グナエウス・ポンペイウス
ポンペイウス・マーニュスと塩野七生は言う。いや、それ、現代イタリア語だからと、突っ込みたくなる。ポンペイウス・マグヌスが正しい。ラテン語だ。彼女はイタリア在住だから、思わずお国言葉が出たのだろう。因みに英語で言えば、ポンペイウス・ザ・グレートだ。
要するに、アレキサンダー・ザ・グレートと同じで、ポンペイウス「大王」ぐらいの意味になる。だが待って欲しい。時代は共和政末期、帝政でもない。なぜこんな呼ばれ方をするのか?塩野七生は『ローマ人の物語』で解説をせず、帝政期に生まれれば、立派な皇帝になっただろうにと惜しむ。
いや、そんな話はどうでもよくて、なぜポンペイウス・マーニュスと呼ばれるのかだ。あ、違った。ポンペイウス・マグヌスだ。どうもイタリア語で、刷り込みが入ってしまったようだ。失敬。失敬。
最初に、ポンペイウスをマグヌスと呼んだのは、スッラだ。ポンペイウスがスッラの武将だった時代、ある時、そう呼んだのだ。時はスッラの天下で、自分の部下を「大王」呼ばわりするのはどういう心理だろう。いや、これは明らかにふざけている。諧謔だ。
信長が秀吉を「猿」と呼んだように、スッラもポンペイウスを「大王」とからかったのだ。自分の部下に諧謔を示したのはいいが、「猿」も「大王」も伸びて、大活躍した。
金持ちクラッスス、ポンペイウス「大王」、そして寝取りのカエサルによる第一次三頭政治が、ローマ共和政のクライマックスだ。こう書くと、塩野七生が描いたグラヴィス(重々しい)なローマ史(『ローマ人の物語』)と大分かけ離れたイメージとなるが、多分こっちの方が実態に即している。
紀元前88年、ルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・マリウス両執政官が、ポントスのミトリダテス6世に対する戦争で、imperium(インペリウム=指揮権)を巡って争った時、スッラの部下の一人として、グナエウス・ポンペイウスが頭角を現した。
紀元前83年、スッラはミトリダテス戦争に勝利して、凱旋した。そして終身独裁官になった。その右腕として、ポンペイウスは買われ、スッラと血の繋がりがない義理の娘アエミリアと結婚させられた。だが彼女はお産で亡くなった。この事は後年のユリアの死と重なる。
紀元前81年、スッラの命令で、ポンペイウスはアフリカへ渡り、マリウスの残党を狩った。この功績を以って、ポンペイウスは凱旋式の挙行を主張した。スッラは難色を示したが、結局認められ、25歳最年少の凱旋将軍が誕生した。この時、スッラから、マグヌスと言われた。
紀元前78年、スッラが亡くなると、ポンペイウスは独立した。
紀元前77年、ポンペイウスは29歳で元老院からimperium(インペリウム=指揮権)を認めさせて、プロコンスル(執政官代理)の資格で、ヒスパニア遠征に出た。年長者のプロコンスル(前執政官)、メテッルス・ピウスとのコンビも悪くなく、ヒスパニアの反乱を平定した。
紀元前71年、クラッススが第三次奴隷戦争で、鎮圧に手こずっていたが、ようやくスパルタクスを討ち取り、元老院に報告しようとしたが、ポンペイウスも奴隷反乱の残党を討ち取り、先に報告したため、ポンペイウスがスパルタクスの乱の平定者として認められた。
紀元前70年、ポンペイウスは、ヒスパニア反乱平定、スパルタクスの乱平定の成果を引っ提げて、執政官に立候補した。規定では43歳からだが、ポンペイウスは35歳でコンスルになった。この時、対抗馬として、クラッススも執政官に立候補して、当選した。
紀元前67年、元老院はガビニウス法を立法した。20個軍団(歩兵12万、騎兵5千)と軍船500隻、14人の元老院議員による幕僚付きで、3年間限定でポンペイウスにimperium(インペリウム=指揮権)を与えて、地中海の海賊を掃討する内容だ。
最初、多くの元老院議員は、ポンペイウスに権力を与え過ぎるとして反対したが、元老院議員カエサルが賛成に回ったため、ガビニウス法は成立となった。
ポンペイウスは地中海を13の作戦海域に分けて、各軍団を配置した。自らは60隻のタスク・フォースを率いて、各海域で戦闘に勝利した。ポンペイウスは、三か月足らずで地中海の海賊を平定した。後にキケロは、冬に準備し、春に行動して、夏までに終わらせたと評した。
紀元前66年、ポンペイウスは、imperium(インペリウム=指揮権)を手放さず、そのまま持ち続け、第三次ミトリダテス戦争に入った。オリエント遠征だ。ポントス王ミトリダテス6世は敗けて、黒海北岸のクリミア半島のボスポラス王国まで逃げて、そこで客死した。
