06_足を見られて怒るのはなぜ?_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察
Q. シーモアが足を見られて怒るのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」にはこんな場面があります。
ホテルが海水浴客の出入りにあてている地階から、鼻に亜鉛華軟膏を塗った女が一人、青年(シーモア)と同じエレベーターに乗り込んだ。
「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」エレベーターが動きだしたとき、女に向って青年が言った。
「何ですって?」と、女が訊き返した。
「あなた、ぼくの足を見てますねと言ったんです」
「何ですって! あたしは床を見てたんですよ」女はそう言って、エレベーターのドアの方を向いた。
「ぼくの足が見たかったらそう言いたまえ」と青年は言った。「しかし、コソコソ盗み見するのはごめんだな」
「ここで降ろしてちょうだい」女は急いでエレベーター・ガールにそう言った。
エレベーターのドアが開くと、女は振り向きもしないで出て行った。
「ぼくの足は二つともまともな足なんだ。他人からじろじろ見られるいわれなんかあるもんか」と、青年は言った
ここ、印象的ですよね。シーモアの精神状態が今まさに崩壊しつつあることが、とても鮮やかに表現されています。でも、彼が過剰反応するポイントが、〈足〉を見られたことなのはなぜでしょうか。バスローブで隠せない部分といっても、手ではなく〈足〉であることにはたぶん理由がある。今回はこれを読解したいと思います。
本稿の解釈はこう。
A. 足は未熟な若者の弱点だから。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 オイディプス
「バナナフィッシュ」のシーモアが、神話のイカロスに重ねられることは下記で述べたとおり。
一度飛び立ったら、良くも悪くも限界を思い知るまで高みを目指し続けるのが、神話における永遠の少年。彼らには、若者ならではのエネルギーと怖いもの知らずの自由かつ無謀な精神で、崇高で偉大なものへまっすぐぶつかっていく気概があります。けれど、その挑戦は、しばしば命をも散らせる危険をはらむ。だからこそ、唯一無二の輝きを放つ。しかし代償として、彼らは自分の足で地面を踏みしめ、現実の世界でしっかりと生きていく、安定した大人の能力を身に着けることができないままに死んでしまいます。
永遠の少年とは、地に足がついていない者。「対エスキモー戦争の前夜」や、戦前発表の短編「ふたりの問題」で、登場人物が飛行機工場で働いていたという設定になっていること、「シーモア-序章-」の序盤で「鳥類」についての説明がなされている(128)ことについては、下記でみたとおり。立派な翼を持つ鳥の足は、細くて頼りない。この足元の頼りなさは、神話や文学において、永遠の少年を示す伝統的な象徴表現のひとつです。
オイディプス神話の主人公〈オイディプス〉の名が、〈腫れた足〉を意味すること、それが『キャッチャー』で足を引きずるホールデンに重ねられることは、先行研究でも指摘されています(C)。漁夫王伝説の漁夫王や、シンデレラ、赤い靴の女の子など、昔話にしばしば登場する、足・脚が傷ついた物語の主人公はこの系譜から解釈ができますね。精神的に未熟な若者の不安定な心の中は、足元の揺らぎとなって現れるといえるでしょう。
〈腫れた足〉という名を持つオイディプスは、無意識のうちに父(王)を殺して母(王妃)を娶る息子(王子)の物語。フロイトはこれを、幼い子どもが親離れをするときに抱く、父母との三角関係における葛藤と重ねて、オイディプス・コンプレックスと名付けました。サリンジャーは、「シーモア-序章-」でフロイトは偉大な詩人であると記しており(138)、フロイトの影響とみられる表現も複数の作品に見られます(各作品読解にて示します)。
2 サリンジャーが描く足・脚
