白百合:短歌連作30首『白檻幻想』
香る檻、夢の残り香
──夢香歌連作
夢は、目覚めれば消えるものだと申します。
けれど、本当に消えてしまうものは、案外少ないのかもしれません。
花の香りが衣に移るように、言葉にならなかった想いもまた、心のどこかへ静かに留まります。
忘れたはずの景色、呼ばなかった名前、触れられなかった指先。
それらは形を失ってもなお、夜の底で微かに香り続けるのでしょう。
この連作は、夢と記憶、檻と花、硝子と亡霊――
幾度となくわたくしの短歌に現れる象徴たちを、一つの夢として束ねたものです。
どうぞ、香水瓶の栓を抜くような心持ちで、お読みいただけましたら幸いに存じます。
『白檻幻想』
白百合の吐息に宿る宵のひかり一刻の夢を壜に封じむ
硝子戸に映るまぼろし指先でなぞれば泣きぬ亡霊の声
記憶とは香に似たもの揺らめきて名前を呼べば薔薇の気配よ
夜の書架ひそかに鳴らすページにはきみの影だけ棲みてをりたり
書きかけの手紙に滲むあをき香よ封せぬままで百年経ちぬ
夢の底崩るる檻に触れながら棄てた筈なるきみのまなざし
ひとひらの花が触れたる水鏡ふかくに落ちし夢の記録よ
磨り硝子越しにほどける指のあと名を呼ぶたびに霧は深まり
閉ざされし檻のむかうで夜のひかりゆるく揺蕩う霧のゆりかご
言の葉を交はせぬままに寄せた息そのやはらかさだけが真実
金貨より重しと知れり硝子壜きみの寝息をひと匙とらむ
白墨で描きし輪郭滲みけり愛せぬものを抱きてゐる夜
鳥籠にひそむ白影触れもせず檻とは優しき愛の輪郭
影ばかり踏みし夜更けの静けさにとける亡霊こゑの残響
霧雨に沈む街角誰もゐぬ座席の熱が未だに残る
濡れた書の頁に滲む名を呼べば吐息だけまた蘇る
静けさの奥にひそめる紅の棘さされしごとくに目覚めてしまふ
紅茶には毒のしずくを溶かしけり香るなまめき春の眠りに
みづうみの沈む深さにひそむもの口づけのあと指を噛むあと
ひと匙の蜜に眠れる蠱のごとくきみの笑みには赦しがあらぬ
禁断の園に咲くとはかういふこと見るたび花の色の変はりし
硝子壜ふかく沈めし夜の棘きみの嘘さへまばゆくありぬ
水面より立つる香にさへ堕ちてゆく春のまどろみ罪と知りつつ
鍵穴に囁く聲はきみならむ檻に献げし我がうなじにも
籠の鳥閉ぢ込めたまま愛を乞ふ羽の色には毒を含みぬ
まなうらに咲きし白百合折るごとく守ることこそ奪ふことなり
鳥籠を飾る薔薇こそ過剰なりそれでもわたしは扉を綴ぢる
額縁に閉ぢ込めらるる絵のなかできみだけ時を止めて見上げる
花の影踏めば砕ける夢のなか誰かが檻に灯を点したなり
春曇にとけるまぼろし呼ぶ声は檻のむかふにまだあどけなし
夢とは、忘れるために見るものではなく、
時折ふいに香り立ち、自らの内にまだ息づいていることを知らせてくれるもの。
もし、この連作のどこか一首でも、あなたの記憶の底に小さな残り香を遺すことができましたなら、それ以上の喜びはございません。
夢宵庭園 白百合🕊️
