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土砂降り 〈雨女⑩〉

踏み越えてしまったことに、間違いはない。
この体が変わってしまった。
この口に、甘い雨を受け入れた以上、もう戻ることはできない。
ひと舐めとはいえ、この体のどこかにもいま、あの雨は巡っている。ん、ふた舐めだったか。

あれからふわふわとして、今この体にも輪郭がないような気がする。
間違いなく踏み越えてしまった。けれど、踏み越えたことが間違いだとは思いたくない。どうせ戻れない。

とはいえ、なにぶん昨日の今日なので、今考えても埒もない話だ。
この先どうなってしまうのか、まったくもって、わからない、わからないのものはしかたがない。

少しずつ正気を失って、狂人らしくそのことにも気付かないうちに、いまだ正気の人間たちに気の毒がられて、ふと思い出しては仄かに嗤われながら話題に上げられ、彼らの行き場のない憐みや人間味の、ていのいい捌け口となるのかもしれない。

それとも、想像もつかない雨女の生理現象によって、この雲みたいな体は彼女にとって食べやすい形に変わり、綿菓子のように食べられてしまうのか、やっぱり私にはわからない。

女性はわからない。
自分の上だけに雨を降らせている女性はなおさら、不可解の極致だ。

こんなにわからないのに、ぜんぜん怖くない私もまた怖い。
あの夜を、何度も思い出して、部屋の中をくるくるにやにや回る私もよほど怖い。
浮ついていて落ち着かない。
やっぱりふわふわしている。

こわいこわいこわい、といっても、うきうきする浮ついた体が言うことを聞かない。
完全に乗っ取られているのかもしれない。
頭も言うことを聞かないのだから、あの子のことばかり考えているのだから、乗っ取られているに違いない。
抗うつもりもないのがその証拠だ。


うきうきしてコンビニに行くと、やはり雨女はいた。
こちらに小さく手を振った。

まずいまずいまずい。手
を振り返す。えへ。
あああ、もうだめなのかもしれない。頭も心も体もいうことを聞かない。あああ、だったら本当の私は誰なのだ。

「見えてる?」

見えてるに決まっている。いや、見えてない可能性があるのか。見えなくなることがあるのか。そんなことがあってはいけない。簡単に不安になる。

「見えてるよ、見えてる見えてる」

「よかった。なんだか、恥ずかしくて。そしたら隠れちゃうの」

乙女の恥じらい、怪異の恥じらい。
どっちだ。
乙女の恥じらいにしか見えないのは罠か。

「見えてるよ、見えてる、顔も見えてるし、体も見えてる」

少し、雨が強くなった気がする。

「今日は、なに食べたいの?」

「今日は、いいの」

いいの。
なぜいいのか。
このあと「今日は、あなたがいるから、あなたを食べるから」と続くのか。これは、死亡フラグというやつなのか。まさか、食われはしないだろうけど、だって、まだ私は人の形をしている。まだ早い。食べられるにしたって、もう少し一緒にいたいじゃないか。

彼女の雨が強くなる。

「少し……っちゃった、から」

雨の音で、聞こえない。
音がかき消されるように、彼女の存在も隠れてしまうのだろうか、そして、この雨の甘い匂いさえも。

「ごめん、きこえない」

雨が強くなって、聞こえない。
近づいても、私も雨の中に入っても、いいだろうか。
それはまだ、図々しいだろうか。

「太っちゃったから!」

あ、大きい声だと、聞こえますね。

すっと、雨が弱まった。

彼女の顔は紅潮している。
昨日の夜を思い出す。

え、太ったの?

私の視線は、自ずと彼女のスカートのゴムの食い込みに下りた。たしかに、言われてみると、少しだけ、柔らかさが増したような気がしないでもない。

「ああ」

その時、私の目の前だけが、局所的な豪雨に見舞われた。はるか上に雷の音も聞こえたかもしれない。

豪雨の滝の中、睨むような目を残して、彼女は完全に見えなくなった。

雨さえも、消えた。

見渡せど、ただ静かな晴れの夜。
数秒前とは別の世界に来てしまったのか、彼女の足元で濡れていたはずのアスファルトも、きれいに乾いている。

私にかかったはずのしぶきも、シミひとつ、雫ひとつ残っていない。つながりが、なくなってしまった。

残されたのは、私と、いつものコンビニ、駐車場、そしてかつての無言の光景。
ここが、おまえのいるべき場所だろう、と、その冷たい佇まいが伝えている。

踏み越えたことは、正しくなかったのだと、審判が下された。
だから、私はここに戻ってきたのか。

彼女のいなかった世界に。

すっかり普通になってしまったコンビニ周りの仏系。そこに、唖然と立ち尽くす私の姿だけが異様だ。

私は、ひとりだ。

また、ひとりになった。

そうか、幻とはこんなものか。
今日寝て、明日になって、その次の日も普通の日を繰り返して、淡く思い出すだけの幻。

悲しいのは今だけだ。

だけど、私は前よりずっと、ひとりぼっちだ。

綿菓子がすっぽ抜けた、情けない割り箸。

せめて食べて欲しかった。





「よお」

河童もいた。



***

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