サリンジャーは、象徴的な意味での両親(生物学的ではなく、より広い意味で、子どもの成長過程においてその役割を果たしたもの)からの影響や、そこに端を発する精神的な傷を持つ者=永遠の少年であることを示すために、足・脚の傷や、足を引きずるしぐさを描きます。程度の差はあれ、基本的には誰もがオイディプス・コンプレックスを抱えている、ゆえに誰もがふとしたきっかけで、精神のバランスを崩しかねない、足を引きずる者になりかねないというのがサリンジャー作品の世界観。『キャッチャー』のホールデンが典型的な永遠の少年であることは、下記でみたとおりです。
ホールデンは、アックリーの部屋で「床に置いてあった誰かの靴を踏みつけてしまい、あやうく倒れて頭を打ち付けるところだった」(81)、寮を出ていくとき「どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ」(92)、「床に置いてあったスーツケースにつまずいて転び、あやうく膝の骨を折ってしまいそうになった。僕は肝心なときにかぎって、スーツケースか何かにつまずくようにできてるんだよ、ほんと」(160)と何度も転びそうになる。エレベーター係に対して脚を引きずるふりをし(266)、雪が凍って滑りやすい道路(12)を歩き、スケートが下手(218)。そもそも、スケート靴が間違っている(91)など、ホールデンの足元は終始おぼつかない様子で描かれています。
サリンジャーの初期短編「ロイス・タゲット」では、夫が妻ロイス・タゲットの足めがけてゴルフクラブを振りおろすことが、二人の離婚の原因となります。『ナイン・ストーリーズ』に収録されている「コネチカットのアンクル・ウィギリー/ひょこひょこおじさん」のタイトルには、戦地で死んだかつての恋人との美しい思い出と、現在の夫や娘との暮らしの間で揺らぐエロイーズの不安定な胸の内が重ねられていますね。作中では、ストッキングの母エロイーズと、オーバーシューズを履く娘の対比が印象的。「エズメに捧ぐ」では、チャールズが語り手の足を踏み、片足を引きずるようにして歩いてみせる。「シーモア-序章-」ではバディが象徴的な義足であると描かれ、アンデルセンの「赤い靴」にも言及される。「ハプワース」のシーモアは太ももに怪我をする。
永遠の少年の心の揺らぎは、デビュー作から最後の「ハプワース」まで、サリンジャーが一貫して書き続けたテーマ。その表象として、足・脚の傷も何度も使われているんですね。
3 シビルの足とシーモアの足
「バナナフィッシュ」にもこれらのテーマが織り込まれていることは、ミュリエルと母親の会話で〈精神分析〉という言葉が使われていること、ミュリエルが精神分析のためには、「子供のころのこととかなんとか、そんなことをみんな知ったうえでないとだめなのよ」(18)と話すことから読み取れます。
同時に、シーモアが帰還兵であることが示され、彼の精神的な不安定さは、戦争によって悪化したものであることが仄めかされています。『キャッチャー』「エスキモー」「エズメ」など、サリンジャー作品ではしばしば、オイディプス・コンプレックスの傷が、広く父親世代や学校、メディアなどを含む周囲の環境により形成された、戦争へ行って自国の勝利のために戦うべきだという価値観や、敵と味方に分かれて争うゲームに見立てられた大人社会と重なりながら現れます(下記参照)。神話や昔話から続く足・脚の傷の表現に、サリンジャーも従軍した第二次世界大戦で、実際に足・脚を負傷した多くの実在の兵士たちの物語が重ねられているんですね。
だから、「バナナフィッシュ」後半、シビルが「左手で左足をつかむと、二、三度片足跳びをやった」ことに対して、シーモアが「それで万事がはっきりした。きみが思いも寄らないほどはっきりしたよ」(27)という場面は、巫女がシーモアの不安定な精神状態を見抜いたことの表現のように思われます。
