先生を降りて、ベンチに座ることにしました
こんにちは、みほです。
最近、フォロワーさんが少しずつ減っています。
それはおそらく、私の立ち位置が変わったからなんじゃないかな、と感じています。
発信を始めた頃の私は、
「中庸」という考え方と出会って自分がどう変わったか、
日常でどんな選択をしているかをよく書いていました。
自分も周りも大切にできる生き方を、
自ら実践して背中を見せる人。
“ちょうどいい”研究家、みたいな立ち位置。
そのイメージでいてくれた方にとって、
今の私の発信は「なんだか違うな」と感じられるかもしれません。
「伝道師」をやっていた頃
あの頃の私は、
「この考え方を、まだ知らない人に伝えたい」と思って書いていました。
やさしさゆえに
自分を後回しにしがちな人に向けて、
自分も周りもすり減らさずに生きる
選択肢があることを伝えたかったから。
だから、なるべく
わかる形にしようとしたし、
真似できる形にしようとしていました。
「中庸という理想的な生き方があるよ」
「私は中庸をこう実践しているよ」
そうやって書けば、
誰かの役に立てると思っていたんです。
でも、その立ち位置で書き続けるうちに、
ある違和感が生まれました。
この書き方を続けていると、
読んでくれている人が
無意識のうちに自分を測ってしまうかもしれない、と感じたんです。
「これは、みほさんの言う通りにできているか」
「私は、ちゃんとバランスよく生きられているか」
実は、それを一番しんどく感じていたのは、
私自身でした。
このままいくと、
私が「中庸であるかどうか」を判断する人になってしまう。
それは、私が大切にしたかった在り方とは、違っていました。
だから、少しずつ立ち位置を変えていきました。
今は、自分も周りも、大切にできる
“ちょうどいい”を探しながら暮らす姿を、
そのまま置く書き方を選んでいます。
答えにならなくていい。
真似できなくていい。
ただ、立ち止まった場所だけ、置いておく。
「どう考えて動いたか」よりも
「どこで立ち止まったか」。
そんな気づきを、そっと置くようにしています。
“ちょうどいい”は、壁にぶつかったときに思い出す知恵
書きながら感じてきたのは、
“ちょうどいい”場所って、
頭で考えて選ぶものじゃない、ということ。
体感なんですよね。
動きすぎたな、と思ったら止まる。
少し点検して、戻る。
疲れたな、と感じたら止まる。
点検して、違うやり方を探す。
それは、
問題が起きたときに戻れる場所であって、
問題がないのに、
いつも意識し続けるものじゃない。
今、心地いいなら、
「もっと頑張らなきゃ」って思わなくていい。
その心地よさを、ちゃんと味わえばいい。
もう少し心地よくなりたいな、と思ったときに、
止まる。点検する。
今の自分にできる範囲で、
少しずつ始めればいい。
以前の私は、
「教える人」だったけれど、
今の私は、
「“ちょうどいい”を探し続ける人」になったんだと思います。
暮らしの、背景にいる人でいたい
今の私は、先生のポジションから降りました。
答えを渡す人でも、導く人でもなく、
気づきをそっと置いておく人でいたいから。
説明するより、匂わせる。
導くより、並ぶ。
読んでくれる人の隣にそっと座って、
世界の見え方が少し変わるきっかけを置いていく。
私は先生じゃないし、
いつも励ます親友にもなれません。
それでいいんだよ、と言い切ることが、
私にはどうしてもできないから。
ただ、
気づきの庭のベンチで、座っている人です。
あなたが前を向いているときも、
つらくて立ち止まっているときも、
変わらずここにいます。
それでも、ここに来てくれるあなたへ
私自身は今も、
“ちょうどいい”を探しながら生きています。
自分も、周りも、大切にできる人を増やしたい。
その気持ちも、最初から変わっていません。
ただ、その置き方が変わっただけ。
教えるつもりも、
「あなたもやってみて」というつもりもない。
ただ、私が見てきた景色を置いていく。
それで離れていく人がいるなら、
それもまた、ちょうどいいのかもしれません。
切れる縁もあれば、つながる縁もある。
そっとのぞいてくれるあなたがいること。
いつもありがとうございます。
今日も、ちょうどいいを探してる🪴
🪴最後まで読んでくださってありがとうございました!
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