01_ライ麦畑の聖杯_J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解
こちらのマガジンでは、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、聖杯伝説的な側面から読み解いていきます。ぜひ、マガジンを通してお楽しみください。
Q.01-1 『The Catcher in the Rye』のタイトルの意味とは?
まずは、タイトルの意味から考えてみたい。村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』。これは言うまでもなく、以下のホールデンの有名なセリフから取られたもの。
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。
また、先行研究では、ホールデンがハンティング帽の庇を後ろにまわしてかぶる描写やアリーのミットから、野球の捕手を示唆してもいるのではないかと指摘されている。野球は『ナイン・ストーリーズ』の「笑い男」にも描かれているので、おそらく作者も意識していたはず。
この〈つかまえる人〉のイメージが、古今東西のさまざまな神話や伝説などに登場する、救世主の救いの手のイメージへつながっている。さらに、救世主の手は、西洋の神話・宗教・文学の伝統において〈聖杯 Holy Grail〉へと結びつく。
〈キャッチャー Catcher〉というのは、この〈聖杯〉を意味しているのではないか、〈聖杯〉をより広く言い換えた言葉ではないか、というのが本稿の趣旨になる。
というと、さっそく違和感を持つ方もいらっしゃると思う。聖杯伝説といえば、普通はいわゆる英雄物語、英雄が聖杯を求めて旅をし、試練をのりこえて聖杯を見つけ出すことでハッピーエンドになる物語。『キャッチャー』のストーリーは、一見これとはまったく違っている。主人公のホールデンも、繊細で傷つきやすく、心の中でうじうじ文句を言いながらも周りに流されてばかりで、まったく英雄らしくない。
だから、これまで『キャッチャー』が聖杯伝説として語られることはほとんどなかったように思う(私が知らないだけかもしれませんが)。けれど、読めば読むほど『キャッチャー』はホールデンの聖杯探究の物語で、そういう視点で読むと腑に落ちる部分がいくつもある。そして、そのように読むことは、他のサリンジャー作品、特に「バナナフィッシュにうってつけの日」をはじめとするグラス家サーガのさまざまな謎を解く鍵にもなる。だから、まずは『キャッチャー』のいったいどこが聖杯伝説なのか、というところから読み解いていきたい。
聖杯伝説(英雄の旅)は、ハリウッド映画などでもよく使われる物語の最も基本的な型のひとつ。だから、作家が意識せずに書いたものが、結果的に聖杯伝説と同様の構造を持っていた、というのも古今東西よくある話。しかし、サリンジャーははじめから、おそらくかなり意識的に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を聖杯伝説として書いており、それが読解のひとつのポイントになる。作者は本作を典型的な聖杯探究の物語として構想しつつ、タイトルを〈聖杯 Holy Grail〉から〈キャッチャー Catcher〉にしたように、ストーリーやモチーフを、ほんの少しずつずらしている。そのずらし方に、サリンジャー独特の遊び心と生真面目さ(説教くささ、だったりもしますが・笑)、そして少々あまのじゃくな性格のようなものがにじみ出ているようにも思う。
Q.01-2 ホールデンの聖杯探究とは?
まずは、ホールデンの聖杯探究がどんなふうに書かれているのかをおさえておきたい。最も分かりやすいのは、前半でアックリーに向かって「お母さん、手を貸してください」(40)とふざける場面。あるいは、投身自殺したジェームズ・キャッスルに上着をかけてやり、抱え上げて医務室まで運んだ(295)アントリーニ先生へ信頼を寄せる場面などからも読み取れるように、ホールデンは終始、自分をキャッチしてくれる救世主の〈手〉、つまり〈聖杯〉を求めている。
同時に、自分も誰かの救世主=キャッチャーになりたいと望みながら、今はまだ彼にその能力がないことが、手袋が盗まれていること(10)や、手を怪我している(77)という表現で語られていく。また、ホールデンは『ベオウルフ』について二度言及する(21・187)。Wikipediaによると、これは英文学の古典。英雄ベオウルフが巨人グレンデルの腕をもぎ取って戦いに勝利する物語(詳細後述)で、これも〈手〉が欠けているイメージのひとつだ。
果たして、ホールデンは自分をキャッチしてくれる救世〈手〉を見つけることができたのか。また、ホールデンは、誰かをキャッチする〈キャッチャー〉になれたのかにも注目しつつ、読解をすすめていきたい。
Q.01-3 ライ麦畑の聖杯とは?