シーモアがホテルのエレベーターに乗っている場面をイカロス神話と重ねて読むなら、エレベーターの上昇に比例して永遠の少年の自意識も急激に高まっていると読めます([02_蝋は好き?]上記リンク参照)。精神的な揺らぎが最高潮に達したまさにその瞬間、ただ床を見ていただけの鼻に亜鉛華軟膏を塗った女に「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」(31)と言って激高するのは、女性に、バスローブでは隠し切れない足=自分の弱点が現れる場所を見られることで、過剰にふくれあがった自意識や未熟で不安定な精神状態を見抜かれることを恐れたからではないでしょうか。
4 子どもの足
『ロミオとジュリエット』をはじめ、シェイクスピア作品に描かれている足・脚の表現については下記で考察したとおり。
ここから推測できるのは、足・脚の怪我や傷が語られる物語の起源には、幼い子どもが母体から離れ、自分の足で立ち、歩き、走ったり跳んだりできるようになることの喜びがかかわっているらしいということです。
オイディプス・コンプレックスが形成されるのと同時期に、幼児は自分の足で立ち上がり、大地を踏みしめて、よたよたとおぼつかない足取りで歩きだすことを覚える。やがて、自分の思いのままに走ったり跳んだり踊ったりできるようになると、調子に乗って自我肥大に陥る。自分の能力の限界や、バランス感覚を知らない未熟な若者は、転んでコブをつくる。心や体に傷を負い、そのたびに自分の限界を思い知り、自分の能力を制御して使いこなす術を身につけ、成長していく。イカロス神話もまた、この感覚に通じる部分があるからこそ、太古から現代まで語り継がれているのでしょう。
これがさらに、バベルの塔、下記で見たような、シェイクスピアやサリンジャーが描く、未熟者が天を目指して建てる塔や高層ビルが象徴するものとも重なってもいる。
未熟な若者が天を目指して建てる塔は、母なる大地から受ける保護と束縛から抜け出し、重力に逆らって、高みにいる父へ挑もうとする意志・自我・自意識、あるいは生命力の象徴。同時に、自分の足でしっかりと立っていられる身の丈に合った塔=精神の城・内面世界を築け、足元がおぼつかないくせに天ばかり目指している塔は崩れてしまうという教訓や戒めでもあるのでしょう。
サリンジャーが表現する、子どもの足への少々病的なフェティシズムも、ここと結び付けて考えると腑に落ちます。(ここから先はいまのところ個人的な推測というか感想、裏付け文献探し中ですが、フロイト的な解釈よりもう少し広くとらえる方が、シェイクスピア作品やサリンジャー作品で描かれる足・脚の意味がより分かりやすくなるのではないか、という気がしています)
サリンジャーは、初期短編「ふたりの問題」や、「ハプワース」でも、子どもの足の可愛らしさについて言及していますね。子どものゆがみのない足を、純粋な精神性の象徴として讃え、大人の足のゆがみを、オイディプス・コンプレックスを負い、ひねくれてしまった精神性のしるしとして対比している。
この表現から思うのは、幼いころに(おそらくはオイディプス・コンプレックスに関連する)精神的な傷や固着のようなもののせいで、少々ひねくれてしまった永遠の少年的な心を持つ者は、自分の精神的なゆがみや不安定さを、足元の不安として感じるケースがあるのかもしれない、ということ。そのような感覚が、オイディプス王のような神話やシンデレラなどのおとぎ話を生み、その発展形として、子どもや女性の脚・足などを崇めるような感覚・表現が出てくるのかもしれないということです。(ちょっと飛躍しすぎかもしれませんけども)
「バナナフィッシュ」で、若い男がシビルと泳いでいるときに「浮き輪から垂れているシビルの濡れた足の一方を若い男(シーモア)はいきなり手にとって、その土踏まずにキスした」(33)という場面も、このバリエーションではないでしょうか。[03_NYの広告マン](上記リンク)で述べたように、シビルが砂のお城を踏みつける描写を、シーモアの自我を蹂躙する仕草と読むなら、ここにもまた別の意味が加わってくる気がするのですが、いかがでしょう……?
