よき問とはいかにして生まれるのだろうか
僕は出来る範囲で自分の記事にいいねをつけていただいた方の記事を読んでいます。読むというか見る、覗くでしょうか。そして興味のある見出しや画像があると読み始める。
福島県立猪苗代高等学校さんの名前を見つけたとき、正直なんで僕の記事に高校の関係者からいいねが付いたのだろうと疑問というか、不思議に思い、さっとnoteを眺めてひとつはなるほどなと思ったのと、ひとつはよかったと思ったのと、そして今、実際にこの目で学校を見てみたいなと考えています。
考えるということは簡単ではない
思考の深さや視野の広さというのは、簡単に数値的に測れるものではないですが、筋肉の量や力を測ることと近いことはおそらく可能でしょう。それには専用の機器とテスト環境が必要でしょうが、そういうことは研究機関に任せるとして、考えるという能力をどう評価するかは、簡単ではない。しかし、まったくできないかと言えばそうではないでしょう。
学校教育というのは、考える能力を高めるための基礎から応用、速度、視野、注意力や想像力などを伸ばすための重要な機構です。
人によっては学校はゲームを攻略するようにテストをクリアしていきラスボスである受験を倒して学歴をゲットし、それをもって社会という次のステージを有利に進める過程なのかもしれません。
バブルの頃に就職をした自分の経験からするとその側面は正論だったと思います。しかし、これからはどうなるのか。それはいささか疑問でもありますが、その話は別の機会にするとして、もっと人の頭の中、脳細胞と神経系統に注視して話を進める上で「考えることは簡単ではない」という話をしたいと思います。
考えるとはどういうことなのか
赤ずきんやカチカチ山を読み聞かされた幼少の頃、或いはそれが浦島太郎でも人魚姫でもいいのですが、すんなりその物語に没入できましたか?
僕はできない子供でした。物語とはそういうものだと認識できるまでは、意味がわからないと思っていたし、認識したあとも納得はできませんでした。
同じように算数で習った様々な公式も受け入れて計算はしましたが、納得するまで、理論がちゃんと定着するまでは、これはこういうものだという思考を停止した状態でテストに挑んでいたと思います。
特に国語は苦手で、主人公はどう思ったのかという問いは、物語に感情移入できない時点で思考が停止していたのか、まるで答えが出てこなかった。そういえば、授業で先生がこんなこと言っていたなぁ、それらしいのが答えかと、類推するようになってからは多少答えられるようになった(のだろうと思います)
そんな小学生だった僕はあまり成績がよくなかったかな。とくに低学年の時はさんざんでした。考える力が付いたのは5年生くらいからで、それもどちらかというと攻略方法を見つけたという裏技的な物でした。
例にもれず、分数の割り算で躓き、同級生から「ひっくり返して掛けるだけだよ。簡単じゃん」と言われても、いやいや意味わからないと問答したあと、やってみるとそれが正解なので、受け入れたといった流れでした。
分数の割り算を考える
正直、今だったら全然説明可能なんですけどね。ピザと家族を例題にするといいだろうなとか、考えることができる。
ではなぜ、考えることができるようになったのだろうか。それは視野が広がったからではないだろうか。
人は何かを考える時に、身近なものに例えようとする。しかし小学生ではそのような思考に至るだけの経験値が不足している。ピザを五人家族でわけるけど、家族の一人がいなかったとして……なんてことを分数の割り算の例題で考えられるだけの思考ツールがまだ備わっていない。
そもそも分数というのがどういうことなのか、記号的解釈をそのまま受け入れられる子供ならば簡単だろう。しかし言語化して考えるとひとつの飛躍を要する。
それまでものは見た目の数でカウントしていたのに、急にひとつをn個で分けたときという条件が加わる。自然数の世界観からの飛躍がなければこれを言語的に理解して用いることは簡単ではない。
考えるには階層の壁が存在する
このように考えるには自然数で見える世界、直視できる世界で考える段階と、そうでない階層が存在し、算数、数学に限らず、国語でも理科でも社会でも、同じような構造が存在し、そうした階層をしっかり超えられるべく、教育カリキュラムは設計されているというのが前提なのだが、さて、それが必ずしもうまく機能しているかどうかは少なくとも僕にとってはそうではなかったのだと思う。