聖杯伝説の起源は、太古の豊饒祭祀。かつては大地の豊饒を願うために行われていた儀式が神話として伝わり、中世ヨーロッパで、キリスト教の聖遺物である〈聖杯〉と結びついたという。〈聖杯〉は、もともと、キリスト教の新約聖書において、イエスの受難のエピソードで、イエスと弟子たちが最後の晩餐で用いた器、あるいは、磔刑にかけられて十字架から降ろされたときに、ヨセフがイエスの血を受けた器のこと。それが、『アーサー王と円卓の騎士』などの騎士道文学のなかに組み込まれながら発展。騎士道文学では、「聖杯の探求が、人間の精神的真実探求の強力なイメージとして中世の作家たちによって用いられるように」(M)なり、物語の中で願われる豊穣・豊漁は、やがて精神的な豊かさの象徴となっていったのだそう(K・L・M)。
サリンジャー研究者の竹内康浩氏は、『キャッチャー』に古代エジプトのオシリス神話のモチーフや、ミハイル・バフチンがドストエフスキー論で展開したカーニバル的要素、死と再生のテーマが描かれていることを指摘している(C・X)。オシリス神話も、カーニバルも、起源は聖杯伝説と同様、古代の豊饒祭祀。オシリスは穀物の神であると同時に冥界の神でもあり、植物が冬に枯れ、死に、春に再生する自然の循環を司るといわれている。
聖杯伝説のあらすじはこう。ある国を治める王が病み、大地が荒廃し、作物が獲れなくなり、民が飢える。王から要請を受けた英雄は冒険の旅へ赴き、試練をくぐりぬけ、〈聖杯〉を獲得して国へ帰還する。〈聖杯〉によって王の傷は癒え、豊饒がもたらされ、世界は均衡を取り戻す、という物語。
大地が海に、作物が魚に、豊饒が豊漁に変わったり、王が病む代わりに王妃がさらわれたり、さまざまなバリエーションがある。物語の中で、〈聖杯〉は、大地に豊穣をもたらす秘薬、王または英雄の妃となる女神や姫、不老長寿の薬、金色のりんご、黄金の指輪、死者を蘇らせる大窯、賢者の石など、さまざまな形をとって現れる。聖杯は、荒廃した大地に再び豊かさをもたらすもの、新しい生命を生み出すもの、食べ物や子孫繁栄をもたらし、大地・身体・精神の傷を治し、バラバラになっていたものを統合し、死者を再生させ、土地や心身を豊かに潤し満たすものの象徴といえそうだ。
そして、『キャッチャー』におけるライ麦畑とは、主人公ホールデンの心の中の象徴。だから、『The Catcher in the Rye』ライ麦畑の聖杯、というタイトルは、傷つき、病んで、荒れ果てたライ麦畑=ホールデンの精神が、聖杯探究の旅を通して、再び豊かに実り、黄金色に輝くまでの過程を描いた物語を表していると読める。
サリンジャーが、T.S.エリオットの『荒地』からインスピレーションを受けて、「バナナフィッシュ」や「逆さまの森」を書いたことはよく知られているが、『キャッチャー』にも『荒地』との共通点が多く見られる(詳細は改めて)。そもそも、エリオット本人による原註のはじめに、「聖杯伝説の研究書に多くを拠っている」(K)と記されているとおり、『荒地』は伝統的な聖杯伝説の型を用いながら、ロンドンの都市生活者の、堕落して荒地化した精神が、聖杯探究を通して、再生へと導かれていく過程を描きだした作品。サリンジャーはこれを参照したうえで、ニューヨークの都市生活者の、インチキ(phony)にまみれて荒廃した精神を描写し、ホールデンが聖杯探究を通して再生へと導かれていく過程を描きだしている。
『The Catcher in the Rye』ライ麦畑の聖杯というタイトルは、聖杯によって豊穣がもたらされた精神的な大地を象徴しており、エリオットの『荒地』を鏡に映したような正反対の意味、あるいは『荒地』が回復した後の状態を表しているといえるだろう。
Q.01-4 『リトル・シャーリー・ビーンズ』とは?
