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マルクス・リキニウス・クラッスス

 クラッススの名を知ったのは小学生の時だ。1980年代だ。家にあった英語の経済誌『フォーブス』の「世界長者番付」にその名があった。マルクス・リキニウス・クラッススという紀元前のローマ人が、20世紀の長者たちを押し退けて、堂々とランクインしている。子供ながらに愉快に思った。
 
 Chat GTPによると、現在の通貨に換算して、総資産1,698億ドル(24兆1,829億円)で、2025年に発表された『フォーブス』の「世界長者番付」だと、6位に食い込む。なお1位はイーロン・マスクで総資産3,430億ドルだ。ドナルド・トランプはランク外で、総資産65億ドルだ。
 
 21世紀でも、総資産でクラッススの1,698億ドルに勝てるのは、Xのイーロン・マスクの3,430億ドル(48兆8,569億円)、Metaのマーク・ザッカバークの2,160億ドル、amazonのジェフ・ベゾスの2,150億ドル、Oracleのラリー・エリソンの1,920億ドルの4人だけだ。
 
 Dives(ディーウェス=金持ちの)というagnomen(アグノーメン=添え名)がついたクラッススは、紀元前115年生まれで、紀元前53年に死去した。2,000年前のローマ人だ。古代人にも関わらず、資産家としての彼が、いかに破格だったか分かる。古典古代ではNo.1だろう。
 だが感じのいい人物ではなかった。
 どちらかと言うと、感じの悪い人物だった。

 「火事だ!火の手が回るのが早いぞ!」
 クラッススは火事の話を聞きつけると、必ず現場に駆けつけた。
 「買いだ!買い!500セステルティウス!(16万円)持ち主はどこだ?」
 ローマの火事や騒乱に乗じて、持ち主が逃げ出す前に捕まえて、二束三文で不動産を買い叩く。このやり方を繰り返して、資産を増やした。気が付いたら、ローマ中の不動産を押えていた。クラッススはこうして、Divesになった。だが彼はよく悪夢にうなされていた。
 
 屈強な男たちが迫ってくる。クラッススは逃げようとするが捕まり、両腕を掴まれ、後ろに回され跪く。彼らは、溶かした黄金が並々と入った大鍋を運んでくる。お玉で溶けた黄金を掬うと、彼らは、クラッススの口を無理やり開かせて、溶けた黄金を流し込む。
 
 クラッススは断末魔の叫びを上げて、
 目を覚ました。夢だ。いつもの夢だ。
 「ご主人様、どうされました?」
 家計奴隷が、クラッススに声を掛けた。
 最悪の目覚めだ。またいつもの悪夢だ。
 「……何でもない。それよりも今日の予定を述べよ」
 
 金は時なりだ。買って、買って、買いまくって、お金で時間を稼ぐ。これが真の金持ちだ。お金は増やせるが、時間は増やせない。減る一方だ。これが人生の真理だ。
 
 「カエサル殿からまた借金の申し入れです。10,000セステルティウス貸して欲しいと」
 「……またか?一体何に使うつもりだ?」
 「愛人(セルウィリア)の化粧代と書いてありまして……」
 クラッススは頭を振った。もういい。貸し付けておく。
 「ご主人様、カエサル殿に貸し過ぎじゃないですか?」
 「……いいんだ。私はミダス王だ。触ったもの全てを黄金に変える」
 古代ギリシャの伝説だ。ミダス王は愛する人まで黄金に変えてしまった。
 「王様の耳はロバの耳」
 家計奴隷がボソッと言った。これもミダス王の伝説だ。裸の王様?
 「……今何か言ったか?」
 家計奴隷が慌てて横を向くと、クラッススは思考を集中させた。
 金は時なり。時は金なり。ああ、今分かった。時間が物質化したものが金なんだ。何で今まで気づかなかった?これで時間も増やせる。
 
 紀元前73年、第三次奴隷戦争が勃発した。スパルタクスの乱だ。南イタリアのカプアの剣闘士養成所から、74名の奴隷が脱走し、ヴェスヴィウス火山に立て籠もり、徹底抗戦の構えを取った。最初は少数だったが、次第に賛同者で膨れ上がり、終いには30万に達した。
 
 スパルタクスは言った。「抵抗する事は悪ではない」これはスローガンであり、奴隷を目覚めさせる一転語でもあった。事態を重く見たローマは直ちに軍を派遣した。Praetor(プラエトル=法務官)、ガイウス・クラウディウス・グラベルが3,000名の民兵を集めて戦った。
 