5 長すぎるドレス
前半でミュリエルが母と電話をしながら「脚を組んだ」(14)り、「右脚に体重をかけた」(21)りするのは、ミュリエルもまた、オイディプス・コンプレックスを抱えた娘であることの表現。母親との低俗な世間話や、「昨夜お父様が言ってらしたんだけど、もしもあんたが一人でどこかへ行って、よく考えてみるというんなら、そのお金ぐらいお父様は喜んでお出しになるのよ」(19)という言葉から伝わるミュリエルの父の、シーモアへの批判的な感情が、ミュリエルの心を不安定にしているのは明らかで、それがミュリエルの脚元の揺らぎに表されています。
サリンジャー作品において、右は意識の領域、左は無意識の領域(この説明は別途まとめます)。シビルもミュリエルも左足を上げて、右脚に体重をかけているのは、現実の世界における象徴的両親の影響下で形成された価値観に足をとられていることの表現ではないでしょうか。
また、『キャッチャー』では、ホールデンのガールフレンド、ジェーンが義父との関係において精神的な傷を負っていることが仄めかされるのと同時に、バレエの練習を熱心にしていたことが語られます。バレエの美しさはトゥシューズによる足の痛みと、卓越したバランス感覚の上に成り立つもの。
「ふたりの問題」や「ハプワース」で、サリンジャーが子どものゆがみのない足をたたえ、大人のゆがんだ足と対比していることは前述のとおり。纏足やハイヒールを履く生活を強いられなくとも、成長とともに多かれ少なかれ足はゆがんでくるもの。サリンジャーは、バレエという言葉を、そんな成長に伴う足のゆがみを喚起させる記号として、特に少女や若い女性のオイディプス・コンプレックスの象徴として用いているのではないか、というのが私の推測です(むろん実際にバレエで足が歪むかは、練習方法や体型によりさまざまでしょうが、あくまで小説の表現として)。
だから、前半でミュリエルが持っているバレリーナと呼ばれるドレスが「長すぎる」(19)といわれるのは、彼女の中にある精神的な傷、未熟で不安定な、バランスの悪い心の内や、そんな精神性が現れる足を隠したいという思いを表現したものではないでしょうか。
ミュリエルに対し、既婚女性には不自然にも感じられる〈girl 若い女性〉という言葉が使われているのも、象徴的な両親の価値観に束縛された未熟な娘としての面が強調されているから。シーモアが〈the man〉ではなく〈young man 若い男〉なのもまた、彼の未熟さ、永遠の少年性を強調するためかもしれません。
6 真剣に考えてるとこ
足・脚の怪我や片足立ちは同時に、此岸=この世と、彼岸=あの世に半分ずつ足を踏み入れていることを意味します。「バナナフィッシュ」が海辺を舞台としているのも同じ理由。サリンジャー作品において、陸は現世や意識・理性の領域、海・水中は冥界や無意識・本能の領域を表し、シーモアはその両方を行き来する存在。鏡の世界に半分足を踏み入れて、此岸と彼岸を揺らいでいる人物です。
その意味でも、ナルキッソスが水際にいるのと同じ。海や泉は、墜落した永遠の少年が還っていく母なる大地・海・水中・生まれてくる前の彼岸世界につながります。
シーモアに、シビルが「水に入らないの?」と問いかけるのは、死ぬことについて考えているのかと問うことと同義だし、彼が「そいつをいま真剣に考えてるとこさ。大いに考慮してるとこだ——と聞いたらうれしいだろう、シビル I’m seriously considering it. I’m giving it plenty of thought , Sybil, you’ll be glad to know.」と答えるのは、シーモアがシビルの言葉の含意を理解しているということ。
「バナナフィッシュ」とシェイクスピアの『ハムレット』の関係については改めてふれますが、シーモアのこの迷いは、ハムレットの有名なセリフ「生きてこうあるか、消えてなくなるか to be or not to be」(『ハムレット』松岡和子訳、ちくま文庫_119)と同じものなんですね。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。「スキ」をいただけたらうれしいです。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