聖杯伝説の起源とされる古代エジプトの豊饒神話において、オシリスは弟セトに殺され、身体をバラバラにされて、大地にばらまかれる。それを、妹で妻のイシスが集め、包帯でつなぎ合わせて再生させるというストーリーで、これがミイラの起源だといわれている。また、豊饒祭祀においても、オシリスの模造をいけにえとして、バラバラにして大地に埋めたり、海に投げ込んだりして翌年の豊饒・豊漁を祈る習慣があり、これはエリオットの『荒地』のなかにも描きこまれている。
豊饒祭祀や神話のなかで、大地にばらまかれるオシリスの肉体や模造は、翌年、植物が新たに芽を出すための養分、あるいは種のイメージにもつながっているのだろう。
竹内康浩氏は、『キャッチャー』で、ホールデンがレコードを落として割り、その欠片をフィービーが引き出しにしまう仕草を、このオシリス神話と結び付けて読み解いている。ホールデンが粉々にし、フィービーがキャッチするレコードのタイトルは『Little Shirley Beans リトル・シャーリー・ビーンズ』(194)。
〈Shirley シャーリー〉という名前は、後半でフィービーの友達の名前としても登場する(272)。〈Shirley シャーリー〉は輝かしい草原の意味(『ヨーロッパ人名語源辞典』)で、〈Little Shirley Beans〉は、〈小さな輝く草原に育つ豊饒の豆〉。豆は食料として私たちの心身の栄養になり、土に植えれば芽を出す種。ホールデンが落として大地にばらまき、イシスと重ねられたフィービーによって保管されるレコードの欠片が、ホールデンの精神の豊穣を願って大地に蒔かれる豆=種であることが、曲のタイトルに示されているのではないだろうか。
Q.01-5 ジェームズ・キャッスルの歯が飛び散るのはなぜか?
『リトル・シャーリー・ビーンズ』は、前歯が二本抜けていることを恥ずかしがる女の子の歌(194)。これは、ジェームズ・キャッスルが投身自殺したときに「血やら歯やらがあたりに飛び散っていた」(288)という描写と響きあう。ジェームズ・キャッスルが死んだとき、ホールデンのセーターを着ていた(289)ことから、この二人が重ねられていることもまた、先行研究によって指摘されている(C)。
ジェームズ・キャッスルは、うぬぼれの強いクラスメイトに「うぬぼれの塊」だといったことを撤回するくらいなら死ぬことを選ぶといって窓から身を投げる(288)。ジェームズ・キャッスルは、ホールデンのなかにある、純粋さや頑なさ、子どもらしいイノセンスを体現するキャラクターなのではないだろうか。ホールデンが抱えたままでは大人になれない、社会人としては生き延びることが難しくなるであろう子どもっぽい純粋さ・頑なさを背負って、ホールデンの身代わりに死んだのだという読みもできるように思う。ホールデンは、ジェームズ・キャッスルを通して、自分の中にあるイノセンスを切り離し、逆説的に包摂することで、大人へと成長していくのではないだろうか。
そして、ジェームズ・キャッスルの飛び散った血や歯は、ホールデンの精神的な成長と豊穣を願って捧げられた、豊饒祭祀におけるいけにえであり、種なのではないだろうか。同時に、抜歯や歯の不具合は『荒地』にも描かれ、「ドーミエ」ではサリンジャーも用いているイニシエーションや精神的な不安定さの象徴(詳細下記参照)。
また、ジェームズ・キャッスルが批判する〈うぬぼれ〉も未熟さの象徴。「バナナフィッシュ」のテーマである〈鏡を見ること〉にかかわる問題(下記参照)。これが、前歯が二本抜けていることを恥ずかしがる女の子へも結びついていく。
Q.01-6 ホールデンがピーナッツの殻に足をとられるのはなぜか?
