アダルトチルドレンという言葉に、ざわざわした朝のこと
こんにちは、みほです。
昨日、たまたま出てきたアダルトチルドレン専門カウンセラーさんの記事を読みました。
「安心できない母親」について。
読んでいてざわざわした気持ちを、ここに綴ります。
今朝の私 ― 置いていくよ!の朝
今朝は、出発時間ギリギリでやっと着替えを始めた娘につい、「置いていくよ!」と一喝。
泣き叫ぶまま、無理やり車に乗せて登園させました。
駐車場に帰ってひとりになった今、
「もっと早く声かけてればよかったよなぁ」と我に帰って反省。
娘よ、ほんとうにごめん…
「アダルトチルドレン」に救われていた頃
母になる前、私はカウンセラー等こころの専門家の方の発信にどっぷり頼っていました。
生きづらさの原因を探して、たどり着いたのがそこだったんです。
気分で態度を変える、どれが本当のお母さんかわからない、お母さんの顔色が気になって胸がざわざわしてくる…etc
先の「安心できない母親」に関する説明に、うんうんと頷きながら「これはわたしのお母さんのことだ!」と信じ込み、今までの努力が報われた気持ちになったんです。
「私は絶対母のようにはならない!」と決心して子育てに励みました。
結果、育児ノイローゼになりました。(撃沈)
母になってわかったこと
あの頃の私は、生きづらさの原因は自分の外にあると思い込んでいました。
あまりに自分を責め過ぎて、もう、責めないでいい方法を探していたから。
でも、母となった今は、「アダルトチルドレン」という言葉を聞くとザワザワする。
あんなに自分を安心させてくれていた言葉が、母になった今は、私を苦しめているから、不思議。
母になってみてわかる。
母も必死だったこと。不器用だったこと。
自分と子どものバランスを取ろうとしていたこと。
大義はあっても、金がなければ
ちょっと脱線しますが、論語繋がりでどハマりしていた、大河ドラマ「青天を衝け」のセリフが胸に刺さっています。
「大義はあっても、金がなければ」
「子どものこころを守るために、一緒に過ごす時間を大切にする」という大義はもちろん大切。
でも、それだけに振り回されて母親自身が疲れてしまったり、自分を保てなくなってしまっては、意味がない。
だからこそ、母も自分を大切にしながら過ごすことが、結果的に子どもの安心にもつながる。
これが、中庸=ちょうどいい なんだと思う。
立場が変われば考えも変わる
今は、生きづらさを抱えた人が、自分の課題に気づき、
親になり、かつての親の姿と自分を重ねながら、
受け入れていくその過程自体が、
一連の回復作業のような気がしています。
前の私はこう思っていました。
「子どものこころの健全な成長のために、人生のすべてを捧げる!」
でも今はこう思います。
「自分の幸せも守りながら、子どもの安心できる場所になれるよう努力する」
めっちゃハードル下がって、しかもめちゃめちゃ自分寄りになってる!
努力目標なんて、できなかったとき言い訳するためでしょう、と以前の私なら言っただろう。
でも、それは悪いことじゃない。
今日みたいに子どもをがっかりさせてしまう日もあるけれど、私は問題から目を背けるのではなく、向き合おうとしている。
向き合おうとする過程での失敗こそ、“ちょうどいい”の源です。
失敗から、ちょうどいいは生まれる
迎えの際、朝の強引な態度について、娘に謝ろうと思います。
失敗から、少しずつ中庸に近づけると信じているから。
今日も、“ちょうどいい”を探してる🪴
読んでくださってありがとうございました✨
“ちょうどいい”研究家みほです。
私は普段、子育てや暮らしの中で見つけた中庸=“ちょうどいい”を綴っています。
自己犠牲・完璧主義癖のある私が、迷いながらも、自分なりの心地よいバランスを見つけたエピソードをお届けしています。
一緒に“ちょうどいい”を探していけたら嬉しいです🪴
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