてみたいと思う。
この2025年の自分を、皆さんが振り返るきっかけとなるような、問いとテクニックを紹介し、今年の投稿を終えられたらと思います。
次回、もう少し踏み込んで考えたいことリスト
なぜ人は、苦しい出来事に「意味」を急ぐのだろう?
「無駄は無駄でいい」と認めることは、なぜ解放になるの?
不運を「偶発に戻す」とは、具体的にどんな心の動きなの?
答えを出さずに耐える力―『ネガティブ・ケイパビリティ』
「自分を諦めてあげる」という態度が、なぜ次の一歩につながるの?
個人の解釈ではどうにもならない現実と、それでも向き合い続けるための足場
もしこの考え方を、日常の出来事に当てはめるとしたら
次回は完結・実践編。また次週もお楽しみください!
さらに理解を深めたい人へ
このnote記事についてパーソナリティーが解説する音声配信も、セットで提供しています。
記事をただ読み上げるのではなく、あらすじや、評論、時に記事に書いていないことを補足しながら解説してくれていますので、この投稿を読むだけでなく、音声配信の視聴の両方をしていただくと、さらに理解が深まる・・・そんな構成になっています。
是非こちらも併せてお楽しみください。(所々日本語がおかしいのもご愛嬌)
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