寮を飛び出す際にホールデンは、「どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ」(92)という。これは、この時点で彼がまだ、精神的な豊饒を育てられる豆=種を持たない、殻だけの状態、空っぽの青年だからだろう。
未熟な青年の不安定な精神状態が、おぼつかない足元に象徴されるのも、〈首の骨を折る〉ことで象徴的に死に、再生へ導かれるのもまた、神話の典型的なパターン。サリンジャー作品の登場人物たちが、しばしば脚・足を病み、精神的な危機に際して首元を気にする理由はここにある(足については下記参照)。シェイクスピア作品では、これが麦の穂が実って垂れると、刈り取られるイメージにもつながっていく(詳細は改めて)。
『キャッチャー』後半では、アントリーニ先生宅に「ピーナッツを盛った皿がいくつもあった」(308)と書かれている。前半のピーナッツの殻が、ホールデンを転ばせる試練の象徴なら、後半のピーナッツは、アントリーニ先生がホールデンに授ける一連のアドバイスが、ホールデンの心に種として植えられ、やがて豊饒をもたらすことを表しているのではないだろうか。
前半のピーナッツの殻と後半のピーナッツを盛った皿の対比で、寮を飛び出すときには空っぽだったホールデンの心の中に、一連の試練をくぐりぬけたあとの成長と再生、未来の精神的な豊饒の予感が示唆されているように思う。豆のモチーフは、『フラニーとズーイ』の序文にある「ライマ・ビーン」という言葉にもつながっている。この続きは改めて。
太古から伝わる豊饒神話の型を用いて、荒廃した精神の再生と豊饒を描くのは、『聖書』からシェイクスピア、エリオットへと受け継がれてきた文学の伝統。『キャッチャー』をはじめとするサリンジャー作品には、シェイクスピア作品から影響を受けたと思われるモチーフがいくつも散りばめられている。そのことは作中でホールデンが『ロミオとジュリエット』(188)や『ハムレット』(198)に触れることでも示されている。
『リア王』では、娘たちに裏切られて権力を失い、空っぽになったリアが「豆を抜かれたサヤエンドウThat’s a shelled peascod.」(松岡和子訳、ちくま文庫_55)と表現されるし、『テンペスト』の劇中劇では、「豊穣の女神シーリーズ、あなたの豊かな田畑には/大麦、小麦、カラス麦、ライ麦、ソラマメ、エンドウ。/草萌える丘陵には、牧草をはむ羊の群れ、/なだらかに広がる牧場には、冬の飼い葉の干し草の山」(121)と豊饒が描写されるなど、シェイクスピア作品には、豆と豊饒神話を結び付けた表現が随所にみられる。サリンジャーはこれらの作品から影響を受け、自作に同様のテーマを描きこもうとしているのだろう。
シェイクスピアが描く大地、エリオットが記した『荒地』、その反転としての『キャッチャー』でホールデンが語るライ麦畑は、登場人物たちの心のなかの荒廃や豊饒を映したものであり、それは読者の心の中ともつながっているといえるだろう。そして、作品を読み解いていくほどに、サリンジャーが作品に記した言葉の一つ一つ、一文字一文字が麦のひと粒、まさに〈種〉となって、読者一人ひとりの内奥に秘められたライ麦畑を豊かに実らせ、黄金色に輝かせるよう願っていることが明らかになっていく。とりわけ「エズメ」で、〈さ・り・げ・な・く〉仄めかされているので、本棚にある方はぜひ探してみてください。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
■参考文献
K_『荒地』T.S.エリオット、西脇順三郎訳、土曜社、2021年
L_『四月はいちばん残酷な月 T.S.エリオット『荒地』発表100周年記念論集』佐藤亨・平野順雄・松本真治 編集、水声社、2022年
M_『T.S.エリオット『荒地』を読む』越沢浩、勁草書房、1992年
X_『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン、望月哲男・鈴木淳一訳、1995年、筑摩書房