 結果は敗北。続けて、プブリウス・ウァリニウスを投入するもまたもや敗北。スパルタクス軍は勢いづいた。さらにコッシニウス、プブリウス・ウァレリウスも破れ、4人の法務官が奴隷軍団に敗れた。ここに来て、ローマはConsul(コンスル=執政官)を投入する事にした。
 
 スパルタクスの軍団は半島を縦横無尽に移動した。この奴隷軍団は規則が厳格だった。
 「今にスパルタクスが来るよ!」
 ローマの母親たちは我が子にそう言って脅した。
 二世紀前はハンニバルだった。
 
 満を持して投入されたコンスル、ルキウス・ゲッリウスとグナエウス・レントゥルスの正規軍は、あっさり敗れた。奴隷軍団は士気が高い。歌を歌っていた。人間解放の歌だ。奴隷だけでなく、市民まで賛同し始めた。この奴隷解放運動は、ローマ社会を根底から揺るがした。
 
 古代ローマ社会は奴隷がなくては成り立たない。奴隷は言葉を話す家畜だった。だがスパルタクスはこの呪縛を打ち破った。この事に意味はある。だがローマを倒す程でもない。奴隷が存在しない古代社会は存在しない。それは近代社会で言えば、失業者がいない社会と同じだ。
 
 Propraetor(プロプラエトル=前法務官)のクリントス・アリウス、Proconsul(プロコンスル=前執政官)のガイウス・カッシウス、前法務官のグナエウス・マンリウスも破れた。
 
 とうとうクラッススに声がかかった。ポンペイウスはヒスパニアで名を上げている。クラッススも出ない訳にもいかない。この時代カエサルはまだ元老院議員でさえない。だが元老院議員を目指して活発に活動している。
 
 「カエサル殿からまた借金の申し入れです。
 100,000セステルティウス貸して欲しいと」
 家計奴隷が駆け込んで来た。クラッススは、とりあえず、貸し付けた。
 「……それにしても、ローマの将軍たちがこうも破れるとは」
 
 ハンニバル戦争以降のローマの将軍たちは、古代戦術を完成させている。決して弱くない。だがクラッススが見る限り、奴隷軍団は異常に士気が高く、鉄の規律を誇っている。まるでローマの軍団兵のようだ。そこでクラッススは一計を案じた。彼ら以上の軍団を作るしかない。
 
 「……決戦前に1/10刑をやる。
 先の戦いで勝手に動いて敗けた軍団兵たちを呼べ」
 
 1/10刑とはくじ引きで死刑を決める刑罰だ。10人のうち1人を、残り9人で殺す。これは劇的な効果があった。軍団兵たちは、恐怖で引き締まり、内心クラッススを憎悪した。
 紀元前71年、クラッススの軍団は、
 ルカニアにて、スパルタクスの軍団を包囲した。
 
 「ディオニューソスの歌巫女アポロニアを出せ!」
 クラッススは、スパルタクスに言った。だが彼女の姿は戦場に見えない。
 「……奴隷の敵、人類の敵、クラッススよ、今日こそお前を倒す!」
 スパルタクスは象徴でしかない。
 奴隷解放運動は、歌巫女アポロニアの歌にある。
 戦いは終わった。クラッススは勝利した。だがスパルタクスの死体は見つからず、アポロニアも取り逃がした。代わりに6,000人の奴隷を捕虜として得た。逆らった奴隷は殺すしかない。
 「6,000人を十字架にかけろ!アッピア街道に立てるんだ!」
 
 クラッススは見せしめとして、骨が枯れるまで、十字架を放置した。こうして第三次奴隷戦争は終わった。これ以降、大規模な奴隷反乱は起きていない。そういう意味では効果があったが、古代ローマ社会も変質した。奴隷に対する扱いが過酷でなくなり、待遇が緩和された。
 
 クラッススは意気揚々と元老院に報告しようとしたが、すでにポンペイウスが奴隷反乱を鎮圧したと報告していた。そのため、スパルタクスの乱鎮圧の功績は、ポンペイウスに帰していた。これにはクラッススも大そう怒った。だがどうにもならない。復讐の機会を待った。
 
