12_チェッカー_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
マガジン_06 から、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で示した英雄の旅の項目に沿って読み解いています。項目については下記[06_聖杯伝説の構造]をご覧ください。
英雄の旅【イニシエーション】1試練の道
Q.12-1 ジェーンとチェッカーをした思い出を語るのはなぜか?
前述の通り、キャンベルが示した英雄の旅、イエスの磔刑、聖杯伝説、『荒地』や『キャッチャー』においては、精神的な荒廃は、二項対立に迷う心と結び付けられる。
イエスの受難における、パリサイ人とイエスを信じる者との対立、『ロミオとジュリエット』におけるモンタギュー家とキャピュレット家の対立。
『キャッチャー』ではこれが、二チームのフットボールの試合、フェンシングの対決、戦争、サーマー校長の「人生はゲームだ」(17)という言葉、スペンサー先生との精神的な距離について「僕らはポールの反対側にいた」「僕らはポールのまったく逆の側にいる」(29)と繰り返すことや、それをピンポンの試合に例えること(24)、テニス(43・102)、暑さと寒さ(「ペンシーってところは凍りつくほど寒いか、死にかけるくらい暑いか、そのどっちかなんだよ」(42))、サリーとジェーン、娼婦と尼、男と女(ホテルで女装趣味の男性を見る(107))、西洋と東洋(247)、貧富(お金持ちの子息が通う寄宿学校やアッパーイーストサイドの高級アパートと、汚いホテルや駅の待合室(323))、セントラルパークの池のアヒルと魚、グッド・ラックとファック・ユーといった言葉で表現されている。ホールデン自身も、子どもと大人、生と死の境界線に立ち、揺らぎ続ける。
シェイクスピアの『テンペスト』では、婚約したファーディナンドとミランダが、プロスペローの洞窟=クジラの腹のような空間でチェスゲームをしている(150)。結婚したばかりの二人は、夫婦として洞窟から生まれなおし、次の豊穣や子孫繁栄をもたらすべく歩み始めた新しい豆の種、片割れ同士が統合された姿である。けれどそこに、チェスを通して、新たな二項対立と、戦争による領土侵略が暗示され、それが同作のアイロニーとして機能する。シェイクスピアはここで、ある二項対立を克服して生まれなおしても、また別の二項対立にとらわれてしまう人間の宿命のようなものを書いている、ともいえるだろう。
『テンペスト』を引用した『荒地』のチェスゲームでは、上流階級の華やかだけれど堕落し荒廃した精神、それと鏡合わせのような中流階級のやはり堕落し荒廃した精神が、チェスゲームになぞらえた正妻と浮気相手の会話をとおして描かれる。
『キャッチャー』では、これがホールデンがジェーンとする子供版チェッカーに置き換えられている。子どもは、大人社会の秩序を守る善悪の法律=人生ゲームのルールや価値観をまだ十分に身に着けていない未熟者。その分、神話世界・冥界の価値観に近いともいえる。
ここで、ホールデンは、チェッカーで勝つことよりもキングを並べて置く美しさを優先する、つまり大人社会の勝敗という価値観よりも、神話世界の美的価値観を優先するジェーン(58)を称賛し、大人社会を象徴する二項対立のゲームへの参加を拒否する(18)わけだ。「戦争に行かなくちゃならないなんてことになったら」「もし誰かに向けて銃を撃たなくちゃならないとしたら、どっちに銃口を向けりゃいいのか考えちまうところだ」(237)と述べ、二項対立ゲームを放棄して、すべてが混沌へ還る無識別の境地への志向を語る。
Q.12-2 ホールデンが水を出したり止めたりするのはなぜか?
06でみたとおり、キャンベルは、英雄の旅=聖杯伝説の基本が「出立→イニシエーション→帰還」の三段階であることを示した。評論家の大塚英志氏は、これが成長の通過儀礼、イニシエーションにおける「分離→移行→統合」の三段階と重なることを指摘している(『ストーリーメーカー 創作のための物語論』)。
英雄の出立と重なるイニシエーションの分離は、Q.11で考察した言語や知識習得、知恵の実を食べて、豆が二つに割れること。イニシエーション=移行期において、英雄が経験する試練はまず、前述のチェスゲームに象徴される二項対立の揺らぎとして現れる。
キャンベルは、英雄の試練として、自分と正反対のものと対決すると述べ、天上の女神が冥界の女神と対決する例を挙げている(Q)。
これは、『キャッチャー』では、ホールデンとストラドレイターとの対決に当てはめることができるだろう。ホールデンがジェーン・ギャラガーとの幼い頃の思い出を清らかなまま守ろうとするのに対し、ストラドレイターはプレイボーイで、女の子に手を出すのが速いタイプであることが強調され、ジェーンに対する態度を通して二人が正反対の性質を持っていることが示される。そのうえで、ストラドレイターが、ジェーンとデートをしたことで口論になり、ホールデンはストラドレイターに殴り掛かるが、体格のいいストラドレイターに倒されてしまう(79)。
この前の場面で、ホールデンは、髭を剃っている、つまり鏡を見ているストラドレイターの隣の洗面台に腰かけて、蛇口から冷たい水を出したり止めたり(49)する。ホールデンが座っている位置は、鏡を見ているストラドレイターの斜め前。つまり、ホールデンはストラドレイターの鏡像(=シーモア・グラス)のようになっている。
また、ストラドレイターがホールデンの上着を借りてデートへ出かけている間、ホールデンがストラドレイターのタイプライターで、ストラドレイターのレポートを書いている部分が、この二人が役割交換をしているように読めることは、竹内氏が指摘している(D)。つまり、二人は分身関係。
ユング派の神話学・心理学では、正反対のキャラクターとは、無意識に抑圧したもう一人の自分=鏡像=影(シャドウ)。あえて単純化してしまえば、AとB、二つに割れた心は、Aという自分になろうと決めたとき、Bというもう一人のありえたかもしれない自分を無意識へと抑圧する。ストラドレイターは、ホールデンが自分の無意識に抑圧した、ジェーンとデートをしたいという欲望を実現させてしまうキャラクター。だからこそ、ホールデンは苛立ち、勝ち目のない殴り合いのけんかを仕掛けずにはいられない。
水を出したり止めたりする神経症的なしぐさ(彼が神経症であることも重要、これについては後述)は、実像と鏡像、存在と非存在の行き来を象徴する。ストラドレイターとの喧嘩の場面、六章のはじめに「うまく思い出せないものごとがある」「よく覚えてない」「どうにも思い出せない」「彼が部屋に入ってきたとき、僕がどこに座っていたのか思い出せない」「ぜんぜん記憶がない」(71)と繰り返し、ストラドレイターは部屋に入ってきて開口一番「まるで死体置き場みたいじゃないか」という。これは、主人公が彼岸・冥界・異世界・無意識の世界に入ったことの表現(Q.9でホールデンは、ニューヨークへの列車で彼岸へ移動すると説明したが、どの時点で正式に彼岸に入ったかというのは曖昧で、線引きは難しいと思う。何段階にも分けて奥へ奥へ入っていくようなイメージを持つのが分かりやすいだろうか)。
彼岸で出会うストラドレイターは、ホールデンの分身・シャドウ、実在の人物でありながら、どこか影のような雰囲気が漂う。
さらに、〈水〉は最後にホールデンの上に降る雨に象徴されるように、荒地を浄化し、豊饒をもたらすもの。荒廃した精神が、象徴的な〈水〉を求めていることを示したしぐさとしても読める。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解11~20のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