ではいかにして学生時代の自分は考えることを身に着けたのだろうか。振り返って考えたときにあることがきっかけであったことに気づいた。その気づきは、福島県立猪苗代高等学校さんのnoteの中にありました。
ノートの共有~伝えることで考えることを学ぶ
中学1年の時だったと思う。僕は比較的歴史が得意で、それは単に好きだったからに他ならないのだけれども、僕が試験前にポイントをまとめたプリントをみんなに配るという、これも授業の一環だったのだが、その時にどうまとめたらみんなに伝わるだろうかと創意工夫をしたことだろう。
記憶では空海について、どんな人物だったのかというポイントにいくつかエピソードをまとめたところを褒められたことだったか。自分が理解したことを人に伝える時に、どうすれば印象に残るのか考え、何をどうしたかまでは覚えていないが、ここで僕は大きなミスをした。
一部空海を『海空』と書いてしまったのだ。それがみんなの印象に強く残ったおかげで、我がクラスではこの問題に対しての正解率が高かった。怪我の功名と言えなくもないが、「弘法筆を選ばず」が「猿も木から落ちる」というオチになった。
この時、先生が空海は書がうまくて「弘法筆を選ばず」と呼ばれたほどだといったエピソードを話していたのを覚えていて、それを書いたのは間違いない。歴史が苦手な人に何か知ってそうなエピソードを紹介したら覚えてくれるだろうという試み、その考えは正しかった(はずである)。
「いちばん上のタイトル部分を完成させるのに『3週間』
かかったんです。この一番うえの部分」
「全体が完成するのにも1ヶ月以上かかってしまって」
「どのタイミングで区切ったらよいか、こちらも試行錯誤の段階でしたね。
生徒たちも、『まとめる』って何を書けば良いんだろうって感じだったんだと思うんです。
結果として、なんとか完成したのがこの模造紙たちなんです」
生徒たちが模造紙にそれぞれの研究の成果を発表しているのを見て、このエピソードを思い出し、顔を赤らめながら書いているのですが、確かに考えを伝えるというのは、考えることの次の階層に行くための大きな手掛かりになる、トレーニングになるのだと思います。
思考には型がある
最近様々な研究をyoutubeなどで見ることができ、脳科学がどれくらいすごいことになっているのかを簡単に知ることができます。僕の時代にはそれらの本を読むにはそれ相応の基礎知識がないとまるでついていけなかったことを考えるといい時代になったということと同時に、これは差が出るなと危機感のようなものを感じています。
人の思考にはどの五感を使って考えるのかという特徴があることがわかってきています。人間の脳は「視覚」から得た情報を最重要として処理し、そこに「聴覚」「嗅覚」「触感」「味覚」などが補完するというイメージで間違っていないと思います。
さらにそれらの情報をもとにどう考えるかも特徴があり、言語で思考するタイプ、映像に変換して脳内の動画を作成して思考するタイプなど、人それぞれの型があるそうです。
分数の割り算を思考する時、記号化してルールに従って計算できるかどうかは、こうした思考タイプが大きく関係しているように僕は考えます。ほとんどの場合、「言えばわかる」と「ちゃんと聞いていたらわかる」は同じことのように思いますが、実はその中身はまるでかみ合っていない可能性があります。
視覚で思考する人は文章なり図解があったほうが伝わるし、逆に音に敏感な人はどの部分を強調して伝えたかでポイントがずれることもあります。僕はどうやら耳の感覚がよくトレーニングされた居て、訊いたことを脳内で文章化して思考する……新聞や雑誌の見出しみたいに情報が整理しているようです。もう、この時点で意味が分からないという話もあるかもしれませんが、共感できるできないでタイプが違うと理解してもらえればと思います。あくまで仮説なので。
ゆえに考えることは難しい
人という生き物について考えたときに、なぜ人は複雑な思考をし、様々なコミュニケーションツールを使いこなせるのか、不思議に思いませんか?