 その間、カエサルから何度も、大規模な資金調達の相談があった。
 「カエサル殿からまた借金の申し入れです。
 1,000,000セステルティウス貸して欲しいと」
 桁が増えている。流石に断った。だがこれまで貸し付けた多額の借金もある。気になった。返さないまま失踪したり、失脚されても困る。投資の回収はしたい。するとカエサルは他の人から借金し始めた。馬鹿な!カエサルに金を貸すのはこのクラッススだ。断じて譲らん。
 「……けしからん!こちらで全て買い取らせよ」
 クラッススはカエサルの借金を全て肩代わりした。
 するとカエサルからお礼の手紙が来た。
 「ありがとう。我が友よ。
 今度、コンスルに立候補する。
 応援、よろしく頼む」
 カエサルに落選されて、投資が回収できなくなるのも困るので、クラッススは全力で応援した。当然、受かった。すると今度は、祝賀会を開くので、芸人を紹介して欲しいと言われた。
 「……下手な芸人は呼ぶな。本物の芸人だけを呼べ」
 クラッススは入念にカエサルの祝賀会の準備に取り組んだ。なおクラッススは債権者で、カエサルは債務者だ。だがまるでクラッススが債務者であるかのように働いていた。あべこべだ。
 
 紀元前54年、カエサルの使者が訪れて、クラッススの前で手紙を開いた。
 「クラッスス。君に東方を任せよう。パルティア遠征だ」
 ローマの東方に大国パルティア王国があり、勢力を伸ばしていた。ローマの覇権を妨げる。
 「……パルティア遠征だと?」
 すぐにクラッススは計算を始めた。確かにこの東方遠征を成功させれば、海賊退治のポンペイウス、ガリア遠征のカエサルと、名声が並ぶまたとない機会となる。乗らない手はない。
 「ガリアに連れて行った君の長男も、
 1,000騎のガリア騎兵を付けて帰そう」
 プブリウス・リキニウス・クラッススだ。
 カエサルの元で、騎兵隊長として活躍していた。
 「……分かった。パルティア遠征をやろう。カエサルにそう伝えろ」
 クラッススがそう言うと、カエサルの使者は立ち去るかと思ったが、まだ残っていた。
 「我が友クラッススよ、
 1,000,000セステルティウス貸して欲しい」
 クラッススは呆れた。まだ借りるのか。
 返すあてがあるのか?いや、出世払いか?
 「……分かった。セルウィリアによろしく伝えておいてくれ」
 カエサルの使者は手紙を巻いて、立ち去った。
 すでに天文学的な投資額である。
 
 紀元前55年、クラッススは、7個軍団、42,000人のローマ軍団兵を連れて、パルティア遠征に出発した。シリア属州のアンティオキアで冬営した。紀元前54年、同盟国のアルメニア王アルタウァスデス2世は、領内を通過して、パルティアに攻撃する事を提案した。
 「断る。これはローマの問題だ。同盟国の力は借りない」
 クラッススのこの判断は誤りだった。アルメニアの力を借りれば、結果はまた違っただろう。
 
 パルティア王オロデス2世は、軍を二つに分けた。自らが歩兵と重装騎兵を率い、将軍スレナスに軽騎兵を率いさせた。馬上から所謂、パルティアン・ショットができる弓兵たちだ。
 
 紀元前53年、カルラエの戦いが起きた。ローマとパルティアの戦争だ。
 ローマの軍団兵は、長方形の方陣を組んで、パルティアのスレナスと戦った。この軽装騎兵によるパルティアン・ショットは想像以上に威力があり、ローマ側の盾を貫通した。パルティアの軽装騎兵たちは、まるで戦闘機のように戦場を駆け巡り、ミサイル=矢を浴びせた。
 
 クラッススの長男、プブリウス・リキニウス・クラッススが状況打開のため、ガリア騎兵1,000騎を率いて飛び出したが、返り討ちに遭い、クラッススの方陣にその首が投げ込まれた。パニックが起きて、方陣も突き崩されて、ローマの軍団兵はちりじりに散った。もうダメだ。
 
 屈強な男たちが迫って来る。溶けた黄金の大鍋も担いでいる。クラッススは目を剥いた。
 「早く私を殺せ!今すぐにだ!」
 奴隷に命じた。悪夢を正夢にしてなるものか!
 金は時なり。クラッススの頸は落ちた。
 
             シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺071

ローマ内戦 2/5


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