紀元前64年、ポンペイウスは、ポントスをローマの属州にすると、南下して、アレクサンドロスのディアドコイ王朝の一つ、セレウコス朝シリアを滅亡させ、シリア属州とした。
紀元前63年、ポンペイウスはユダヤに進軍し、エルサレムを包囲した。ユダヤ人は抵抗したが、エルサレムは陥落し、ポンペイウスは入城した。ユダヤの大神殿にも入った。こうして、ローマによるユダヤ支配が始まり、のちにナザレのイエスが活動する舞台が整えられた。
紀元前61年9月29日、ポンペイウスはローマで、三回目の凱旋式を挙行した。ちょうど45歳の誕生日であり、ポンペイウスの人生で、最良の日だったかもしれない。この凱旋将軍は気前の良さを示して、ローマ市民全員を招待する宴会を開き、圧倒的な人気を誇った。
紀元前60年、ポンペイウスは配下の兵士たちの老後の生活のために、耕作地を与える約束をしていたが、元老院に阻止され、不満を抱いた。この事をきっかけに、カエサルが動いて、クラッスス、ポンペイウスと共に、秘密政治を始めた。第一次三頭政治の始まりである。
「ムキアがカエサルと寝ただと?」
ポンペイウスは部下から報告を聞いて驚いた。
一体いつに間に忍び込んだのか?
「我が邸宅にカエサルが侵入していたとは!」
ポンペイウスは呆れた。確かにカエサルは若いが、元老院議員のやる事じゃない。さらに部下からの報告を聞く限り、妻の方から、間男を邸宅に招いている。不倫の熱愛という訳だ。
「とりあえず、ムキアとは離婚せざるを得まい」
ポンペイウスは静かに言った。怒るというより、呆れた。だが後日、もっと驚くべき提案がカエサルからあった。自分の娘をポンペイウスの妻に推薦してきたのである。
「正気か?」
流石のポンペイウスもこれには驚いた。人妻を寝取り、自分の娘を差し出してくる間男なんて聞いた事がない。人類史上初ではないか?無論、これがディールである事も分かっている。
だがカエサルの娘ユリアを見て気が変わった。
ポンペイウスNTR誕生の瞬間である。
紀元前59年、ポンペイウスはカエサルの娘ユリアと結婚した。20歳以上年齢が離れていたが、おしどり夫婦となった。以降、ポンペイウスは政治と軍事に興味を失い、引退生活を若い妻ユリアと楽しんだ。そして時折、ポンペイウス劇場の工事進捗を監督する日々だった。
「……あなた、またその絵を見ているの?」
ポンペイウスは妻ユリアに声を掛けられた。
机の上に数枚のデッサンがある。
「ああ、私の象だからな。ポーズは重要だ」
ポンペイウス像の下絵だった。ポンペイウス劇場の要だ。
「……劇場ではどんな劇が上演されるの?」
「それは人類史上、最高の悲劇だよ」
紀元前44年3月15日に、
その悲劇は上演される。
ポンペイウス像の前で。
紀元前56年、三頭政治によるルッカ会談があった。カエサルはガリアで目覚ましい成果を上げたが、元老院から警戒され、激しく攻撃されていた。実は共和主義者キケロが暗躍していた。カエサルが主導する形で、ポンペイウスとクラッススによる来年の執政官立候補が決まった。
クラッススのシリア総督も決まり、パルティア遠征の準備に入った。ポンペイウスもヒスパニア総督が内定した。またプトレマイオス朝エジプトから、王位を追われた王族から復位の嘆願要請があり、ポンペイウスが部下を派遣して支援した。以降、エジプトも傘下に入った。
紀元前55年、ポンペイウスとクラッススが執政官になった。
紀元前54年、ポンペイウスの妻にして
カエサルの娘ユリアがお産で死去した。
紀元前53年、クラッススがパルティア遠征で死去した。ここに三頭政治は崩壊した。カエサルから、彼の大姪オクタウィアとの縁談があったが、ポンペイウスは断り、戦死したクラッススの長男の未亡人コルネリアを嫁に迎え、元老院に軸足を置き、カエサルと対立した。
紀元前52年、カエサルはアレシアの戦いに勝利して、
ガリア征服を完成させた。
紀元前51年、カエサルに対する元老院最終勧告が発令された。元老院は未だ解散しないガリア総督カエサルの軍団を警戒し、軍団を解散しない限り、執政官への立候補を認めないとした。だがここで解散する事は、カエサルの身の危険に直結する。ポンペイウスは様子見した。
少し解説しよう。
所謂、元老院最終勧告とは以下の指示内容である。
Senātūs cōnsultum ultimum
セナートゥース コンスルトゥム ウルティムム
元老院最終勧告
videant consules ne res publica detrimenti capiat.