イカは無脊椎動物なので脊椎動物である我々人類とはまるで違う肉体の構造をしていますが、脳はちゃんとあります。目の後ろに二つとその真ん中の顔で言えば鼻のあたりだそうです。脳が3つあるというだけで化け物みたいに思うかもしれませんがタコは足に脳と似た機能がそれぞれあるそうです。
イカの身体の色が変化することは知っているでしょうか? イカは群れで行動する種類がありますが、彼らは自分の身体を変化(変色)することでコミュニケーションをとっているのではないかという研究があります。
ゆえにイカにとって視覚はとても重要であり、そのような進化を遂げた可能性があります。タコは群れず、狭い空間で過ごします。顔をのぞかせて捕食者に頭をかじられたら終わりです。だから足を潜望鏡のように使って外の様子を探り、足一本食われても生きていく術を獲得したのではないでしょうか。
そう考えると人という生き物のこの複雑な言語を使ったコミュニケーションとそれに特化した脳の仕組みには、生存のためのちゃんとした理由付けがあるのだと推測できます。これが考えること、疑問から推測することの面白さであり、それを面白がるからこそ、五感をすべて使って思考をすることが生き残るために重要だったのでしょう。
それは好奇心という機能的特徴です。虫や小動物、草花を食べていた人間が火に興味を持ち、加熱して効率的にエネルギー吸収できるようになったとき、それらの技術を共有するために、言語は欠かせなかったのではないでしょうか?
考えてください。火をおこすために必要なことを言葉以外で伝えることの難しさを。そして言葉だけで伝える難しさを。だから絵を書き、やってみせてそれをより広く伝えるために複雑な言語を獲得した。
こうした類推をすることは赤ん坊が言語を獲得する段階ですでに始まっているという研究もあるようです。
親は子供に「クック」と言って靴を履かせます。子どもは「クック」という音から、それが靴を履くという動作一式であり、それと同時に外に出るということを覚えます。しかし「クック」は本来「靴」と「履く」で言えば名詞である「靴」であるのに、子供には名詞と動詞の区別がつきません。2歳から3歳くらいにかけて名詞と動詞の区別がつき、「クック」には二つの意味がある、「マンマ」も同じで「食べ物」と「食べる」があり、それを使い分けられるようになります。
では言語を持たなかった原始の人類はいかにして火をおこすこと、消すこと、保持することを共有したのでしょうか。そこに思考の段階が幾つも必要であり、個体差も生まれたことでしょう。
分数の割り算もそれと同じで、説明する側には様々な伝達方法が要求され、日本に限らずいろんな国でそれは課題になっているようです。
比較することを伝える難しさ
どっちが大きいか、どっちが得か。日常生活では常にそうした選択を迫られます。
アメリカではハンバーガーをクオーター(4分の1ポンド)でレギュラーを販売していますが、とあるバーガーショップが「うちは同じ価格で3分の1ポンドで販売しています」と広告をうって大失敗したそうです。
4分の1と3分の1、どちらが大きいかなど、一目両全のようで、まったくそんなことはないという一例です。
広告を目で見たのか、文字で観たのか絵で見たのか、耳で聞いたのか。様々な検証をしてみないと詳しくはわからないでしょうが、伝えるということはそれだけ、考えを必要とする難しいことなのではないでしょうか。
よく考えられたものほど、よく伝えられるのか
結論はそうであって欲しいのですが、そう単純ではないだろうと僕は推測します。赤ずきんはやカチカチ山はよく考えられた面白い物語だとは思いますが、それぞれ何を伝えているのかに関してはじっくり考える必要があります。なぜお婆さんは危険な森の中で一人で暮らしていて、お母さんは幼い子供を一人で使いに行かせたのでしょうか。
人を出し抜くようなタヌキはなぜウサギにああも簡単に騙されてしまったのでしょうか。
そうした疑問を持った時、物語がいかにして誰によって作られどう物語が変化して言ったのかを知る必要があります。物語が面白さという意味においてよく考えられた改変がされたとして、本来伝えたかったことはちゃんと読者に伝わっているのか。
そう考える時間を持つことは容易ではありません。なんでもいい。何かひとつ疑問に思ったことを長い時間をかけてずっと考え続けることができるのであれば、他の疑問に対してもより思慮深い階層の考え方ができるようになるのではないか。
それが僕の哲学のようなもの。問い続けることの楽しさと奥深さをぜひ感じて欲しいと思っています。
そしてそれこそがよき問いが生まれる仕組みだという仮説としたいと思います。
2025/1/27追記
よい問について、ChatGPTと遊んでみたお話
ロボットを扱った映画についてChatGPTで調べたときのエピソードです。面白かったのは、ロボットとAIについてAIがどのような解釈をしているのかを感じることができたことです。
問いは具体的な目的としては「情報」という答えを得ることですが、同時にもっと抽象的な概念を相手がどうとらえているかを理解する「対話」のきっかけでもあるということです。
最適解といえるものが絶対値的にないようなことがらも、よい問いをすることによって得られる可能性があるのだと思います。