ウィーデアント コンスルエス ネ レス プブリカ デトリマンティ カピアト
執政官たちは、共和国が損害を被らないように、監視せよ。
videantは動詞video「見る」の接続法・現在・能動態・三人称・複数
consulesは名詞consul「執政官」の男性・複数・主格
res publicaは複合語で「共和国・国家・公共」の女性・単数・主格
detrimentiは名詞detrimentum「損害」の中性・単数・属格
capiatは動詞capio「被る」の接続法・現在・能動態・三人称・単数
紀元前49年1月10日、カエサルは軍団を率いてルビコン河を渡り、ここにローマ内戦が始まった。ローマに向かって南下するカエサルの軍団に対して、ポンペイウスは丸腰だったので、ギリシャに行き、そこで軍団を編成し、東方属州の戦力を結集した。
この時、元老院議員の大半は、ポンペイウスについて行き、さながら国家の中心が、ギリシャに移動した感があった。ただキケロだけがローマ近郊に留まり、カエサルと和解した。またこの時、カエサルの右腕で、副将だったティトゥス・ラビエヌスが、ポンペイウス側に走った。
「カエサルの戦術は全て知っております。右翼は私に任せて下さい」
ポンペイウスは黙って頷いた。カエサルのガリア遠征は知っている。武将として、深淵を覗く気持ちだった。アレシアの戦いで敗れたケルトの総大将、ウェルキンゲトリクスは間違いなく傑物だった。ポンペイウスは考えた。確かに自分も勝てる。だがカエサルと同じではない。
「カエサルの戦術を封じるためには、騎兵戦力の優位性が絶対必要です」
近代戦で言えば、航空優勢に相当する。
ラビエヌスの意見は間違っていない。
「……君は長年共に戦ってきたカエサルと
矛を交える事に抵抗はないか?」
「ありません。私の家は代々、
あなたのクリエンテスです」
確かにポンペイウスの家は、
ラビエヌスの家に対するパトロヌスに当たる。
間違っていない。
「……分かった。だが正しい事とは、
間違っていない事と、イコールではないのだ」
ポンペイウスはラビエヌスにそう言った。カエサルは常に正しい事をやり、ポンペイウスは常に間違っていない事をやってきた。それが二人の運命を分ける決定的な違いだった。
紀元前48年7月10日、アドリア海に面したギリシャ西岸で、デュッラキウムの戦いが起きた。ポンペイウス軍はカエサル軍の三倍の兵力45,000を誇った。だが新兵が多く、ポンペイウスは歩兵による決戦を避けて、ラビエヌスの騎兵戦に賭けた。これは間違っていなかった。
あと一歩でカエサルを逃がしたが、ポンペイウスとしては、カエサルの負けっぷりを見て、かえって怪しみ、罠かもしれないと考えて、深追いは避けた。この判断も間違っていない。
紀元前48年8月9日、ギリシャ内陸部のテッサリア地方で、ファルサロスの戦いが起きた。戦闘開始前、元老院派は、ポンペイウスの勝利を疑わず、早くも戦闘終了後の分け前分配の話に盛り上がった。分け前欲しさに、抜け駆けして先に戦場から離れる者さえ出た。
「戦闘が終わるまで戦場から離れない!」
ラビエヌスが叫んだ。作戦会議は静まり返る。ポンペイウスは独り、沈思黙考していた。もしカエサルに勝てるとしたら、それは一体何だろうか?カエサル暗殺?いや、それはない。
戦闘が始まる前、双方の軍団兵が、カエサルの旗下だった事もあり、陣営越しに対話した。だがラビエヌスがそれを遮り、戦友たちの分断を計った。この判断も間違っていない。
戦いが始まると、ラビエヌスの騎兵隊が、
カエサルの奇策に敗れた。新しい一手だ。
「戦闘は間違ってもいなかったが、正しくもなかった」
総崩れだ。
生涯初めて敗走を経験したポンペイウスは、馬上でそう評した。
その後、船でギリシャからエジプトに逃れて、ポンペイウスは、再起を計った。だがアレキサンドリアで、エジプト人に裏切られて、移った小舟の上で刺されて、斃れた。
紀元前48年9月29日、享年58歳。
ポンペイウス「大王」は無念の死を遂げた。
シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺072
ローマ内戦 3/5
